第六十一話 羊歯の褥(5)

 愛するだの愛されるだの、絵空事のようにしか思われなかったのだ。


 ズデンカはもっとリアルな世界で生きている。


 そのはずだ。


「儂は心から愛した人間を吸血鬼にできなかった。そして儂の血を受けたイグニャットもまた、心から愛した人間を吸血鬼に出来ずに亡くした。だからやつは自棄やけになり儂の元を去ったのだ。この呪いは儂の血と共に受け継がれるに違いない」


――何だ推測かよ。


『推測ではない。予感だ。お前にはわからぬだろうが』


「あたしも予感がすることはある。そんなものに頼るのは馬鹿らしいと思うだけだ」


『血はいるのか? 要らないのか』


 ピョートルは苛立ちを隠さずに問うた。


「要る」


 ズデンカは即答した。


『なら、儂がじきじきにやろう』


 次の瞬間、ズデンカは目を開いた。元いた羊歯の褥に戻っていた。


「おお、戻られましたか」


 メルキールが明るく言った。


「ああ。血を貰えることになったぞ」


 ズデンカは返した。


 正直こんな萎びた老人から血を吸うなど、やりたくもないことだ。


 だが、ルナや仲間たちを救うためにやらなければならない。


 ズデンカが無理矢理吸おうと老人の上に身を屈めたとき、その瞼がうっすらと開いた。


「起きたか」


「ああ」


 長い間横たわっていたためか、老人は手脚を動かすのに時間が掛かっているようだった。骨の鳴る音がする。二十分ばかりかけて半身をやっと起こした。


「血を飲ませろ!」


 ズデンカは焦っていた。


 何となくあたりの景色が明るいような気がする。


 そろそろ、夜が明けるかも知れない。


「待て」


 老人はのろのろと動きながら長い爪で自身の左手首を切り裂き、そこから血を溢れ出させた。


 どす黒い色でまるで泥土のように思われた。 ズデンカは奪い取るようにその手首を持ち、血を啜った。 


――うっ、何だこりゃ。


 口に含んだ途端、激しい痛みが全身を襲った。血が針金のように下から身体の奥の奥に降りていく。


「イツッ」


 思わず声を漏らしてしまう。


 ズデンカには痛覚はないため、長く痛みを感じたことがなかった。


 既に死んでいるのだから、病気や怪我を負うこともない。


 なのに、まるで身体中に錐を立てられるような激しい痛みが貫く。


 二百年ぶりの痛みだ。


 血が、ヴルダラクの始祖のより濃厚な血が、自分の中に降りていくのだ。


 ズデンカは地面をのたうちまわった。警戒心の強いメルキオールは既に何歩も後ろの方へ退いている。


「ああっ!」


 喉が締め付けられるほど熱い。あまりの激しさに身体が初め飛ぶかと思われた。


――ここまでして、何のために、誰のためにあたしは。


 耐え難い痛みを耐えながら、ズデンカは思っていた。


――ルナ。


 激烈な痛みのなかで、縋れる名前はただ一つだけだった。


なぜだかはわからないが、ピョートルの言った愛した人間を吸血鬼にはできないという言葉が浮かんだ。


――これで、あたしはルナを吸血鬼にはできないのか。


 ルナは何度も吸血鬼になる気はないと言っていた。だがズデンカは心のどこかでいつかはルナをヴルダラクにできるものと信じていたのだ。


 それが永遠に断たれるのかと思うと寂しかった。


 とても寂しかった。

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