夜狐猫

 夢じゃあねぇからなと残された声を今も鮮明に覚えている。あれから一月経った夜。まだ涼しさを感じる夜風を頬に受けながら、残り僅かな帰路をひとり歩いていた。

 夜は、静かだ。相も変わらずに。あの日を境に何かが変わるということもなく。以前と変わらない静かな時を過ごしていた。人成らざる者共が視界を横切る事もなかった。やはり、夢、だったのだろう。と、そう結論付けるのがたぶん、一番いいのだろう。そう、頭では分かっていたけれど、その度己の考えを否定するようにあの声と酒精の香りは思い出されるのだった。夢じゃあねぇからなと、猿が笑う。あの声が耳にこびりついていた。

 じゃあなんだと言うのか。答えを知る者はいない。あの猿にまた腕を引かれても困る。ただ平穏につまらない毎日を積み重ねられたならそれがいいと強く思っているのだ。あんなイレギュラーはもういらない。たまにこうして、猫に出会えたならそれで良かった。――今日はいい日だ。野良たろう黒猫が車の下に座っていた。

 金の目を持つ黒猫だ。人に慣れているらしい。近づいても動く様子はない。――触ってもいいですか? 囁き声は夜に溶けた。猫は言葉を理解してくれたのだろうか。視線を逸らしたきり、やはり動こうとはしなかった。

 柔らかな毛並みに触れる。途端に小さな月がこちらを見た。不機嫌だと誰もが分かる目付きだ。どうやら触れてはいけなかったらしい。温もりが身動ぎ、足を伸ばした。ごめんと声を掛ければ横を通り過ぎてゆく。その途中で、長い尾が体に触れた。次の瞬間。

 くらり、突然、視界が歪んだ。

 ふらつく体は地面に膝を着く。

 その近くで猫の鳴き声が聞こえた。

 目蓋を閉じたのはたぶん一秒にも満たない。

 その、はずなのに。暗い視界の中で呼吸を整えた肺が甘い香りに満たされた。そこに酒精が混じり、言葉とも呼べないさざめきが聞こえてくる。そうっと目を開けた。頭上には、空を埋め尽くすかのような見事な藤棚だ。あの日の光景に、よく似ている。そこは、人成らざる者共の宴の席だった。

 またか、と吐き出すため息に高鳴る胸中は誤魔化した。期待でもしていたのか。何度も思い起こしていたあの夜へ向ける感情が揺らぎだす。いや、元々持ち合わせていたのだろう。好奇心にも似たその心を認めたくなかった己の理性に苦笑した。

 それでも日常へ帰りたいと思う心に嘘はない。やらなければならない事も、やりたい事もまだたくさんあるのだ。だから――あれは何処だろうか。混乱も僅かに動き出した両目は、早速と朱色の目元を探し始めた。出来るならば猿には会いたくないのだ。とすれば頼る相手はひとり――そう数えてよいものかはわからないが――だろう。狐の面を探して辺りを見渡した。その首もとに、腕は絡み付いてきた。

「なんだ、あんた客かえ?」

 藤とは違う別の香に二つの満月。真っ赤な唇を大きく歪ませて、黒猫の面は笑った。

「ハレに妙な匂いが付いてるモンだと思ったら、そうかい、あんた誰かの客だったんだねぇ」

 そりゃあ悪いことをした。待ち合わせでもしてたのかえ? 饒舌は止まらない。ゆらゆらと揺れる徳利からは強い酒精が漂っている。宴の席なのだから当たり前なのだろうが、ここに来るのは酒飲みばかりらしい。小さな盃を満たし、ひとりで煽った黒猫は、あんたも飲むかえと空の器を差し出してきた。

「連れが来るまでは暇だろう? それまでの間だけ。あぁ、同じ盃じゃあアレだねぇ。ちょいとお待ちよ。狐……狐! 誰か空いてないのかえ?」

 口を挟む間など一度もないまま状況は転じてゆく。探していた相手を呼び出して貰えたのは僥倖だった。どこにいたのだろうか。「はい、只今」と狐の面がやって来た。その両目が大きく見開かれる。

「また、あなたですか、」

 思わず溢れ出たのだと信じたい。第一声は、とても客相手とは思えない呆れた口調だった。うろりと視線を漂わせたのは猿の面を探しての事だろう。申し訳ない。頭を下げつつ原因を指し示す。黒猫は、あなたでしたかと嗜める狐を気にもせず、何故か首筋へと鼻を押し付けてきていた。

「狐の匂いじゃあないはずなんだけどねぇ。アレがお前の連れかえ?」

 そう語る吐息が肌を擽りこそばゆい。ぞわり、腹の奥底で何かが震えた感覚がした。クスクス笑う鼻先が首裏を滑る。高い声は艶やかだった。

「なら、わたしが貰ってやろうかねぇ。狐は、今日も仕事で忙しそうだから、ねぇ、いいだろう?」

「えぇ忙しいですよ。ただ花の盛りに来て酒を飲むあなた方と違って、我々はその管理を任されていますから。お暇そうで羨ましい限りです」

「猫はそういう生き物さ。知っているだろうに。手伝いなんかさせたら枯らせてまう」

「もちろん、あなた方が気紛れであることも存じております。ですから、その手をお離しください。それは猿が興味本位で手を引いただけの、その気のないハレなのですから」

「あぁ、なるほどねぇ。これは猿の匂いかえ。それなら止しておこうかねぇ。あれは、イタズラが過ぎる」

「えぇ本当に」

「その癖、勘が良いから面倒だ。ねぇ、そうだろう?」

「……えぇ」

 ここで、滑らかだった狐の舌が鈍った。こちらには聞かせられない内容なのだろう。何かを含むような間が、視線の内側に漂っていた。

 口を挟むのなら、たぶん今なのだろうと思う。けれどなんだか喋ってはいけないような気がしていた。自分自身の事なのになんだか他人事のような気がしているのだ。

 やはりここは、夢、なのだろうか。そう思うと全ての出来事が遠く、遠くなってゆく。どこかで上がった笑い声も、視界に入る人成らざる者共も、空を覆う藤棚も、なるほど夢ならば納得が出来ると言うものだ。

 つまり、何度もあの猿を思い起こした所為で深層意識がどうのこうのと言う話なのだろう。朝目覚めた時に苦笑いでもしておこう。引っ掛かるのは、前回も今回も寝るまでの記憶が無い事だが、それでも、夢に違いないのだと理性は言う。

 馬鹿を言うなと反論するのは直感か。背後から肩を引き寄せるこの温もりも幻なのかと、頭の中の誰かが問いかける。狐を睨めつける双眸の冷たさ。鼓膜を震わせる誰とも似ていない高い声も、嫌にリアルじゃないかと。

「このまま帰すつもりかえ?」

 考える間にも意識は混濁してゆく。ゆめうつつ。眠りと覚醒の合間でとろりと体が溶けるような感覚がした。夢の中でも眠るとは可笑しなものだ。と、つい笑ってしまう。首もとに、猫の腕が絡まった。そのまま強く力を込められる。

「こら勝手に形を崩すんじゃない。そのままだと混じるよ」

 途端に浮上した意識が息苦しさに騒ぎだす。離せと腕を叩き体を捩らせた。ズルリとそこから引き出してくれたのは、以外にも狐の面だ。力加減が分からないのだろう。思わず、痛い、の一文字目を溢してしまった。慌てて離される。その手の小指だけ爪が短い事が気になった。

「あ、ありがとうございます」

「いえ……断りもなく触れてしまい申し訳ございません」

 そう言って下げられる頭に添えられるため息。丁寧な口調とは裏腹なその態度が言葉を詰まらせた。不揃いな右手は小指から順に閉じて開いてを繰り返している。何かを確かめているらしい。その動きをじっと見つめた。

「ははっどうするえ、キツネ。お前の匂いも付いたじゃあないか」

 背後からは笑声。立て膝で酒を煽る姿はそれだけでも相手を焚き付けられよう。皮肉に上がった口許も様になる。黒猫は楽しげに両の月を輝かせた。

「……分かりました」

 対して狐の声は疲労の混じった音だ。否、悲しみに湿った音か。しかし、何故。尋ねられる雰囲気はまたも無く、物語は進んでゆく。

「きちんとお話致します」

 再度垂れた頭に、いつの間にか全ての爪が綺麗に整った右手。揺れる藤棚を頭上に、終わらない夢が続いている。ケケケッ。笑ったのは、猿か。――なぁ? 楽し気に、耳元で囁く声を聞いた。

 ――夢じゃあねぇだろう?

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