第三十六話 闇の絵巻(6)
「ペーターさんについてはどうなんでしょうか? 放火の濡れ衣を着せられて村を追われたと本には出ている」
追い討ちを掛けるようにルナは言った。
「いえ、火事なんて、私が生きていた頃は全く起こりませんでした。ペーターは悪い仲間とつるんで村にいられなくなったと訊いています。それで一番悲しんだのが……」
「何を隠そう作者の方、なんですね」
ルナは満面の笑みで言った。
「はい……」
大蟻食が出す声は沈んだ。
「これにて一件落着だ」
「もうお終いかよ」
ズデンカは呆気にとられて言った。
「まあ、そうなるよね。『野菊の別れ』で描かれたような感動的な話はあくまで作者の頭の中にあっただけなんだよ。カミーユにはこのことは話さないでおこう。身も蓋もない真実は時として読者の夢を壊す。夢は夢のままにしておかないと」
ルナはウインクした。
「はあ」
ズデンカはため息を吐いた。
「さて、わたしは
ルナはまた屋根の上に坐る大蟻喰に振り返った。
「私は……アララト山に行きたいです」
インゲボルグはさっき言ったのと同じことを繰り返した。
「アララト山はここからだいぶ西だぜ」
ズデンカは冷ややかに言った。
「場所がわからなくて……何しろ死ぬまで一度も村を出たことはありませんでしたから……独りで彷徨っていたら、列車の窓が明るく光っているのに気付いて、吸い寄せられるようにここへ……」
「たぶん、あなたの願いはわたしが叶えなくてもすぐに叶いそうだ」
と言ってルナは、
「ステラ。そろそろ良いよ」
その一声で大蟻喰の表情はたちまち移り変わり、いつもの不敵なものになった。
それとともにズデンカの目の前にまたインゲボルグの霊が浮かび上がった。
拘束されていた輪っかは既に外されていたので、晴れやかな表情へと戻っていた。
いや、晴れやかなのは自分の話を伝えることが出来たからかも知れない。
――だが、願いがすぐに叶うとは?
ズデンカは首を傾げた。
その刹那。
闇の絵巻の彼方に、無数の白い影が現れ出た。
皆、インゲボルグと同じように宙に浮いていたのが、一斉に飛翔して絹糸のように残光の流線を引き、こちらへ向かってくる。
「なんだありゃあ」
ズデンカは身構える。
「大丈夫。敵意はないよ」
「なんでそう断言出来る?」
「知らんけど。まあ、攻撃してきたとしても物理じゃないからわたしは死なないよ。とりあえず自衛策も張ってるけどね」
ルナは舌を見せた。
「んないい加減な」
ズデンカは呆れた。とは言え、いざ向こうから攻め込まれてきたら、こちらからはなすすべなく、ルナの能力に頼るしかないのだ。
インゲボルグは自分と似た無数の霊に取り囲まれた。
だが、その表情に恐れの色はない。
自分と近い存在に出会って安心を感じているのだろう。
実際霊たちはインゲボルグと顔を見合わせ、優しくその手をとった。
お互いに一言も発していないが、思いは通じているのだ。
感謝の面持ちで、インゲボルグはルナを見た。
「いえ、わたしは何もしていませんよ」
ルナはその無言のメッセージに答える。
霊たちに手を引かれながら、インゲボルグも闇の絵巻に一筋の白光を放って遠くへ去っていった。
「実に綺麗だね」
ルナは言った。とうとうライターを取り出して、パイプに点火し始めている。
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