第六十四話 深淵(10)

「どうやって渡る?」


 ズデンカは訊いた。


「全力で走っていけばなんとかなるよ」


 と大蟻喰は脳味噌が筋肉で出来ているかのような発言をした。


「火傷するだろ」


「火傷しても僕は治りが早いから、他の肉で代用すればいい」


 ズデンカはあまり詳細を聞きたくなかった。よくはわからないが、大蟻喰はさまざまな人間の肉を喰って、それを身体に纏い尽かせている。


 一つや二つ焼け焦げたところでどうということはないのだろう。


「いや、お前には今後も戦って貰わなければならない。あたしも炎には気を付けたい。変に焦げても困るからな」


 とは言え、ズデンカも安全に炎をぬける方法はなかなか思い浮かばない。


 そうこうしている間にも炎の舌は迫ってきていた。勢いは強くなっている。


――ここではもう二度と『鐘楼の悪魔』を作れねえな。


 とズデンカは思ったが、ハウザーの余裕綽々よゆうしゃくしゃくとした様子に不安を感じていた。


――ハウザーは絶対にルナに何か暗示を掛けているはずだ。たとえ、ビビッシェの姿から元に戻ったにしても……。


 と顔を見たルナが、静かに話し始めた。


「わたしが何とかする」


 ルナは炎に向かって歩いていった。


「やめろ!」


 ズデンカは押し留める。


「君とステラだけに戦わせるわけにはいかない……これは、わたしの戦いだ。もううじうじしてなんていられない」


 ルナは小声だがしっかりと言った。


「そうか。だがどうする?」


 ズデンカは訊いた。


「こうする」


 ルナは手を翳した。


 途端に炎は収まった。黒焦げになった印刷機の残骸が幾つも現れた。


――ルナの能力も、強くなっている。


 ズデンカはふと感じた。どうしてだかはわからない。だが以前のルナは幻想を出現させはしても、既に存在している自然物を消し去ることは出来なかったはずだ。


「へえ、ルナはすごいんだね」


 大蟻喰は素直に感心して歩き出していた。


「おいおい!」


 ズデンカも追い付く。


  実際、炎は完全に消えている。実は燃えているのを消化したように見せたわけではないらしい。


「すごくないよ。本来、守るべきものを何も守れなかった」


 ルナはしょぼんとして言った。


「おい、守るべき者はまだいるだろ? 戻ろう、さあ」


ズデンカはルナを怒鳴り付けた。


 そして、ルナの身体をひょいと担ぎ上げる。


「うわっ! やめてぇ!」


 ルナは素っ頓狂な声を上げる。


 いつもの調子が戻ってきたのだろうか。


「急がねえと間に合わん」


 扉へと登って、ドードー鳥の背中を滑り降りる。行きは大蟻喰に乗って静かに移動したが、帰りはもうそんな余裕はない。


 ハウザーの言は正しかったらしい。漆黒の帳と無数の星が頭上に広がっていた。


 だが、無数の発砲がその間を縫って繰り広げられていた。


 戦闘が始まっているのだ。


 おそらくは未明。


――何日のだ。


 ズデンカは日付を確認する術を持たない。ルナの能力でもさすがにそこまではわからないだろう。


「おうおう、えらいことだねえ」


 大蟻喰はゆっくり背中を降りてきた。


「急ぐぞ」


 ズデンカは走り出した。


――カミーユ、ジナイーダ。


 皆の無事を願いながら。

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