どれだけ時が流れても
みずなし
第1話 最後に見る夢
平凡と称して丁度いいだろう。
「今日はいい天気だ」
のそり、よっこらせいと布団から起き上がり、歩きだしの一歩に膝の骨を軋ませながらカーテンを開くと外には快晴が広がっている。
起き抜けに変な事を思うものだな、と頭をポリポリと掻きながら昨夜、珍しく見た夢を思い返してみた。妻が手を握りながら最期に言った言葉『幸せな人生でした』
「幸せでした、か」言葉を反芻すると、自分の人生なども辿ってみようかという気持ちになったのだ。
そこそこ、山あり谷あり。学生時代はさぼる事なく皆勤賞、就職した先でも皆勤手当を受けながら定年まで働けた。幼い頃から人並みに恋をして、愛を知り家族をもち父になり、最後は孫の居る爺さんにもなった。
妻には早くに先立たれ、一人きりだけどこの家で迎える最期も悪くない。
――いつからだろうか、日がな1日眠る日が増えた。全ての事に興味を失った訳ではないが、随分とやる事は少ない。
朝起きて少し近所を散歩する。帰宅してから飯の準備、お茶を淹れ子供用の茶碗に白飯を小盛によそい、溶かすだけで完成の味噌汁とたくあんを食べる。
たまに、スーパーで売っている一口サイズの辛子明太子をおかずにする時は茶碗2杯は食べたけれども。
やはり若い頃よりは随分と食が細くなった、20代の頃は仕事をしながら仲間と飲みに歩き、〆はラーメンだと駆け込んで世情やら会社の愚痴やら話しながら翌朝までフラフラとしていたものだ。そのまま仕事に行くのも珍しくなく、良くまあそんな生活が出来ていたなぁ若さだと思い出しながら笑みがこぼれる。
老いては丸くなるものか、と定年後に気が付くことも多かった。
他人の評価も、悪口も何もかも、流れる水の如く気にならない。
若い頃に比べ、耳もかなり遠く、手足も強張り気味で自由が無くなっていた。
そんな中、60代で空へ送った妻は最後まで自分の為に本当によく動いてくれ、頭が下がる思いだった。会社一筋で来てしまったものだから、子育ても家事も妻に任せきりで、いざ自分の飯を用意しようとも台所に立って呆然とした。ただ立ち尽くすだけ、包丁も握った事がない男は無能だった。
暫くの飯は、コンビニやスーパーの総菜などで済ませ、その間に少しだけ使えるようになったスマートフォンを間違えながらも操作して一品の簡単おかずを作れるようになった。えっちらおっちら料理をする、洗濯掃除は3日に一度、そんな様子を見かねた息子夫婦は共に暮らそうと何年も何度も声を掛けてくれたのだが、その都度丁寧に断った。
誰しも思う事かもしれないが、息子夫婦へ負担を掛けたくない。これが一番だ。
息子が良くとも、お嫁さんは気にするだろうから。家とは、居る誰にとっても居心地よくあらねばならない。
いつ逝くかもわからない、そもそもボケて糞尿を漏らして歩き回って自分が『飯はまだか』だなんて冗談じゃない。こんなに迷惑を掛けるかもしれないのに、そんなものを任せたくはない。
親を看取る事が当たり前だと言う考えは無くした方がいいのではと常々思っている。……妻には悪い事をしてしまったが……。自分の両親の世話も任せきりだったのだ。それがどんなに体力も精神も削る事なのか、その過酷さも知らずに。
ボケてしまった親父から、風呂の世話中に付けられた痛々しい腕の噛み痕を見つけて『大丈夫よ』と笑う妻から何とか話を聞いた時に初めて驚くべき行動の数々を知らされ、自分は何と言う事を妻一人に押し付けてしまっていたのかと思い知らされた。
何の為に、【介護施設】が存在したのか。親の世話は出来るなら、もしくはやりたいと手を上げるのならやればいい、身内であっても強制する事では決してないのだと妻に負わせた痛みから学んだ。
だから、自分がいざと言う時には施設に入居するとして、側にベッタリとはつかないような、孫と息子夫婦の誕生日に何かプレゼントを出来るくらいの距離が丁度いいのである。
と、ここまで回想してみても、だ。
現在の歳までこうして施設に入所せずとも自分で建てた自宅で過ごせている事と、そこそこの健康を残してもらっている体に感謝をしなければならない。
妻が居ない寂しさについて思う所はあれど、枕元に妻の写真を立て掛ける事で少しは紛らわせられているのではないか。
定年退職をした時に、妻へ友人との旅行をプレゼントしたいと言ったら『あなたと一緒なら受け取ります』と言うものだから、年甲斐もなく顔が赤くなったのを覚えている。
女は結婚すると変わる、とはよく言ったものだよなと会社ではよく話題に上がったものだが、よく考えたらそんなもの当たり前である。
砂時計をひっくり返して落ちないのか、そんな事無いだろう。
人は生まれてから老いるまで時が止まっている事など一秒だって無い。特に女性は、子供を産む生まないは別として宿せるように準備をしている。
生んで育てる場合も、大きな過程を通り過ぎるのだから体が逞しくふくよかになろうとそれは愛すべき通過点なのだ。と言いつつ、息子が生まれてから2歳までに体形の戻らなかった妻に対して『お前、ふっくらして戻らないなぁ』と酒に任せて言ってしまった時には一週間以上口を利いてもらえなかったので当時は大変反省したものである。
と、まあこのように人生の長い時間を共有した妻との旅行はゆっくり3泊したのだが、道中珍しく写真を何枚も撮った。その中の一枚、花をバックに微笑む彼女を撮った物があった。その顔は、出逢った間近な頃を彷彿とさせるようなとても可愛らしい笑顔だった。
年相応の皺が刻まれた横顔も、『あなたと出掛けるから』と化粧台に向かって鼻歌を歌っていた姿も、ふっくらしたままの体形も全て愛おしいと思った事はこっそり自分の胸にだけ秘めておく。
そんな愛おしい妻の写真と寝起きを共にするので、写真に話しかける事も多かった。
***
色々と昔に思いを馳せながら、筆を執る。白紙にさらさらと慣れた字を連ねていく。流行りの終活には乗れなかったものだから、家族に手紙のようなものを遺す事にしたのだ。
人によって、迎えが来るのが分かる。と言っていた。
あぁ、確かにわかるものなのかもしれないな。と。
眠りが深くなるにつれ、体が軽くなっていく。
これは、きっと俗世から体が離れようとしているからなのではないかと考える。
死後はどこに行くのか誰も知らないが、行く先があるのならばこの肉体からは離れなければならないだろうから、その準備が始まったのかもしれないとぼんやり考えた。
体が軽くなって1週間程が経った頃に、『今日が最期』だと唐突に思い至る。
出来る限り、安楽に逝きたいなぁと考えつつ神のみぞ知るのだから自分にはどうしようもない。
ここの所、食事もほぼしていない。無理にしていないと言う訳では勿論無いが水分のみ口にするだけで事足りてしまっていた。仙人様にでもなれるかもしれないな、とふざけた事を思いながらも後で自分を見つける家族が負担にならないように、このままで良いのかもしれないなとも思っていたのだ。
書き上げた手紙は分かりやすい所に置いておく。風呂を沸かしてゆったりと浸かり、口を磨いて布団へ潜る。寝間着でなく、お気に入りの一張羅を着込んで横になるのは何だか不思議な気持ちがしたが、もうすぐ妻に会えるのかと思うと少しばかり胸が高鳴った気がする。存外、穏やかなものだなぁと思いながら目を閉じる。
「花江、どうやら私もそちらへ行く時が来たようだ。もし、君が嫌でなかったら迎えに来てくれたら嬉しい。おやすみ」
――――――――
普通の人生を終えたのだと思った。つい、先ほどまでは。
何てことない人生であった筈だった。
目の前に、居るこの人は誰だろうか。
その人は一礼し、その場から何事か問うてきた。
幸せでしたか
(人生の事だろうか?)
「……勿論」
心残りは無いですか
「ないですね」
もう一度生きたいですか
「……? どう言う意味でしょうか」
もう一度、生きたいですか
「あなたの言っている意味は少し、いや、よく分からないけれど……もう一度生きたいとは思いません。十分幸せな人生を歩いてこられたので」
どうしても手に入れたいものがありますか
「いいえ、何も」
そうですか、おめでとうございます。
「いや、ですから何も」
これは
「そんな勝手な……しかし、私はもう死んでいると思います。今更生き返っても」
問題ありません、ここを通過する多くの人が生きて来た世界とは別の世界へと送りますので。
言い忘れておりましたが、あちら世界のご遺体は私がご家族へ虫の知らせを飛ばすまで発見される事はありません。今は、良きお返事が頂けると思っているので、生命活動を終えた直後から、
……が、もしも色よいお返事が頂けないのでしたらば私は虫の知らせを飛ばせずに、ご遺体はこれから止まっていた分のスピードを加算した上で腐食を始める事でしょう。そうそう、そうした場合はご家族に自然発見される事は向こう半年あり得ません。
何故ならば、お嫁さんがこっそりと行っていた懸賞の【家族海外旅行権】が当たるようにしてありますので。もう数日でその結果が判明し、間もなく全員が旅立たれるでしょう。
そこから、海外のカジノで息子さんが大きく当てます。莫大な金額故、旅をして暮らすと言い始めますので面倒な申請の手助けをします。命の危険にさらす事はあり得ませんのでそこはご心配には及びません。
暫く遊んできた後に帰国となり、その後に私が『暫く連絡を取っていなかった』と言う事実をご家族にお知らせしますので、初めてそこで発見に至ります。
腐敗臭が外へ漏れる事の無いように機能させますので、そこもご心配無く。
「ちょ、ちょっと待ってください。分かりました。分かりましたから。そちらへ行くのは良いのですが、一体何をすれば良いのです?」
お話が分かる方で助かりました、そうですね……得られる職業等は無限にございますが、気ままに【勇者】となって囚われた姫を助けに行くと言う冒険物語の主人公などはいかがですか?
きっと退屈しない【普通ではない】第二の人生が送れる事でしょう。
「勇者、ですか……。何だかよくわかりませんが……そうしなければならないのでしょう。わかりました、では、そのようにお願い致します」
五郎様なら良いお返事が頂けると、私は確信しておりました。
それでは、良き旅となりますように。行ってらっしゃいませ!
パンと手を合わせて嬉しそうな声がした直後、足元の床がフッと抜けそのまま垂直に落下していくので、死んでいるのに心臓発作が起きるかと思った程驚き思わず手足をジタバタと泳がせてみるも、努力は空しくそのままぐんぐんと下へ下へとくだっていくのだった。
暫く落ちると下の方から僅かな光が漏れている事に気が付いて、よく見ようと動くと体がくるりと逆さまになってしまった。
落下スピードが速まった気がするが、と思う内に一気に光との距離が縮まりあっという間に光に包まれてしまった。
まだ落ちている感覚だが、恐々うっすら目を開けると、大海原に夜明けのような美しい朝日が穏やかに広がる様が眼下に飛び込んで来た。
「わぁ、綺麗」
そんな少女のような感想を抱いた後10秒後には、その海原に盛大な水飛沫を上げながら突っ込んでいってしまうのだった。
どれだけ時が流れても みずなし @mizunasi9
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