第十七話 幸せな偽善者(6)

 妻の機嫌は悪くなり、やがて体調を崩しました。そして伯母より早く死んだのです。私はあのような伯母に育てられたため文字の読み書きがろくに出来なかったので、妻に教えて貰いました。さんざん世話になったに関わらず恩を返すことが出来なかった私は、なおさら伯母を憎むようになったのです。


 あの忌々しい微笑みを伯母は死ぬまで絶やしませんでした。 


 総てを失いながらなお、


「私ね。またお金があれば、多くの人に施したいのよ」


 と繰り返していました。


 既に痴呆が入っており、眼の奥には恍惚と濁った光が輝いていました。


 その首に何度手をかけたいと思ったことでしょう。


 でも、私は出来ませんでした。


 ただ拙い絵筆で伯母の顔を描くことで復讐を果たそうとしたのです。その偽善を永遠に絵画のかたちとして留めておくために。


 それでも伯母は微笑んでいましたよ。何も知らないかのように。


 伯母は結局九十近くで死にました。苦しみもせず眠るようにあっけなく。


 全くなんというお荷物でしょう。

 

 


「なるほど」


 ルナはパイプを燻らせていた。学芸員が部屋の隅からハラハラと心配そうに見つめてくる。


――そういや、この美術館は禁煙だったな。


 ズデンカは焦りを覚えた。


「伯母さんはずいぶん幸せな一生を送られたんですね」


 ルナは朗らかに言った。


「伯母にとっては幸せだろうが、周りにとっては迷惑でした」


 館長は頭を振って歎いた。


「ははっ。ご当人が幸せなら、それでいいじゃないですか」


 ルナは笑った。


「なぜ、あなたは伯母の肩を持つのですか」


 館長は立腹したようだった。


「わたしはね、必ずしもあなたの綺譚おはなしが正しいとは思えないからですよ」


「いいえ。私は本当のことを言っています。伯母が目の前にいたなら何度でも罵ってやりたいぐらいだ!」


  ルナは煙を吐いた。


 途端に室内の温度が僅かに下がったように感じられた。


 いや、ズデンカは気温の変化には鈍い。


 と言うより、もっと動物的な勘が、警戒心を掻きたてられるような緊張が部屋に満ちたのだ。


「また、あれか」


 ズデンカは呆れた。


 あたりを見回す。


 なんと、油絵に描かれた館長の伯母ビアンカが立ち上がり、こちらに向かって首を曲げ、微笑みかけていたのだ。


 館長は驚愕して、二三歩退く。


「さあて、本人に聞いてみるとしましょうか」


 ルナは絵の中のビアンカに近付いていった。


「ビアンカさん、聞いていましたかね。あなたの甥御、ペッピーノさん、いや失敬。愛称でしたね。本名ジョゼッペさんはあなたを人生のお荷物だって仰っていましたが、本当なんでしょうか」


 伯母は、きょとんと首を傾げて微笑むだけだった。


「おやおや、ビアンカさんに聞いてもわからなそうですね。では、こちらにお尋ねしましょう」


 と言ってルナは館内を移動し、隅の方に飾っていた絵に向かってお辞儀した。


「それは妻の!」


 館長はびっくりして走りよった。


「奥様、あなたの夫君ジョゼッペさんとその伯母様ビアンカさんの仲は、本当のところどうだったのでしょう」


 肖像画に描かれていた大人しそうな妻は小声で話し始めた。

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