夜話
雨月 日日兎
夜猿狐
真夜中近くの駅構内は、昼間の騒がしさを呑み込んで静寂を吐き出していた。電車からこぼれ落ちた数人の足音が響く。皆帰路を急ぐように足早だ。
あの、と目の前の女性に声を掛ける男がいた。キャッチだろうか。すげなく追い返された彼は仲間内の元へと戻り「ダメだったや」と軽く笑った。ナンパでもしようと思ったのだろう。はた迷惑なことだ。前を歩く女性の背を眺め思った。
こちらに声は掛けられない。呼び止められた所で気持ち悪く思うだけだから良かった。内心の不安を拭う為にひっそりと笑う。マスクの下の口許が緩まり、また引き締まった。
歩く先から、タイヤの転がる音が聞こえてきたのだ。スケボーだろう。どんな類いの人間だろうか。意識だけそちらに向け、観察をした。
夜の人間は不安ばかり与えてくる。昼間と違う生き物のようにも感じる。いや、たぶん、違う生き物になってしまうのだろうと妄想もした。きっと、深い夜を吸い込んだ所為で、内側から別の生き物と成ってしまうのだと想像を膨らます。人のような生き物は、スケボーを転がすだけでこちらに見向きもしなかった。大概、そんなものだ。
そう、思ったのも束の間。背後から聞こえてきた駆け足が、不意に腕を掴んできた。えっと上げた声は吐息で終わる。心臓が痛いほど脈打った。足は絡み転びかける。その先に居たのは、猿の面。振り返ったそいつがニィっと口許を笑みに歪めた。悲鳴も出やしない。恐慌の中で、右足が何かを踏み越えた。
ぞわり、鳥肌が立つ。
呼吸も儘ならない。
先までの静寂が嘘かのように騒がしい。
そこは、人成らざる者共が跋扈する桜花の宴の席だった。
そもそもこんな場所に桜は植えられてなかっただろうと、思考は早々に目前から逃避を始めた。きっと自分は既に電車に乗っていて、転た寝でもしてしまっているのだろう、と。とんだ夢を見たものだと、己の創造力に感心さえする。これを元に本でも書いたならばきっと大ベストセラーになるんじゃないだろうか。逃げ惑う。心と裏腹に鼓膜は背後からの声を拾い上げた。
「や、そこの、そこのお客さま」
蚤の心臓が跳ね上がる。何故だろう。己に掛けられた声だと分かってしまった。なれど振り返ることは出来ない。固まった身体を甘い香りが覗き込んできた。
「あぁ、何処からお越しか存じませんが、今の今まで杯も渡さず申し訳ございません。今空いた物をお持ちしますので、どうか今しばらく――……おや、お珍しい。ハレのお客さまでいらっしゃいましたか」
狐の面だ。眦が朱く縁取られている。白い狐。人間のような姿をしたそいつが、スンと鼻を鳴らした。
「これは、これは、また……。気付かず申し訳ございません。いやはや、お珍しいこともあるものだ。しかし、これは……うーん。失礼ですが、お客さま。迷い込まれたにしては何やら別の匂いが付いているようですが、お連れ様はどちらでしょうか? 名か特徴を申して頂ければ、この狐が席までご案内致しますが、いかが致しましょう」
などと言われてどうしろと言うのだろうか。ここは、夢で。悪夢で、自分は早く覚めろと願っている所だというのに。何を話せと言うのか。痺れた舌はそんな文句も紡げやしなかった。
「なんだ、闇は、嫌いだったか?」
そこへ現れたのはどこか陽気な声だった。酒精を纏ってそいつが肩を組んでくる。覗いた顔は猿の面。ニイっと笑った口許が勘違いだったかと、疑問とも独り言とも取れる言の葉を吐き出した。
「猿。連れてきたのなら放り出すな。きちんと帰すまで、面倒を見ろ」
狐面は、先ほどと打って変わった口調で文句を垂れる。ケケケッ。反省した様子もなく笑うのは勿論猿だった。
「だからこうして来たんだろう? そう怒るなよ。せっかくの宴なんだ。客は、多い方がいい。なぁ、お前も、そう思うだろう? 今日は月のない桜花の夜なんだ。春の宴だ。一緒に祝ってくれないか、ハレの客人よ。さぁ杯を持て、酒を飲め。夜はまだ長いぞ」
「阿呆が。何の説明もなく連れてきたのか。なら帰せ。ここは闇だ。その気のないハレの居る場じゃあない」
「その気があると思ったから連れてきたんだ。なぁ、ハレの。お前は知っているものなぁ。闇が生きている事を。だから畏れ、焦がれ、求めていたのだろう?」
それともやはり、勘違いだったかと猿は言う。声はやはり出なかった。それでも少しずつ身体の強張りは解けてきたらしい。言い争いを見るうちに取り戻した呼吸が強い酒精の香りを肺に運んだ。それだけで、酔ってしまいそうだと思う。未だに回らない頭は、どうやら狐も回答を求めているらしいと他人事のように目の前の光景を眺めていた。
どうせ夢なのだ。
不意に浮かんだ感情がさらに身体を軽くする。その間に、堪えきれず「なぁどうなんだ」と猿は乱暴に揺すってきた。まぁ、そうですねとようやく回った舌はたどたどしく言葉を紡いだ。嘘は、無かった。
「夜に溶けてしまえればと、思ったことは何度かあります。ずっと夜に居れたらと思ったことも、そうですね、たまにありました」
けれど闇は畏ろしいから、きっと自分は昼の生き物なのだろうと結論付けてきたのだ。だから焦がれはしても諦めてきた。この夢はそんなところから広がったものなのだろう。
狐はまだ難しい顔をしていた。逆に猿は深く頷き同意を示している。その手にはいつの間にやら徳利が一本。ゆらゆらと揺らされたそこから、透明な液体が杯を満たした。
「じゃあ飲もう、さぁ飲もう。酒はいいもんだ。酔えるし、美味い。そら、ひと息に!」
「馬鹿を、言うんじゃあない」
と、ここで柏手をひとつ。狐が打ったことで意識が鈍った。睡魔に襲われ、耐え難い眠気に堪えているかのようなそんな感覚だ。突然のそいつに、脳は再度パニックをおこす。
「なら、全て説明してから連れて来い。どんなに望んでいたとて、この人はハレの生き物だ」
「つまらねぇ、つまらねぇ。せっかくの宴、その余興だというのに。まったく、つまらねぇ狐に見つかったもんだ。酒が不味くなる」
「なら丁度いい。場を荒らすのなら帰れ。客人は、こちらで面倒を見よう。猿よ、これ以上は他も見過ごさないぞ」
今度は、何を言い争っているのだろうか。今にも途切れそうになる意識が拾い続ける声は、はいよ悪かったねと素直に謝っていた。たぶん、猿だ。酒の匂いもまだする。そいつは、最後に耳許で囁きをひとつ残していった。
柏手が遠くから聞こえた。
申し訳ございません。と狐の声。
それから、電車の揺れる音に最寄りを告げる声が重なった。
目を開く。そこは、夜の中。なれど闇は遠い光の中で思い出す。
「夢じゃあねぇからな」
猿の声。それに続いてケケケッと何処からか、笑い声が聞こえた気がした。
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