月明かり

@bootleg

第1話

 昼間、カーテンを閉めたままの生活が続いてしまった。そうこうしているうちに、夏休みが終わった。大学に入って1年、2年は長くとも何かしらやることを探してゐられたが、3年の今年は違った。七月末からとらわれてしまった妙な不安感のせいで、いやに明るい時間が嫌になった。

 カーテンは締めているが窓は開けている。併し薄手のレースのカーテンだけでなく、遮光の高い厚手のものまで締めているから陽の光だけでなく風も入らない。そうなれば長野の夏とはいえ部屋の中は蒸す。冷房をつけるからそれなりに涼しくはなるが、朝は本当に大変だった。

 買い物に行くにも日が暮れる19時過ぎ。暮れていく時間の景色は綺麗だった。近くにスーパーがないので、帰路に着くころには完全に日が暮れている。スーパーのあるあたりを離れて、借りている部屋のあたりにやって来ると人出も車もなくなり、該当もまばらになってくる。民家の明かりも乏しい中で、満月の夜は月が明るかった。

 


 その日、私はひたすら歩いた。もうどうにも考えたくないことがずっと頭に浮かんでいた。走ってみても、人気のない道で歌ってみても、ずっと消えなかった。だからひたすら歩いていた。


 苛立ちのような、とてつもない不安を感じて足早になる。それに気づいたときには必ず月を見上げた。部屋を出たころにはまだうっすらと明かりを感じられた景色がもうすっかり暗くなっていた。月は、真上に近い。


 兎に角、人のいないところに行きたくて、町から遠くへ、遠くへ、峠道のような道を歩いた。私の片手の側には常に山があって、歩いても歩いても、それは変わらなかった。右手の側には街の明かりが遠くなっていく。左手の側には私が数分あとに歩くところが、街灯もまばらになった道と、坂と、木々だけがある。ひたすら歩いた。小山の周りをまわっていた。


 もう何分歩いただろうか。左手の側にあった山が消え、夜空が広く見える場所についた。ここは昼間には来たことがあった。子どもたちが遊ぶ公園だ。その時はとても人が多く、声であふれていた。だからこそ、自分の記憶の中の公園と目の前に広がる広い場所が重ならず、不思議な場所に迷い込んだような感覚に陥った。

 この公園は、比較的遊具が少ない。入口に立って見渡してみると、滑り台、ブランコ、鉄棒が見える。遠くの方には、使い方が分からないものが二つ三つ、芝生の中にぽつんぽつんとある。それらを取り囲むように舗装された通路がある。通路の淵は丸い石が並べられている。奥の方はよく見えない。たしか、こちら側には遊具、奥の見えない方は何もない広場になっていたはずだ。私は、通路を辿って暗闇を目指すことにした。もっとも、今立っているこの場所ですらほとんど先は見えない。通路に沿ってところどころ小さな明かりが添えられている程度だ。ホームセンターのガーデニングのコーナーで見るような、本当に小さな明かりだった。私は、しかし公園らしくてこれくらいがいい、家族で来る場所は、これがいい。そう思いながら、明かりを辿っていった。


 だんだんと水が流れる音がしてきていた。少し注意深く足元を見ながら歩いて行くと、コンクリートで舗装された通路が木造に変わり、アーチを描いた橋が現れた。橋の上でしゃがんでみる。片腕分の長さしかない小さな川があった。水の流れも緩やかで、変化がない。ずっと変わらずに、流れている。私はどうにかしてこの流れを変えてやりたい気分になった。大きな石かなにかを投げ入れてやろう、そう思った。しかし、周りは芝生に囲われていて、石があるような場所は見当たらない。入口の方からずいぶん歩いてきてしまった。わざわざ公園の外まで拾いに行くのもばかばかしい。しかし、この代わり映えのないものを、何とかしてやりたかった。


 この時の私の思い付きと、それを行動に移す力は、普段の私からは想像もつかないものだった。川の流れを変えるために、自分が河に入ってしまうこと。まず普段の私なら馬鹿らしいと笑い飛ばすようなことだろう。それを思いついただけでも普段と違うのに、それを行動に移すためらいのなさ。何かにとりつかれたようで、しかしどうしてでもこの時の私は、川の流れを変えたかったのだ。


 冷たい水の流れを感じながら、私は川の中に立っていた。川に移る月の影が、さっきよりも少し歪んでいた。私の足元を通り過ぎた流れは、それまでの流れと少し違うように感じた。実際のところ、流れる様子も、その物質自体も、変わることは無い。それでも、ゆがんだ月と、私を通り越していった流れも、私だけのものになった。


 私は満足して、川を出た。小さな明かりを辿っていく、次の一つを見ながら進む。また、次の一つを見ながら進む。川を出た後に靴下をはくのが嫌だった。右手と左手に、靴と靴下を片方ずつ。ドラマのワンシーンみたいだ、と少し綺麗に歩いてみる。手に靴を履いて気取って歩く不可思議な歩行は、次に私が小石を踏んで、約一分の間心の底から後悔するまで続いた。


 私はまた、歩いた。今度は、入口の方がかなり暗くて、ぼんやりとしか見えないようになっていた。気が付くと、明かりのある道は小さな丘へと続いていた。入口のあたりでは見えなかったが、芝生で覆われ、行きと帰りの通路だけがある丘があった。私は明かりを辿って丘を登っていった。この公園へと歩いているときの峠は何週も回って、先が見えなかったが、此のかわいらしい峠道は一周で頂上へとたどり着くようになっていた。上った先には、木でできた椅子が一脚あった。公園でよく見るようなベンチではなく、一人用で、背もたれがあるイス。座ってみると、硬くて、背もたれは直角で、小さかった。あまりにも変なところに、変なイスがあるものだから、もしや誰かが持ってきて置いてあるのかもしれないと思い、少し慌ててあたりを見渡した。人の気配はなかった。ただ、この丘からは公園全体が見渡せることに気付いた。見渡せる、といっても実際に見えるのは通路の明かりだけである。ぐるっと一周、明かりの道が続いている。入口から右回りに進んできた。ここは丁度入口の反対側くらいのようだ。入口の方へ向かっておかれたこのイスからは、左手側が通ってきたところ。右手側はこれから通る道。さっきまで歩いてゐたときには、特に何があるわけでもないのに気分が高揚していた。何を見つけられるわけではないのに、楽しかった。小さな川を見つけたり、通路の明かりがホームセンターのやつだ、と思ったり、本当にどうでも好いことでも、私が見つけた、私のものだった。私の目はぼんやりとし明かりと、足元の少しの範囲だけを見てゐた。私の耳は私の足音だけを聞いていた。川の冷たさも、はだしで歩くアスファルトも、私だけの感覚だった。取るに足らないものでも、ワクワクして、楽しめていた。


 それに対して、これから歩く右半分はどうか。妙に不安のような気持ちを抱かせる。不安と言い切ることはできないような微妙な感じ。不安でもあるし、焦ってゐる様でもあるし、とにかく行きたくない、と思わせる。暗いのはこれまで歩いてきた道もそうだった。別にその先に何か変わったことがあるわけでもないのに。


こんな誰もいない公園の道程で、歩くのが嫌になってしまって、私は居心地の悪い椅子に座り続けた。どれだけ見つめても、あと半分を行く気がどうもしてこなかった。


 私はふと思い立って空を見上げた。気づくと、真上に月があった。ぼーっと眺めていると、だんだん周りの暗さが際立っていくのを感じた。初めのうちは星が見えていたのが、いまでは丸い、強い光しか見えなくなった。周りの黒は際立ってくる。貧血の時に感じるようなものに近くなっていた。ぎゅっと中央の城に意識が寄せられ、周りの黒がだんだん迫ってくる。あるいは、暗い井戸に落ちていくようだった。大きな暗さに、押しつぶされそうだった。その暗さを作っているのは、間違いなく月だった。私の真上で、全てを見ている。月は、暗い公園の、小さなイスにすわっている私を、明かりの道を、じっと見てゐた。


 私は一番下に来てしまった。這い上がる気力もわかないほど、下の下まで。


 その時、小さく声が聞こえてきた。高い声だった。音は、丘の裏側、公園の外の方から聞こえてきていた。よく聞いていると、それは若い女が歌っている声のようだった。それが、だんだん近づいてくる。声のする方は判るが、丘の上にいる私からは裾にゐる彼女の姿は見えない。しかし、歌声はだんだん近づいて、とうとう頭が見えそうなところまで来たところで、不意に声がやんだ。


 私は、息をひそめていた。怖さが一番初めに来ていた。しかし、同時に強い好奇心もあった。こんな夜中に歌を歌っている女。いったいどんな人なのか。怖さと好奇心に揺さぶられ、近づくに近づけないでいると、歌声が再開した。聞いたことがない歌だった。それでも、不意なワンフレーズに聞いたことがあるような感覚を覚えたり、次に来るリズムが何となくわかったりした。懐かしかった。


 その後も、女はひたすら歌を歌った。楽しい歌、悲しい歌、様々な調子が入り混じっていた。じっと聞き入っていると、私は時々ピアノやギターの音が伴奏しているのを聞いた。メロディや、歌詞や、声は、どれも私に寄り添っているようで、私は利くたびに自分のことを思い返した。この間だけは、どんなことについても落ち着いて思いをはせることが出来た。思い出してみたところで、今はなくなってしまったという悲しさに気付いてしまうから避けていた、小さい頃の楽しかったこと。会うことのなくなってしまった友人との楽しい思い出を、思い出した。思い出すたびに自分が嫌になって、何度も頭をたたいて忘れてしまおうと思うような嫌な出来事、自分の嫌なところも、思い出した。じっくり考えた。私は、私自身のことを、歌の中のフィクションとして思い返していた。私が想起した出来事が、彼女の歌の中に現れた。そして、そうして作られた彼女の歌は、また私を落ち着かせて、様々なことを思い出させた。


 気づくと、彼女の歌の中に、私の知らないことが登場するようになってきた。私が知ってゐる世界とは程遠い、私が感じていることとはまた違うものが、ある。


 私は、丘を下りだした。入口へと向かう道を歩き始めた。声は、私の後ろの方をついてきていた。彼女は、虫の鳴き声を歌い、柔らかい風が草木を揺らす音を歌った。月の光が照らす様子を歌い、光に照らされる私のことを歌った。私はそのたびに、草の隙間にゐる小さな生き物を探した。真っ暗な中で月明かりに揺れる草木の様子を見た。月が形作る私の影をよく見た。どれも私が知らないものになった。今まで見てこなかったものになっていった。


 公園の入り口をくぐっても、声は就いて来た。私は北通りの峠道を下っていった。高く伸びた木々は夜空を隠してしまうから、月は見えない。まばらな街灯の光しかない。それでも、私の視界は開けて見えた。進むべき方向もはっきりわかった。真っ暗な木々の間も、鮮明に見ることが出来た。彼女の声は、私とともに歩いていた。


 ずいぶん集中していた。気づくと、街の明かりがすぐ近くまで来ていた。彼女の声は、だんだん離れていた。私は、彼女が街の中まではついてこないことを直感していた。


 妙な集中だった。意識を失ったまま歩いてゐる様だった。街に出て、車が横を通り過ぎた音を聞いた時、ようやく私は「戻ってきた」と思った。不思議な場所だった。不思議な時間だった。長い本を読み終わった時のような感覚だった。整理したいことが並んでいて、考えたいことが山積していた。それはたいてい私自身についての事だった。


 私は、まず手始めに次の朝のことを考えた。冷静に考えているときにしては珍しく、アイデアがどんどんわいてきた。私の部屋に向かってゆっくりと歩みを進めながら、私は考えた。階段を上がり、とうとう部屋にたどり着いた。鍵を開けて中に入る。停滞した空気が気になって、窓を開けた。歩いているうちには気づかなかったが、いつの間にかだいぶ明るくなってきていた。何時間歩いていたのだろうか。一晩歩き通してしまった。空は、濃い紺の色からうっすらと白んできている。月は、もう真上にない。


 次の朝、もう1,2時間もすればやって来る朝のことを決めた。しっかりと日が昇ってしまうまでは寝てゐよう。何の進展もないような考えだが、それが私にとって必要だと思った。3階の窓の外は半分が隣の家の屋根、半分が空である。しかし、床に寝転がってみると窓の外は空だけになる。私は、床に布団を敷いて、横になった。さっきよりもさらに明るくなってきている。それを見てゐたら、妙なテンションになってきてしまった。気分を落ち着かせようと、私は布団から起き上がり、イヤホンを持ってきた。お気に入りの音楽を選んで、イヤホンを差した。ピアノの音が聞こえる。私のお気に入りの声が聞こえる。


 私は、すっかり落ち着いて目を閉じた。





 

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