第六十四話 深淵(9)

――クソッ。


 ズデンカはハウザーにまんまと嵌められていたことをった。


 ここで戦っているうちにルナの誕生日が――パヴィッチが阿鼻叫喚の巷になるときが迫ってきていたのだ。


 それだけではない。


 カミーユも、ジナイーダも、他の連中もどうなっているか心配だ。


 ハウザーの言っている内容が正しければ、何しろ二日近く連絡がないのだ。


――早く戻らなきゃなんねえ。


 ズデンカは決意した。


 そして強くルナを抱き寄せる。


 退くがハウザーは追ってこない。


 ただ相変わらず笑いを浮かべているだけだ。


――これもぜんぶ自分の手のうちだとでも言いたげだな。だが……。


「覚えてろ。絶対に殺してやるからな」


「どうぞ、ご勝手に」


 ハウザーは答えた。


 ズデンカは退いた。


 ルナは大人しく尾いてくる。

 

 呼吸は穏やかで、やがて途切れてしまうのではないかとズデンカは心配になった。


 ルナをビビッシェに戻すなり何なりして、自由に動かし、全世界に『鐘楼の悪魔』を広めるという大望を実現出来る算段はつけているのだ。


 暗い道を引き返してくる途中で、ズデンカは大蟻喰と出会った。


 流石にもうのっぺらぼうではなく、元の姿に戻っている。


 その両手はペンキを塗りたくられたように血で真っ赤だ。


 激しい戦いを繰り返したことがわかった。


「ルナ! ルナ!」 


大蟻喰は最初ズデンカに文句を言おうとぶーたれ顔で迫ってきたが、ルナを見て表情を変えた。


「ステラ……」


 ルナは大蟻喰の本名を言った。


「何があったんだよ」


「ハウザーから逃げてきた」


「いや、殺せよ! ルナをあんな風にした奴だ。今すぐ八つ裂きにしないと気が済まない。ちょっと行ってくる!」


「よせ。ハウザーはあたしでもすぐには勝てないだろう。本当の力を隠している気がする」


 ヴルダラクの始祖ピョートルの血を受けてから、ズデンカは何となく相手の強さを吐かれるようになっていた。


 クラリモンドは同等以上だが倒せた。コールマンは同等で引き分け。


 一番厄介なダーヴェルがそろそろ動き出す可能性は高い。


 ハウザーは吸血鬼でこそなかったが、物凄い力を秘めていることが、なんとなくわかった。


 ダーヴェルよりも、おそらくは強い。それがよくわかっているから、『ラ・グズラ』はハウザーと共闘したのだ。


 人間を馬鹿にしている吸血鬼が、素直に従うわけがない。強さという絶対の物差しがあったからこそ初めて従ったのだ。


「なんだよ、じゃあ黙って見てろって言うんだね?」


 大蟻喰は怒鳴った。


「いや今は退くだけだ。ムダに戦って戦力を消耗するより、態勢を建て直す方が先決だ」


 ズデンカは言い聞かせた。


「はぁ……」


 大蟻喰はなお不満そうだった。


「それよか早く戻るぞ。ハウザーによれば、この深淵では時間の進みが速い。二日ぐらいすぐに経っちまうかも知れないぞ」


「なんだって」


 大蟻喰は驚いていた。


「ハッタリかもしれんがそうも言ってられない……何しろ」


 血の臭い以外には疎いズデンカだが、それでもちゃんと嗅いでいた。


 向こうの方――先ほど通ってきた場所では、破壊された印刷機が燃え、周りにも引火していた。


 炎の柱が立ち、蛇のようにうねりながら頭上まで舞い上がっている。


 にも関わらず、ズデンカたちはそこを通って戻らねばならないのだ。

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