十六話 絵師と無貌の友(二)

 無貌の名を与えられたその妖にとって、佐伯美成という男は全くの想定外の存在であった。

 腹がくちくなるまで人を飲み込んで、それでもついぞ、太兵衛の言っていたように誰にもなることはできなかった。顔はどこにもないままだった。


 斬る、飲み込む、学ぶを繰り返す。


 ある時は声をかける、ある時は無言で追いかける、だが誰も無貌の言葉をちゃんと聞いたものはいなかった。

 誰からも顔を剥ぎ取れず、丸呑みした人間は消化することもできず、身体ばかりが重くなる。ならば太兵衛自身を──自分を生み出したその男を飲み込んだなら、己と縁が多少なりともある男であれば。今度こそじっくりとゆっくりと消化して、己の顔として使えるのではないかと考えた。


 それが、あの夜。

 佐伯美成に出会ったあの晩である。自分に込められた思いを辿った先に、この男はいた。己と同じナリを持つ美成に見付けられ、見付けた時に、この男も斬って飲み込んでしまおうと思ったのだが、この男は真っ直ぐに無貌を見上げていた。恐怖に染まった瞳で、震える声で、紡がれたのは。


──あんた、泣いているのかい。


 何を言っているのかまるで理解ができなかった。己が、泣く? 涙を流す目も持たぬのに。顔から垂れる水など一滴もないのに。このおかしな男は一体何を見ているのだと。


──人が憎いわけじゃあないんだ。


 いいや、憎い。顔も与えなかったくせに失敗だの何にもなれんだのとほざいたあの男が、当たり前に顔を貼り付けて歩く人の子が、己は憎かった。人憎らしさでやっていることなのだ。顔を持つ奴らが、無性に羨ましい。


──あんたは寂しくて、きっと悲しいんだ。


 寂しい。悲しい。何故、何故、何故? おまえは何を己に見た、寂しいとは、それはなんだ。いよいよもってわけがわからなかったが、不思議と、この男を斬ろうという気も無くなった。

 美成は無貌にウチにおいでよとその口で誘った。自らの意思で、無貌を己の内に招き入れたのだ。甘美なこの誘いに、当然戸惑うほかない。

 そういえば、まともな言葉をくれたのはこの男が初めてだと無貌は気がついた。

「私が怪我をして、あんたがわざと人に見つかる形で逃げてくれりゃあさ、きっと誰も私を疑わないよ。そうだよ、人の目さえ逸らせれば、私はあんたを匿ってやれる」

自分ばかりが損をしているだろうに、美成はさも良い案のように言った。目を輝かせた。

「……私もさ、ずっと逃げたかった。泣きたかったんだ。あんたと一緒ならさ……もしかしたら、できるんじゃないかってさ」

「一緒、ナラ」

無貌は美成の手を取った。この男を食うより、顔を得るより、この男の言葉の方が気になったのだ。


 美成はのっぺらぼうに名を与えた。存在する場所も与えた。当たり前に用意される食事、言葉も教え、絵も教え、友の一人として無貌をもてなしたのだ。

 だから、美成が望むのなら刀を置いてもよかった。もとよりそこには魂を持たぬ妖だ。飲み込んだまま消化できなかった人間は、美成の家に入る前に適当な場所で吐き出しておいた。その方がいい。どうせ持っていても仕方がない。

 自分にはもっと得難いものができたのだ。

 佐伯美成は、無貌にとって初めての友だった。



+++



 夜は進む。

 夏虫が思い思いに歌う夜。墨のような暗がりをぬるりぬるりと進むそれは、ぐにゃりと歪んで、やがて一人の男の姿を成した。

 月下、人通りはほとんどない。

 町の端々の常夜灯も、その輪郭りんかくほのかに照らすばかりで、顔までは明らかにしない。

 無貌は己の顔を撫でた。つるりとした表面は皮膚と肉の感触はあっても凸凹ひとつなく、それはずっと変わらない。

 変わらないが、ひとつ約束をもらえたのだ。ここに友が顔を描いてくれるのなら、それは幸せだろうと思う。無貌は人の子のようになりたいわけはなく、ただ顔が欲しかっただけだ。そうなるように生み出されただけの妖にとって、友から与えられた約束は何にも変え難いものとなった。


 故に、確実に守っておかねばならない。


 ならば隠しておこうと思ったのだ。いかんせん、この男の周りはごたついているのだ。謎の妖斬りを謳ううろんな男もいる。美成を悩ませるその近しいものたち、町のものたち、それから太兵衛だ。


 無貌は太兵衛の住む長屋へ向かっている。

 美成は行くのを止めていた。それどころかずっと、太兵衛のことは食うなと言っていた。それも気に食わなかったのかもしれないし、或いは最初から決めていたことだから覆したくなかった己の意地かもしれない。

 食うなという美成の願い、しかし彼が美成の苦しむ要因になるならば、いっそ食ってしまっても良いのではないかという思い。そういうものがぐちゃぐちゃと混ざったまま、無貌は歩いていた。

 わからぬなら、行ってみて決めればいい。


 人と妖、本来生きる世界すら異なる。どの道、長くは共に在れないのなら、余計に美成を手放したくなかった。美成の言うようにずっと二人だけでのんびりと過ごしてみたいと、逃したくないとそう願って──友を飲み込んだ。こう在れば二人はずっと一緒なのだと、それが幸せなのだと、無貌は思っていた。いつか安全で穏やかな場所を見つけるまで、腹の中で眠らせて、それから再び二人で絵を描けたらいいのだと。きっとそれこそが美成にとっての幸せでもあると。そう願ったのだ。


 しとしとと、柔らかな小雨が小袖を濡らす。たまに吹く風が時々からりころりとその辺の物を鳴らすばかりである。静かな夜──その違和感に、無貌は立ち止まった。


 太兵衛の長屋の前に、男がひとり立っていた。

「よう、待ってたぜ」

男の声に、体の奥底を掴まれるような錯覚を覚えて咄嗟に飛び退いた。遅れて目の前に銀色の軌跡が走って、小袖が僅かに裂けて、刀を抜かれたのだと気がついた。男は不敵に笑うと、

「太兵衛殿はこちらだ────」

そう呟いた。それから続けて、

「お前に顔はくれてやろう。代わりにおまえが利用している御仁は返していただこうか」

好き勝手に言うなり、動き出した。


──御仁?

──まさか。


上背のあるその男は、太兵衛ではない。己と同じく侍の形をしていた。そういえばと美成の言葉を振り返る。そうだ、太兵衛が雇ったと美成が言っていた、この男こそが妖斬りの夜四郎。

「オマエは」

無貌はその表面を歪ませた。

「ヨシナリを、とるのか」

男は意地悪く笑う。

「は、間違えてくれるなよ。言っただろう、盗るのではなく、返していただくと」

呟いて、いきなり男が跳ぶように間を詰めた。鋭く鳴いたその一太刀──無貌は咄嗟に抜いた刀で、どうにかその一打を跳ね返す。じんじんと痺れる腕に焦りが生まれるが、夜四郎は腕をだらりと下げたままこちらをにこやかに、いるだけだ。


 無貌は思考を回す。今までに食った男の中にも刀を握る男はいた、どこかに真似をできる者はいただろうか。太兵衛を追うべきか、どうするのが、己と美成のためになるのだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る