第二十八話 遠い女(5)

 だが、ズデンカの予想を裏切ってアデーレは急ぎ足でやってきた。額から流れる汗を拭きながら。


 その軍服の両袖は血で朱に染まっていた。


「アデーレ! 何かあった?」


 ルナも流石に心配そうに訊く。


「いや、これは予の血ではない。傷病兵の治療をしていたのでな」


「これでも一応医者なんだな」


 ズデンカは皮肉った。


「まあな」


 アデーレは今回は言い返さずに軍服を脱ぎ、扈従こじゅうしてきた兵士に渡すと、元の席へ座った。 


 それほど疲れたのだろう。


「馬車はそろそろ動き出すぞ。道の通行も可能になったようだ」


 アデーレは静かに言った。


「助かった。このまま窮屈な車内にずっと閉じ込められたらどうしようって思ってたよー」


 ルナは明るく言った。


「国境まではちゃんと送り届けるから安心してくれ!」


 アデーレは親切そうに返した。


「もう、二度と止まるのはごめんだぞ」


 ズデンカは釘を刺した。


 ハウザーの手下は五人だけと言っていた。他に戦争前に死亡した旧スワスティカ特殊部隊『火葬人』のクリスティーネ・ボリバルが能力によって残した分身たちや、トルタニア全土に拡散されているらしい、読むものを善からぬ行いに誘ったり化け物に変えたりする書、『鐘楼の悪魔』の存在が気になりはしたが、今すぐの脅威ではなかろう。


「本当はずっとルナを守ってやりたいのだが……」


 アデーレは済まなそうな顔をした。オルランド公国とネルダ共和国は同盟関係にはないので立ち入りは難しいのだ。


「仕方がないよ。アデーレは職務の限り頑張ってくれているんだから。感謝で一杯さ」


 歯の浮くようなセリフをルナは並べ立てた。


「ルナァ!」


 とアデーレは叫んで立ち上がり、ルナを抱きしめた。


 ズデンカは即座に引き離す。


「それよりネルダに着いたら、どう言う風にゴルダヴァに向かうか考える方がいいだろ」


「あ、君忘れてなかったか」


 ルナはにんまりと笑った。


「忘れたも何も、お前が!」


 ズデンカは少し焦った。


 ゴルダヴァはズデンカの生まれ故郷だ。ネルダから南へしばらく進んだ場所に所在している。


 ルナはズデンカの過去を知りたがっており、どうしても一度故郷を訪れたいのだと言う。


 案外に距離もあるため、馬車で移動するより、鉄道を使う手段も考えられた。ゴルダヴァ周辺の国々はスワスティカの統治下に置かれていた時期もあり、移動は容易になっているのだ。


 もちろんそれは、各地で捕らえたシエラフィータ族を運ぶためでもあったが。


――そのあたりはルナと相談だがな。


「まあ、着いたときに決めるよ」


 ルナは相変わらず暢気だった。


「カミーユさんは大丈夫?」


 とついでに話を振る。


「サーカスで長旅には慣れてますので、大丈夫です!」


 カミーユは両手を握って元気よく言ったが、ズデンカにはどこか空元気に見えた。


 だがさっき見せたような強い感情を持って同行しているなら、帰すことは出来ない。


「三人での長旅なんて今までやったことないから楽しみだよ! ルンルン♪」


 ルナは肩を左右に揺すった。


 一人の兵士が馬車に走りよってきた。


 アデーレは馬車から外に出て、その話を聞いた。


「馬車が出発するぞ!」


 アデーレ本人も停滞に鬱々としていたのか、振り返って晴れがましい声で叫んだ。

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