十三話 色眼鏡(二)

 夜四郎は振り返って思わず瞬きを繰り返した。戸口にいたのは、美成とたまである。見るからに不機嫌そうな美成の背後でおろおろとするたまは、夜四郎を見つけるとほっとしたように息を吐いていた。


 落ちた沈黙を破ったのは、夜四郎である。

「これはまた思いもよらない組み合わせで来たもんだな……。やあ、おたま」

「夜四郎兄さま、こちらにいらしていたんですね」

「おう、太兵衛にいくつか確認したいことがあったもんでね。──美成殿、お元気そうでなによりです。あなたも太兵衛殿に用事ですか」

夜四郎はちらと美成を見た。

「……まあね」

「太兵衛殿に用事ならば、私どもは席を外しましょう」

立ち上がった夜四郎は、失礼、と会釈をして外に出る。入れ替わりに美成が長屋の戸を潜った。

「別に、すぐに済むから兄さんたちも居ても構いやしないよ。なあ、太兵衛」


 美成はひどく冷たい視線で太兵衛を見る。長屋の戸板一枚では会話は隠しきれず、ほんの少し前にここまで尋ねて来たたまと美成は板越しにそれを聞いていた。

「なんだい、あんたは。一丁前にのっぺらぼうに同情なんてしちまってさァ」

「よ、美成さん、なんのことだか」

ふん、と鼻を鳴らす。

「のっぺらぼうだよ。あんたがそう描いたんだろう。その癖哀れだの、迷惑だの、中途半端な失敗作だのさ──随分偉そうに言うじゃない。あんた何様だよ」

そんなんだから、のっぺらぼうも怒って絵を飛び出すんだとなじる。太兵衛はしどろもどろに、それでも言葉を紡いだ。

「そ、それは言葉の綾でさァ。描いても上手くいかなくて、何にもならなくって、あいつが動き出すって知ってたら言わなかったんで……。本当に傷つけようとかは思ってなかったんでさ」

「はん、心は受け取った形が全てなんだってば。こっちがどう思いを込めようが、十割善意であろうが、受け取った側がそう感じなきゃ意味がないんだ。その齟齬を対話で解決できりゃあいいが、あんたはそれすら出来ないだろうが」


美成はとんとん、と指先で手元の荷物を柔らかく叩く。あやすようなその仕草に、たまの視線は吸い込まれる。あ、と呟いた声が長屋に落ちた。

──


 たまの視線には気づかず、美成は続けた。

「だから絵ってやつは難しいんだ。そんなんだからあんたの絵にはがないって言ってんだよ──込めるのも受け取るのも、想定外の色になっても、そこのところを理解しないならなんの意味がないってンだ」

「……へい」

「あんたから受ける視線もいっつもそうだ。せっかくいい目を持ってンのに、噂だ何だに流されてふらふらふらふらと────一度くらいさ、真っ直ぐに相手を見なよ。あんたのその言葉を振りかけたら、どうなるのかを、あんた自身の目でさ」

美成は睨みつけた。太兵衛は縮こまる。せっかく太兵衛も話をする気になって、美成も柔らかな雰囲気になりかけていたのに、すっかり元の様子になってしまっていた。


 たまは戸口から、必死に目を凝らして見ていた。視界が揺れて、夜四郎の袖口を引く。また揺れた。美成の言葉の起伏に応じるように、その手の内にある何かが揺れる。

 その歪みは、確かに彼方かなたのそれである。

「夜四郎さま──」

夜四郎は静かに脇差に手を置いたが、人の密集するこの狭い空間では刀は抜けない。第一、顔は出していなくても周りの長屋連中はこの喧嘩を聞いているはずなのだ。変に騒ぎを大きくするわけにもいかない。

 夜四郎は声を落として囁く。

「……いたのか」

「あい」

「何処に」

「美成さまの、腕の中」

「また厄介な……」

まさかあの御仁が隠しているとはな──と、夜四郎は一歩、長屋の中へ足を踏み入れた。


 美成が振り返る。

「……どうしたんだい、こそこそと」

「いや、失礼。是非そちらの荷物を見せていただきたく──」

「嫌だね」

ぴしゃりと言いのける。

「掛け軸が入っているのではないでしょうか」

「は、なんでそんなことを聞くのかね」

「その掛け軸はどなたのでしょう」

「……掛け軸掛け軸って、あんた決めつけてさ……。まあ、いいけど、これは私のものなのさ。生憎まだ未発表の仕事でさ、同じ店の絵師仲間なら兎も角、部外者の兄さんには見せられないんだよ」

そうにべもなく断られる。

「それは何の絵です」

夜四郎は射抜くような視線を荷物にやった。

「──なんだい、夜四郎さん。今日はいやに興味津々じゃないか」

美成が警戒の色を強めた。

「これは私の絵さ。何と思ってるかは知らないけどね、見当違いも甚だしい」

「……左様ですか」

「ふん、例の騒動はもう終わったのさ。夜四郎さんもおたまさんも、のっぺらぼうはもう諦めた方がいいんじゃないのかい」

「……なるほど、なるほど」

夜四郎は小さく笑みを浮かべて、また退がる。


 美成はすぐに夜四郎から顔を背けると、ちらと太兵衛を見遣る。存外、悲しそうな視線である。

「あんたさ、絵で何かを傷つけちゃいけないよ。そういう意図で描くならまた話は別だけどね、己が描いた絵にゃ、己の魂が篭るんだ」

「……おいら、何も、傷つけちゃいないよ」

「そンならそれでいい。ただ気をつけなって話だよ。あんたが誰かを傷つける気持ちはなくて吐いた言葉も、それを悪意として拾っちまう奴もいる。拾っちまって、一人で傷つく奴もいる。全部に目を配るのは不可能でもさ、自身の周りに悪意をばら撒かないくらいはできるだろうよ」

美成は唇を噛んで、小さく。


──ああ、しくじった。

──誰のためにもなりやしないよ。


呟いた声は、静かな空気に溶ける。


 太兵衛は消え入りそうな声で、

「……すんません」

これまた小さく呟いた。

「……何に対してなんだか」

美成はちらとそんな太兵衛を一瞥する。

「第一、顔がないがどうのと言ってたけどさ、それの何がいけないのさ。何者であってもなくても、それでも誰かの大切なモノにはなれるだろう。あんたが描いたのっぺらぼうだって、無意味なもんじゃない、私にとってはこれまでで一番良い絵さ。あんたの筆は良いもんを作ったと思ったさ」

「……」

「……頼むから、勝手に他人の幸福を手前が決めないでくんな。……私も、あんたも、のっぺらぼうも、誰もつまらなくなんてあるものか」

美成は吐き捨てるように言っていた。


 何かが小さく揺らめいて、彼の怒りに応える。

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