十二話 色眼鏡(一)

 たまが見舞いに飛び出した頃。

 太兵衛の長屋にはふたつ男の影があった。

「とんと現れませんねえ」

土間のそばに腰掛けて呑気な声を上げる夜四郎と、

「早いところ見つけちまわないとまた怒られる……」

その奥で頭を抱えた太兵衛である。

「兄さんはこれで落ち着くってェ言ってたけどよ、また現れやがったら今度こそ洒落になんねェよ」

「おや、此度の件で怒られました?」

「怒られちゃないけどよう」

太兵衛はため息ばかりついている。


 たまが破れ寺に来そうもないので、夜四郎は一人ぶらりと太兵衛を訪ねていた。町の噂話や瓦版を集めていたところ、ちょうどあたふたと町を彷徨う太兵衛を見かけて一緒になって長屋に戻って来たのだ。

「このまま消えちまったンなら良いのに」

「さあて、それはなんとも……。しかし呑み込まれたという話の人たちが一部は戻って来たそうですし、行先知れずの人も珍しい話ではありません。なにより残ったのが怪我の程度が軽い人ばかりと……何もなければ、このまま風化するでしょうが……」

太兵衛の言葉に夜四郎は小さく笑った。


 実際、夜四郎は美成が斬られた以降の晩は怪しげな場所に出向いて夜を明かしたりもしたのだが、わかりやすい結果は何も得られなかった。単に場所が悪かった、と言うのもあるだろうが。

「佐伯美成殿が斬られた晩以降、誰もその姿を見ていない──逆にその晩は、第三者が逃げる男を見ていると……ふむ」


 のっぺらぼうともなれば、流石に夜四郎でも一目で判別がつく。しかも相手は此方の人間を(戻したとはいえ)一度はその腹に取り込んだのだ。異界のものを腹に収めて異界に縁を結ぶ、所謂黄泉竈食のような形をとって、おそらく今ののっぺらぼうを見ることは普通の人であっても容易なのだろう。

 要するにたまの目に頼らずとも斬れると踏んだのだ。夜四郎はそうやって張り込んだのだが、結果振るわず今日となったのである。是非とも斬りたかったところだと嘆息した。

「……いないものは斬れませんな」

「夜四郎さんは結構物騒だよなあ、あのおたまちゃんの兄なのに。斬りたかったってさ」

「まあ、似ていない兄弟も山といますからね。それはそれで上手くいくもんです」

「へぇ、そんなもんか」

「そんなもんです」

太兵衛は壁の一点を見つめる。そこにあるのは、空っぽの紙だけだ。


 夜四郎はつと、それを指差した。

「……失礼、あちらがくだんの──?」

「いや、すまねえ、あいつは違うんだ。本物は美成さんのところにあるよ。なんでかさ、見舞いの日に是非とも譲ってくれってンでさ、渡したんだ。あれは新しく描きなよってことでもらったやつ」

「それは残念……」

夜四郎はひとつ唸る。縁深いものさえあれば、当ののっぺらぼうがいなくても、縁を断ち切るぐらいのことはいくらかやりようがあったのだが。


 太兵衛はひどく疲れた声で

「いっそのこと、このまま消えちまえばいいのに……のっぺらぼうのせいでよう、おいら散々さ」

とぼやいた。

「なんてったって、あの美成さんに怪我させたんだぜ。さっきも言ったけどさ、今回は怒っちゃなかったンだ。それがまた怖くってなあ。こんなの詫びようがねェもんよ……」

「はは、怒っても怒らなくても怖がられるとは美成殿もお可哀想なお方だ。しかし、とは、どの?」

「ええっ! 夜四郎さんはまさか美成さんのことを知らないのかい?」

「……まあ、知り合ったの自体、此度の件からですから、あまり……。そうだ、ちょうどいい機会ですから、太兵衛殿から見た美成殿を聞かせてくださいませんか。町の噂だとろくなものがありませんから」

夜四郎の視線が太兵衛に向けられた。


 夜四郎は勿論、佐伯美成の名は前々から聞いて知っていた。巷で有名な佐伯屋の三兄弟、その中でも特に異彩を放っていたのが三男美成だったのだ。兄弟に比べて、長くくすぶっていた人だった。


──不出来とされてた子が、殻を破ったね──。

──ようやっと、あの子も佐伯の名に恥じない人になった。

──佐伯屋さんもさぞ鼻が高かろうよ。

──出涸らしなんて誰が言ったかねェ。

──流石は佐伯屋の倅だ。


 そんな囁き声も、いくつか聞いたことがある。そんな人々は、佐伯美成の名前が売れてくると手のひらを返すが如く過分に褒めちぎっていた。彼らはこぞって自分に都合の良い、虚像を美成に見て、そのようにあれと美成自身に求める。その視線は夜四郎としても覚えがあるものばかり──。


 それが身近な存在である太兵衛からも、となると随分と悲しい話だ。太兵衛は夜四郎に向けて胸を張ると、どんと叩いてみせた。

「おうよ! 弟分のおいらにかかりゃ、兄さんのことはなんでも教えてやれるぜ!」

そう無邪気に、得意げに笑う。

「佐伯美成って言やぁ、ご存知、絵の神に愛された天才絵師だね。やれ実家のコネだの、いけすかねえだなんだのと抜かす野郎もいるが──まァ、かつてのおいらもそうなんだけど──一度あの人の絵を見たらそんな台詞呑み込んじまうしかないんだぜ。後に残るのは尊敬と憧憬、それから恐怖、それだけだね。あの人は絵の神様みたいな人なんだよ」

「はて、恐怖と?」

「あの人の目に自分はどう映ってンだろうなあってさ。圧倒的な才能の前にゃ、おいら太刀打ちできねえから怖いに決まってらア。それに生まれも育ちも違うし、あの人は何もかも持ってるじゃないか。住んでる世界も見ている世界も何もかも違うんだもん。そんな人が兄弟子で、もしかしたらおいらのことをよく思ってないんじゃないかってさ──そら、怖くもなるだろう?」

「……ふむ」

「それだけじゃないぜ、なにせ美成さんは佐伯屋のお坊ちゃんなんだ。いくら本人が縁を切ったのなんだの言ったって、肝心の佐伯屋にその気はないんだし、『佐伯屋の倅』って事実は変わらないよ。そんな人の機嫌を損ねてみろ──佐伯屋を敵に回す人なんざこの辺りにはいないだろ?」

「まあ、後々面倒ですしねえ」

「美成さんは家を出たがってるけどさ、最近だって若旦那がわざわざ自分で会いに来たりもしているくらいだよ。戻ってくる気はないのか──ってさ」

「そういった事情は初めて聞きました」

「あたぼうよ! こう見えておいらはあの美成さんに一番近いところにいるのさ! そういう事情はよく知って…………あいや、待て、これ勝手に言って良かったのかなあ? ううん、叱られると怖いからな、おいらから聞いたとは美成さんには言わないでおくれよ」

「……わざわざ告げ口はしませんよ」

ゆるりと頭を振ってみせた。


 しかし、と夜四郎は薄く笑みを浮かべた。

「太兵衛殿は、少しばかり佐伯美成殿を穿って見ているようですね」

「おいらが?」

「ええ。あの人は絵の神なんぞでなければ、佐伯屋の倅という枠の中だけに生きるものでもなく、あなたと同じ一人の絵描きに他なりません」

「ううん、そうなのかなあ……。夜四郎さんも絵師として、兄さんの絵を見たらわかると思うけどよう」

「まあ、そこは素人ですからね、ただ、あの人は神なんかじゃないんですよ。私やあなたと同じように、この町に生きて朽ちていく一人でしかなく──良くも悪くもね」

「おんなじかあ」

「窮屈なものなのですよ、他人の決めた枠組みに嵌められてしまうというのは」


 憧憬、恐怖、羨望、そういった強い色眼鏡越しの景色の中で美成は生きてきたのだ。燻っていた頃も、花開いた頃も、そうあれと求められてきた。それはさぞ疲れることだろうと、夜四郎はその痛みを想像できる。


 佐伯美成の半生はよく知らないが、彼を形作った状況はよく知るものなのだ。己を守るために、周りに冷たさをばら撒く、その冷たさが更に色眼鏡に余計な色をつける、色眼鏡を厭うて更に──そうやって佐伯美成を形作った。


 夜四郎はそこでふと思い至る。

 おそらく、太兵衛の純粋な思いが筆に乗り、歪んだ形で姿を成したモノがのっぺらぼうなのだ。ついでにそれは、富も才もあるのに一番欲しいものが手に入らない欲しがり屋の美成を模したモノでもある。不幸な偶然の重なりが、彼方かなたにあるはずのそれを、此方こなたに生んだのだ。


──太兵衛殿の絵には色がないと言っていたが、なに、ちゃんと色はついているではないか。それがいいモノかはさておいたとしてもだ。


 知らず知らずに口角がゆるりと上がる。輪郭が分かれば、その動きも読みやすくなる。動きが読めれば、斬ることも叶う。まだ消えたわけではないと、夜四郎は踏んでいた。また現れるだろう、とも。


「時に、太兵衛殿」

「なんだい?」

「のっぺらぼうを描く時──あなたは何を思いましたか」

「何をって──」

「なに、理由もなく絵が動くわけがありません。例え偶然の重なりだとしても、全てのことにはきっかけがあるものです。のっぺらぼうが動き出すに至ったもの──それを作ったもの──私はそれが知りたい」

夜四郎は真っ直ぐに太兵衛を見た。

「あなたはのっぺらぼうに、何を託したのか」

「託したっていわれてもな……、おいら、ソリャ、うまくいかなくって少しは不満とか愚痴をぼやいたかも知れねえけどよう。おいらは別に……」


それなら、と夜四郎は問いを変えた。

「何故あれに美成殿の姿を描かれたのですか」

「それは前にも言った通り憧れてたからさ。おいらは美成さんみたいな絵を描きたくて、できたらいつか並び立ちたくてサ。好きなものを描くンたら……って、気がついたら美成さんの形で描いてたんだよ」

「何故最後まで──顔を描かなかったのですか」

「それは……おいらの描こうとしてた美成さんの顔が、あんまりしっくり来ない気がしたんだよ。それによくよく考えたら姿絵を描くでもなし、勝手に顔まで借りちゃあ申し訳ないじゃないか。そうなると、どんな顔してンのか一向に見えなくなっちまったんだよう」

「ほう。では、あれはある種、あなたから見た美成殿の形であるのですね」

「……そ、そうなるのかい……?」

太兵衛は訳がわからないとばかりに頭を振ってみせた。

「でも、あいつはどっちかってェと、おいらなんだよ。目立った名前も顔もなくて、誰にもなれてないおいら自身なのさ」


 太兵衛が筆に乗せた思いは、普遍的なものばかりだ。それが何の因果か、彼方と結びついてひとつの妖──誰にもなれない、物欲しがりなのっぺらぼうを生み出した。


「結局消えちまったあいつはさ、おいらみたいに中途半端なんだよなァ。化け物絵にするにゃ怖くなかったし、顔がないんじゃあどうにもならないじゃない。姿形ばかり立派でもさ、何にもなれない失敗作なんだよ」

太兵衛から忌々しげな言葉が溢れる。

「あんな哀れで、迷惑な絵、描かなきゃよかったんだよな」

そうしたら兄さんに怪我をさせることもなかったのに──。


 太兵衛が呟くのと、がらりと障子戸が開け放たれたのはほとんど同時だった。

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