第三十六話 闇の絵巻(5)
「今日、まだ明るいうちにお前以外の霊と出会った。そいつとは話すことが出来た。なぜ、お前とは出来ない?」
思わず訊問口調になっていた。
ズデンカの悪い癖だ。
「……わかりません。私、自分が死んだのかもよくわからないのです。だんだん身体が弱っていって……気がついたら」
大蟻喰が降ろしたインゲボルグの霊は震え声で言った。
「まあ自分が死んだと解る人間はいないだろうな」
ズデンカはここらで切り上げることにした。
インゲボルグは普通の少女だ。だから何も知らないのは仕方ない。
「それは霊によって等級が違うからさ」
暢気な声が背後で響いた。
ルナだ。手にはパイプを握っていた。
「窓を開けて一服するぐらい、別に良いだろ」
振り向いたズデンカと眼が合うと、言い訳がましくルナは答えた。
「等級ってどういうことだ」
「現世に未練があればあるほど、霊ってものは実体性が上がるものなんだよ。これも神智学の研究によって明らかにされている」
「蘊蓄はいらねえよ」
ズデンカは断って置いた。
「まあ、とにかくの話だ。さっき会ったヴラディミールさんは悪魔モラクスに使役されたとは言え、自分だけが生きてしまった悔恨を抱えながらこの世界に縛られていた」
「それなら一日も早く昇天したいと考えそうなところじゃねえか」
ズデンカは皮肉っぽく言った。
「はい、そうですか、とならないところが人間の不思議なところでね。まあわたしはヴラディミールさんではないので飽くまで想像だけど」
嬉々と語るルナだが、一度はヴラディミールと同じ場所に身を置いていたのだ。
ズデンカはそれを思うと何とも言えない気分になった。
「インゲボルグはペーターに恋をしていたんじゃないのか?」
話を変えることにした。
「それは飽くまで小説さ。モデルとなった本人がどうだったかはわからない。確か君も他人に勝手に書かれた経験があったと思うけど」
「黙っとけ」
ズデンカは顔を伏せた。
――嫌なことを思い出しちまったぜ。
「ともかく、ステラ、いや、インゲボルグさんと言うべきかな。実際のところ堂だったのか教えてください」
とルナはズデンカの横に割り込んで窓から顔を出し、大蟻喰を見上げて声を掛けた。
「ペーターとは確かに友達でしたけど、そんなお話に書かれているなんて思いもしませんでした。むしろペーターと親しかったのは……」
「ああ、なるほどです。『野菊の別れ』の作者がペーターさんにアツアツだったわけだ。わかるわかる。実によくあることですよ」
ルナはさも当然というようにこくこくと首を動かした。
「アツアツって言葉が正しいかはわかりませんけれども……」
大蟻喰は口籠もった。
「じゃあ、なんであなたはこの世に留まったのでしょう?」
ルナのモノクルがきらりと光った。
「アララト山に行きたくて……」
「やっぱりだ! どこでその話をご存じになったんです」
「村で……なのでたぶん、生きている時ですね。でも、その時はもちろん死ぬなんて思っていないからそんな話があるってだけ思っていました……」
大蟻喰は答えた。
「なるほど、実際話を訊いてみたら種も仕掛けもなかったんですね」
ルナはポンと手を叩いて朗らかに言った。
「はあ……」
霊は困惑しているようだった。
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