夜狐猿猫

 闇は生きているのだと言う。息をして、意思を持って、蠢いているのだと、狐は言う。それは時おり、化け物だとか妖怪だとかお化けなんて名前で呼ばれる事もあるらしい。元は、なんだったのか。知る者は当然いない。もしかしたらそれは、闇の中で動く獣の事だったのかも知れないし、暗がりの中で悪事を働く人間の事だったかも知れない。はたまたそうした悪意を示した例え話だったのかも知れないが、それら全てが言霊となり生きた闇は生まれたのだそうだ。

「闇を恐れ焦がれてたんだろ」

 酒を煽り口を挟んできたのは猿だ。傍若無人に服を着せたようなその姿に、突然現れ肩を組んできたそいつの笑声が不意に脳裏に甦った。――なぁ夢じゃあねぇだろう。続けられた言葉はどろりと鼓膜に張り付いた。腹の底が歓喜と憂いに震える。あの瞬間の甘美な畏れが今も指先を痺れさせていた。

「だから名前を与え、姿を与え、自分たちに都合のいいモノにしようとしたんだろ。何しようが闇は闇だって言うのにな」

 ケケケッ。酔っぱらいが笑う。そこへ更に猫が酒を注いだ。

「けどお陰でこうして酒が呑めるんだ。悪いことばかりじゃあないだろう?」

 ねぇ、と同意を求められた狐は肩を竦めて返事を済ませた。スカしてんなよと絡むのは当然猿である。

「うるさい。これ以上絡むな。話が進まなくなる」

 どうにも犬猿の仲らしい。猫は慣れたものなのか、やれやれといった顔つきで酒を飲み続けた。

「てめぇの話はややこしいくてつまんねぇンだよ。簡潔に言え、簡潔に。時間は有限なんだろう?」

「だから、黙ってくれと、」

「あーうるせぇ、黙るのはてめぇだ狐」

「こンの酔っぱらいが――」

 止めに入るべきなのだろうか。熱を帯びていく双方の言い争いは相手を傷つける事になんのためらいも持たない音をしていた。猫はもう、こちらを見ようともしていない。その横で猿が何度目かの怒気を上げた。

「ああ? てめぇがまどろっこしいからだろが。ったく。いいか、ハレ。闇が生きてるだとかそんな前置きはどうでもいいから、よぅく聞け、そして選べ」

「猿!」

 突然の大声に、周囲が震える。何事かと振り向く視線もいくつかあった。その中で、注目の的となった狐が睨めつけるは猿だけだ。止めに入るには距離があるからだろう。加えてこれ以上騒ぎを起こすのも憚れるからか、言うなとでも言いたげな目付きを向けるだけの様子に、猿は喉を鳴らして挑発した。

「だから、黙てろっての。そんな難しい話じゃねぇんだからよ。なぁ、ハレ。お前、ここで消えるか今までどおり生きるか、どっちがいい?」

 と、訊かれたとて、困ると言うものだ。

 は、と呼気を吐きだす。頭は、大層混乱していた。確かに話は簡単になったが、意味はさっぱり分からないのだ。――だから、言っただろう。愚痴るように呟いた狐の声も遠かった。

「どういう……ことですか?」

「どうもこうもねぇよ。そのままの意味だろ」

 どうにか振り絞った問いかけも簡単にあしらわれてしまう有り様だ。けれど、疑問が尽きることもない。

「……生きるか死ぬかってことですか?」

「死なねぇよ、消えるんだから。闇に溶けて跡形も無くなるだけだろ」

「無くなる……?」

「何がそんなに分かんねぇんだよ。願ったのは、てめえじゃねぇか」

「願ってなんか、」

「願ってないとか、馬鹿な事は言うなよ? てめぇがてめえの口で言ったんだからな、このまま闇に溶けて消えたいって何度も願ったと、言ってたろ? じゃなきゃわざわざ手なんか引くかよ」

 ぞわり、腹の底が震えた。なにか、生まれてはいけないものが殻を破り姿を現そうとしているのだ。駄目だと脳の内側で誰かが言った。ケケケッ。猿の笑声が続いて響く。呼吸もままならない。今まで以上の恐怖が体を震わせていた。

 否定など出来るわけがなかった。猿の言う通りだ。もう、何度願ったかも分からない。この身は夜に焦がれていた。朝を憎んだ数も含めれば膨大なものになるだろう。そのほとんどは戯れに祈ったものである。朝を憎む思いも、昼にはほとんど溶けているのだ。ただのルーティン。その、はずだったのに。どうして、冗談で済ませてくれなかったのだろうか。

 まるで悪さをしたことが大人にバレた子どものような心地だ。どうしたって見つかってしまう。そいつは、今にも産声を上げようとしていた。

「なぁ?」

 無言の間に短気な猿は同意を求めた苛立った声を上げた。助けを求めて見つめた先は狐の面だ。その両の目は何故だか悲し気に揺れてる。

「始めから、分かってはおりました」

 落ち着いた口調はそう話し出す。

「あなたが闇に焦がれていることも、その焦がれ求めた想いに惹かれた闇が、あなたをここへ引き入れたのだということも……分かって尚、私はあなたを光の中へに戻したかった」

 偽善だ。混ぜ返すように猿は言う。

「ここまで来といて何を今さら、」

「お前が、何も言わずに手を引かなければ良かったんだ」

「だからとろくせぇんだよ、狐は」

 段取りだよ。ようやく口を開いた猫はそう言い返した。

「きちんと説明をして、納得してもらった上で闇に招く。皆が知ってる決まりじゃあないか。」

「それがまどろっこしいんだよ」

 繰り返されるやり取りの終わりは決まってこれである。狐はため息を吐き諦めを示し、猫もまた呆れた呼気を吐き出した。

「なぁ狐、こいつにはいくら言っても無駄さね。神格のない、ただのケモノだよ、これは」

 ケケケッお上品になんかやってられっか。酔っぱらいは笑う。猫は「もう潰れちまえ」とその盃を満たした。朱塗りの眦と視線が合う。狐は、本日は一旦お帰り頂きますと疲れた様子で告げてきた。

「猫が申し上げた通り、納得頂けないまま進める訳には参りませんので。ご了承ください」

「ひどい奴だ、ここまで聞かせておいて帰すと言うのか」

「もう、黙れ」

 そう言って柏手をひとつ。響いた音に意識がぐらついた。

「あ、あの!」

 その中で何とか声を張り上げ尋ねる。指先が狐の衣を掴んだ。

「結局、消えるとどうなるのですか」

 瞬間、狐の面は躊躇いを見せた。唇が真一文字に結ばれる。が、こちらの圧に負けたのか、寂しげにこう告げてきた。

「どうにもなりませんよ。全て消えてしまうだけですから」

「全て?」

 声はだんだんと遠くなってゆく。

「えぇ、生まれてからこれまでの全ての記録と記憶からあなたの存在が抹消されるだけです。始めから、何も無かったかのように」

 ――闇は、あなた様の生の全てを呑み込んでしまうのです。

 僅かに聞こえたその言葉を最後に、ひとつ瞬きをした身体は見慣れた室内へと戻ってきていた。暗がりに滲んだ天井を見上げる。静かな、夜の中で、あぁ……と、吐息を漏らした。腹の底では、何かが羽化した感覚がしていた。なんと、なんと甘やかな話だろうかと、脳髄が蕩ける心地がしたのである。ようやく呑み込めた事態に箍も外れたようだ。クツクツ喉が鳴る。

 結局は、猿の言う通りだったということか。口をひん曲げて笑うあれの顔を思い出した。

 本当に、ここまで聞かせておきながら、今さら光へ帰れと言うのか。

 狐の優しさに笑ってしまう。

 死にたいとはあまり思っていない。だから、生きていたのだが、生き続けるのならばそれ相応にやる事は連なってゆく。同時にやりたい事も重なり、その度死は遠ざかっていた。

 けれど、朝はどうにも苦手だった。楽しいことがあろうと無かろうと、直ぐには起き上がれなかった。部屋に残った暗がりをぼんやりと見つめ考えてしまうのだ。どうしてこの身は夜に溶け、朝靄と一緒に消えてくれなかったのだろうと。始めから何もなかったように消えてしまえたなら、良かったのにと。願う度に叶わないその思いに苦笑していた。

 そう、叶わないはずだったのに。一夜にしてその常識が覆されてしまったのである。これには参ったと、猿を、狐を、猫を恨んだ。よくもやってくれたなと、笑い、呻いた。

 夜はあとどれ程の時間余っているのだろうか。やがて来る朝に思いを馳せてみた。何てことはない、今まで通りの日常を思い描き嘆息する。やはり、死にたくはないのである。それでも、消えてしまいたい。矛盾した思いにクツクツ、喉を鳴らし続けた。夜は静かなままだった。

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