十五話 絵師と無貌の友(一)
暗闇が町に降りてくる。橙色と濃紺に染まる空、家の中は薄暗い。
燭台に火を灯し、美成はため息をついた。
「やめとこうよ」
二人の間には、のっぺらぼうが元々描かれていた掛け軸と、先ほど店の小僧が届けてきた手紙がある。手紙には太兵衛の名前と火急の報せである旨が書いてあったが、どうも疑わしいいものであった。
何より、字が違う。妙に整った字はおそらく夜四郎の代筆によるものだろうなとすぐにわかった。癖のある丸っこい字ではないのを見た瞬間、手紙ひとつ自分で書くのも嫌なのか、と勝手に顔を
さらには内容も火急というほどのものはなかった。新しく絵を描くだの、あれだけ言ったのにのっぺらぼうを失敗作だの、かと思えば顔を描いてやろうだの。太兵衛が考えたことなのか、はたまた夜四郎の入れ知恵であるかはわからないが、
「今更顔を描くって言ってもねェ、なあ、無貌」
無貌、と美成がのっぺらぼうに問い掛ければ、すぐに返事がくる。
顔がないから無貌──美成としてはもっとマシな名前を付けたかったのだが、うっかり口からこぼれたその言葉を、のっぺらぼうは名前として受け入れたのだ。名前というには安直で、味気も何もあったものではないが、美成がこぼしたその音がいいのだと無貌自身が主張した。
美成は彼に名を与え、部屋を与え、絵を教え、言葉を教え、日々彼の分もご飯とお茶を用意して、当たり前の日常を与えた。食べる口は表面には見えないが、外を見る目もそこになないのだが、そんなことすらも喜ぶからだ。
美成はこの奇妙な同居人のことをすでにとても気に入っていた。だからこそ、太兵衛の元へ行って、ちゃんとした値段で絵を買い取ろうとしたのだが……それが夕方のことである。ついでに太兵衛とのっぺらぼうにも和解してもらいたいと思ったのだ。なんだかんだ、どちらも大切な存在であるのだから。
それなのに、と美成は眉間に皺を寄せた。
太兵衛はのっぺらぼうを失敗作だと、描かねばよかったと言ったのだ。己の魂を込めたはずのその絵に。そこに明確な悪気はなく、心がこぼれ落ちただけなのだろう──それがまた許せなかった。
こんなことならばあの場に連れて行くべきではなかった。見舞いのおりには落ち着いて話せていた弟分に、ついカッとして喧嘩別れのようになってしまったのも美成の心を重くしていた。
美成としてはこのまま事件を強引に終わらせようとしていた。時間により事件は風化して、いつの日か巷に溢れる怪談話の一つになりでもすればいい。太兵衛は煙に巻いて、あの兄妹に会わないように気をつけて、会ってしまっても誤魔化せばいいのだと。
ただ、無貌は違うらしい。
太兵衛を食ってやりたいのだと常から言う。美成の言葉には割と素直に頷くこの妖も、それだけは譲らないのだ。なんなら美成と出会った晩にも太兵衛を食いにいく途中であったらしいのだが──それを美成はどうにかあやしていたのだが、彼の意志を決定付けたのが、先ほどの手紙である。
「危険だよ、やめときなって。太兵衛を食って何かが変わるでもなしさ、それにあっちには腕利きだってお侍があんたを待ち構えているンだ。……あんたに何かあったら嫌なんだよ、私は」
美成は夜四郎と名乗った男を思い出す。
関わりは薄いが、何を考えているのかがわかりにくい男だった。大それた嘘は言わないが、真実も言わなさそうな口。目はこちらを捉えているくせに、その瞳にはもっと別のものが映っているように見える。
妹は妹で、こちらの勢いを削ぐ呑気さで、ポヤポヤと懐に潜り込んできて、ついつい油断してしまうからいけない。つい余計なことまで喋ってしまう。
二人とも悪人ではないのだろう。それでも、無貌と関わらせて良いことはあるまい。
今、この手紙の通りに行っても無貌と美成のためになることは何もないのだということだけはわかった。だから、美成は止めているのだ。
「なあ、無貌さ、私じゃだめかい。事件を世間が忘れて、私だけがあんたを知っていて──あんたはただ、隠れていればいいんだよ」
どこにも行くなと、そう語りかける。無貌がそのつるりとした表面を美成に向けた。
「私じゃ、あんたの顔を描くのが私じゃ、あんたは嫌かい」
溢れた言葉に、ぴたりと無貌が動きを止める。太兵衛のことは忘れて、新しい顔で生きていけばいいと美成は訴えた。
無貌としても思いがけない言葉だったのか、オロオロとする様子に、思わず美成は笑い声を上げた。妙案だと彼も思っていた。
「うん、私に描かせておくれよ。これでも私もそれなりに名の通った絵師だからさ。うんと器量良しに描いてあげよう。あんたのなりたい顔にさ、なんだっていいんだよ」
無貌は美成の顔を存在しない目で見つめる。見つめて、そっと自分の顔をなぞる。
「
「ええ、この顔かい?」
美成は頓狂な声をあげてから、くすくすと笑うと冗談めかして首を傾げた。
「あはは、姿形も顔も同じじゃあ、どっちがどっちかわからないじゃないか! あんたは佐伯美成になるつもりかい」
「美成、が嫌なら、いい」
「ふふ、いいや、嫌だってより意外でならないのさ。こんな顔で良いなら描いてあげよう。そっくりな兄弟が増えたみたいでそれはそれで楽しそうじゃないか。……そんならさ、あんた、私と一緒にここを出ようか」
美成は無貌を見る。
──無言。
それでも、嫌がっているような雰囲気はなかった。無貌から漂うのは、好奇心屋、未知への高揚。それと少しばかりの不安の色。
「なんだ、心配かい? 平気さ、関所を越えるときは絵の姿になってもらううけどねえ、どこかに小さな庵でも結んでさ、狭い畑でも耕して、あとはのんびり絵でも描いて静かに暮らすんだ。こう見えても金子にゃこまってないしね。……あんたはこういう賑やかな町の方が好きかい」
無貌はふるりと首を振った。
「絵はどこでだって描ける。あんたさえよかったらさ、あんたと二人なら、もっといろんな景色を描けるんじゃないかなって思うのさ」
「……」
「あんたはこの町じゃあお尋ね者になっちまっているからさ、ここにいたら窮屈だろう。夜四郎さんもいるんじゃあ、いつ斬られるか……。だからさ、二人で遠くに行こう。町を出たらただの美成と、その友の無貌になってさ、悪いことなんてしないで生きていこうよ」
美成はそっと、あやすように掛け軸を撫でる。
この掛け軸は元々のっぺらぼうが描かれていたもの──無貌の語るところによれば此方での体のようなものであるという。此方へ縁を結ぶに至ったものであるから、大切にしているのだと辿々しく語る彼だったが、それをいとも容易く美成に託すのだから、その時は仰天したものだ。
彼は縁が切れないうちはずっと側に居ると言った。
美成はそれならば、と応えた。その縁を守ろうと。
ふと、影が落ちてきて美成は顔をあげた。いつの間にか無貌が立ち上がっていた。
まっさらな顔が見下ろしてくる。そこにある表情は……。ぞ割と肌が粟だった。
「む、無貌──」
「
無貌はとん、と目の前に膝をつく。より近いところで見下ろされる。
膝で下がる。
膝を詰める。
ああ、この子はせっかちだったと美成はふと思い出した。せっかちな太兵衛の筆で描かれたのだ、不思議もあるまい。美成と外に出ることを望むのと同時に、彼は元からの目的も捨てられず、望むのだ。
「いけないよ、聞いとくれ、無貌!」
「己が、おまえを、守る。共に在るには」
無貌の体がぶわりと膨張した。両手を広げる。
「無貌──」
慌てて立ち上がった美成の視界が暗転する。意識を失った美成を無貌は丁寧に丁寧に飲み込んだ。
時間をかけて、腹の中に大切なものをしまう。
顔よりも、誰かであることよりも、欲しいものができた。
「こうすれば、ずっと共に在れる」
二人ならばきっとどこまでも行ける。邪魔なあいつさえ、美成の心を乱すあいつさえいなければと──。
無貌は灯っていた火を吹き消した。
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