第四話 一人舞台(10)いちゃこらタイム

ヒルデガルト共和国ホフマンスタール近郊――

 

 明け方には二人の乗る馬車の他は何も走っていない。


 道脇に生い茂る草木はまだ眠ったように身動きしなかった。


「挨拶しないで良かったのか」


 馭者台に坐ったズデンカは後ろを見ずに聞いた。


 どちらにしても馬車には幌が被せられているのでルナの表情は見えないのだが。


「恐がるだけだろう」


「ヴィルヘルミーネとは、あんなに盛り上がった仲じゃねえか。友達にだってなっただろ?」


「いいんだ。わたしは人とはずっと仲良く出来ない性質たちだから」


 その声は明らかに沈んでいた。


「孤独癖かよ。その割にあたしとは長く続いているじゃないか」


「君は人ではないだろ」


「まあ……そうだな」


「辛い目に遭った人に掛けられる言葉がない」


 ズデンカはどう答えるか迷った。ルナもまた過去に辛い目に遭っただろう。なのにヴィルヘルミーネには寄り添えないのだ。


「そんなものか」

「うん」


 言葉なく時間が過ぎた。


「……忘れさせてあげればよかった」


 ルナはぽつんと言った。


「だが、それは」


「無理にでもヴィルヘルミーネさんの綺譚おはなしを手帳に書いておけばよかった。したら、リーザさんみたいに嫌な記憶を忘れさせてあげられた」


 その声は震え、涙が滲んでいるようにも思えた。


「あいつはお前の蒐集に値する話を持ってなかったし、そんなつもりもなかったじゃねえか!」


 ズデンカはルナと言う人間が分からない。

 血の雨が降る処刑場でもへらへら笑って見ていることが出来るかと思えば、こうして些細なことで――ズデンカにとったら些細なことで、気分を落とすのだから。


「でも、わたしはやれなかった」


「できねえんだよ、願いには対価がいるって決まりだろ」


 どう言う理屈かは知らないが、ルナは綺譚おはなしを聞かせてくれた相手の願いを叶えることしかできない決まりがある。しかも、何でも出来る訳ではない。


「でも」

「あいつだって記憶を消してくれることを望んだかどうかも分からない」


「望んださ。これから昼日中、夜寝ていても繰り返し繰り返しその時のことが甦ってくるんだ。地獄だよ。消せるなら消したい記憶はわたしだってある」


 ルナはきっぱりと言った。


「あいつは死ぬことを望んだかも知れないぜ」


 答えはなかった。


「苦しい思いが繰り返し湧いてくるなら命を絶つことを望むかも知れない。お前は叶えてやれたか」


「やれた」


 怒られた子供が答えるような言い方だった。

「どっちにしてもあたしらは人殺しだ。すでに何度も手は汚しているけどな」


「ヴィルヘルミーネさんの耳には入れたくない」


「有名な劇作家の失踪はすぐ広がるだろう。元の姿を留めちゃいないからな、あれは」


 ズデンカは皮肉っぽく笑った。


「もし聞いたりしたら」


「気にすんな。パン屋のおばさんが親元に連絡しようって大家に話してるところを小耳にはさんだ。生まれた村に帰るだろうさ」


「なにかで知るかも」

「そこまでいったらあたしらの関わるとこじゃない。もう二度と会う相手じゃねえんだ。お前もそのつもりで旅立ったんだろ?」


「そうだね」

「ヴィルヘルミーネも一人の芸術家だ。己の身の振り方ぐらいは任せようぜ」


 ルナは納得したらしい。


「寒い」


 歯の根が鳴る音がして、ルナが震えていると分かった。


「あたしの使った毛布を使え。リヒテンシュタットの持ち物が嫌じゃなければな」


 似たようなやりとりをするのは何度目だろう。元来、季候の変化に鈍感なズデンカは、寒がりなルナと旅することで気遣いを覚えたのだった。


 ガサゴソと動いて毛布に丸まる様子のルナを想像してほくそ笑みながらズデンカは馬を進めた。

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