第六十四話 深淵(8)
ズデンカは力が強い。
しかもその加減がよくわからない。普段ルナを殴るときはそれほど力を入れないようにできるようにはなっていた。
だが、今はどうだろう。
潰してしまうかも知れない。
ズデンカはそれほど、動顛している。
でも動顛している一方、冷静に考えようともしている。
だから、心の内側はともかく、表面上はルナより落ち着いている風を装わなければならないのだ。
「ルナ、戻ってこい」
ズデンカは静かに言った。
「……」
ルナは答えない。
「みんな待ってる。カミーユも」
ルナを嫌っているジナイーダの名前はあえて出さなかった。
「……無理」
ルナは小さく言った。
「どうしてだ」
「無理だよ……わたしはこんなに罪深い。同胞を殺して……ビビッシェを殺して……もう普通の人生なんか戻れるわけない……死ぬのも怖い……」
「殺してるっていうならあたしだって殺してる。別にお前だけじゃない。恥ずべき人生を背負いながら生きてるやつなんてたくさんいるさ」
ズデンカは言った。ビビッシェを殺して、のあたりの詳細は訊きかったが、訊かないことにした。
ルナの体温が伝わってきた。
「でも……わたしは悪名を残しすぎた」
「お前はビビッシェの名前を使った。お前の名前は何も傷付いてないだろ?」
ズデンカは訊いた。
「でも……」
「じゃあこのままビビッシェを名乗り続けるのか。その方がビビッシェの名前を冒涜してることになるだろうがよ」
ズデンカはやや辛辣に言った。
「……」
ルナは黙ってしまう。いつもなら減らず口ばかり叩くのに、こういう時だけは大人しいのが癪だった。
「ひっく……ひっく!」
ルナはすすり泣き始めた。抱きしめられているので顔は覆えず、涙は自然とズデンカが来ているメイド服の白いエプロンを濡らした。
「泣けよ。思う存分泣くがいい」
ハウザーに嘲るような眼で見られていることを自覚しながら、ズデンカは言った。
「怖いよ……死ぬのが怖い」
「今さらなんだ。人が死ぬのは当たり前のことだ」
ズデンカは呆れた。
『自分のもっとも愛する者を吸血鬼には出来ない』
確か、それに近いことをヴルダラクの始祖ピョートルが言っていた。
――いいさ。別にそれで何が困ると言うんだ。
「……」
黙り続けるルナに、
「なら、あたしは最期まで……お前が死ぬまでずっとそばにいてやる。それでいいだろ。……戻ってこい」
ズデンカは言う。
ルナは驚いたように目を瞠っていた。
ズデンカはもう言葉を重ねず、ルナをギュッと抱きしめていた。
「うっ……うっ」
ルナがまたしゃくり上げ始めた。と、その髪の色が、表情がだんだん、ビビッシェではなく、ルナのものに還っているではないか。
「泣くな」
ズデンカはルナを離した。
そして、ポンとその頭を撫でた。ルナに対してそんなことをしたのはひさしぶりだった。
「服、なくしちゃった……シルクハットも」
ルナはスワスティカの制服を着ていた。
「宿屋に置いてるだろ。じゃなくても買えばいい」
「……うん」
「さて」
ズデンカはハウザーを見やった。
相変わらず笑みを引っ込めていない。
「感動的な再会だったね……でも、良いのかな? この深淵ではね。外とちょっとばかり時間の経過が違うんだよ」
「なんだと?」
ズデンカはハウザーを睨んだ。
「反乱軍の連中が、パヴィッチに攻め寄せてくるまで、もうすぐだ」
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