十一話 かくしごと

 浮世絵師・佐伯美成は一連の騒ぎに関わっているのではないか──町の噂の中には、そんな話が確かにあった。


 誰が言い出したか、下手人と思しき人のその姿形が同じらしい、或いは似ているらしいというのが主だった理由だったのだが、なんとその当人が辻斬りに襲われたというのだから、更なる噂が囁かれることになるのも当然といえば当然の話である。悲劇の絵師かはたまた悪徳の絵師か。生まれた才能を良いことに、お高く留まったこの絵師こそが怪しいと言う人もいたのだが、結局誰もその確たる証拠は掴めなかった。


 時を同じくして、こののっぺらぼうに呑み込まれたと思われていた人々が数人、各家に戻ったというのも、彼の噂を払拭するに役に立った。戻ってきた誰も彼もがふわふわとした様子で、のっぺらぼうに出会ったような気はするものの、それ以外のことは何一つ覚えていないと言うのだ。白昼夢でも見ていたような──そんな具合である。


 おかみさんが今朝言ったように、志乃屋でもその話が飛び交っていた。瓦版を持って顔を寄せ合う人々、囁き合うには大きすぎる声で話す人々、それから。

「お、おたまちゃん、大変なことになっちまった……!」

真っ青な顔の太兵衛が駆け込んできて、たまは詳しい話を聞くこととなった。流石に人々の好奇の目もあるので、店奥の席に案内する。


 太兵衛は声も肩も落として語り出した。

「よ、美成さんがさ、昨晩のっぺらぼうに遭ったらしくてな、そンであろうことか利き腕を怪我したんだよう。話によりゃ、近くにいた蕎麦屋の屋台が駆けつけたら現場から逃げる男の姿を見たって話さ。今朝一番に家の方に行ったんだけどよ、ここがびっくり、おいらちっとも怒られもしなかったよ。どうにかするっつったのに、その日にこんなことになっちまってすまねえって言ったらサ、見舞いに一番に来てくれるとは感心だねえ、なんてにこにこ笑ってて……」

太兵衛はさらに弱々しく呟いた。

「きっとさ、兄さんなりに気を遣ってくれてンだよな。それなのに言うのが怖いって結局こんなことになっちまって……悪いことしちまったなァ」

こんな具合なのだと言う。


 たまとしては話を聞くなりすぐにでもお見舞いに行きたかったのだが、噂が人を呼んだか、店の方が連日の大賑わいなのだと言うから近づこうにも近づけず、話を聞いてからちょうど七日目の朝。ようやく落ち着いたとの話を太兵衛から貰ったたまは、見舞いの饅頭を抱えるなり美成の元へ大急ぎで駆けつけたのである。



 美成は絵草紙屋の裏手にある小さな家に一人で住んでいた。家としてはそう広くはないものの、時季の草花が咲き乱れた小さな庭は風情があってとても美しい。

 店の小僧に案内される形でたまは家の前まで案内されたのは昼頃の話である。

「もうし、美成さま、志乃屋のたまでございます」

たまは声をかけてから、戸を叩こうとして手を止めた。

「こらこら、あんたさ──いけないよ──ああ、それなら──ソリャ、むぼう──そうそう、そうやって──」

美成の声だ。誰かと話しているらしい様子が聞こえてきた。相手の声は聞き取れないが、美成の落ち着いた声の調子から察するに友人なのだろうか。


 邪魔をするのもなんだと思って、たまが頃合いを見計らっているうちにぱたりと声がしなくなった。動く人の気配もないし、裏口から帰ったのか、はたまた二人で黙々と茶でも飲んでいるのか。

 一人で考えても仕方ないと、たまはもう一度、

「美成さま、志乃屋のたまでございます」

声をかけた。先ほどより大きめに発した声はちゃんと中まで届いたらしい。しばしの間があってから、

「おや、客かい? 落ち着かないねえ」

そんな声がして、美成が戸を開けた。


 たまと目があって、美成は驚いた様子を見せた。少しだけ視線をぐるりと動かしてから

「あれまあ、おたまさんじゃないか。こりゃ驚いた」

と呟いた。

「夜四郎さんと来てるのかい」

「いえ、お声掛けする前に来てしまったので、今日はたま一人です」

「……ふうん? そンでどうしたんだい、また聞きたいことでもできた?」

「美成さまがのっぺらぼうに襲われたと聞きまして、お見舞いに参りました」

とは言ったものの、当の本人はけろりとしたものである。腕には手当ての後は見えるが、顔色はすこぶる良いのである。


 美成はたまの言葉に目尻を下げた。

「あれまあ……ソリャ嬉しいね。ほんの一、二回会っただけの私を心配してくれたのかい」

「あい。兄さまも心配されてたので、時期を見て来ると言ってました」

「あはは、気持ちだけでいいよ。ここ数日店も私も慌ただしいからねェ。あの人、あの寂れた廃寺にいつもいるのかい? そうなら、私の方から元気な姿を見せに行っても良いや」

歩けば気分転換にもなるしね、と肩をすくめて見せる。

「ご覧の通り、私は結構ピンピンしてンのさ。間抜けだよねぇ、転けちまってさ、傷もそれくらいのもんなんだよ」

「ご本人から聞けて安心しました」

「あはは、若い娘さんに心配をかけてたんじゃあ私もまだまだだねェ。すまないね、太兵衛共々騒がせちまったや」

「いえ、ご無事なら良いのです」


 ふう、とたまは嘆息した。それから持ってきていた包みを美成に差し出す。

「志乃屋からお饅頭とお茶の差し入れです。よかったら皆さんでどうぞ」

中に人がいるのかも、というたまなりの気遣いのつもりだったのだが、美成は怪訝そうにたまを見た。

?」

「ええと、あの、先に誰がいらっしゃってるのかと……」

「いや、無愛想な偏屈者の住まいさ。七日も経てばお祭り騒ぎも落ち着いて、今は誰もいないよ」

「はあ」

「この後も人が来る予定もないしね……、ふむ、そうか」

美成は少しだけ考える素振りを見せてから、

「……片付けてくるからちょいと待っとくれ。せっかく来てくれたんだしお茶くらいは出そうか。少し上がりなよ」

たまを家に招いた。たまは首を傾げながら、その後に続く。


 しばしの間の後、通された客間は整然としたものだった。勧められた座布団に先人の温もりもなく、閉められた襖の向こうにも人がいるような気配はない。

──たまの聞き間違え? もしくは、たまが会えないような身分のうんと高いご友人がお忍びで来ていたのかな?

そう思うのは、最近貸本屋から借りた物語の影響を受けているからか。だとすればあまりキョロキョロと見回すのも野暮だろう。

 あんまり長居もよくないだろうし、気を遣ってもらった分だけお邪魔して、お茶一杯ですぐに帰ろうとたまは真っ直ぐ美成の方に向き直った。


 どこかご機嫌に饅頭を取り分けて、茶を淹れて、美成はちらとたまに視線をくれた。

「それで、あんたのおっかない兄さんはのっぺらぼうについて何か掴んだのかい?」

たまはふるふる頭を振った。それを満足そうに眺めてから、

「まァ、呑み込まれたってェ人も戻ったんだしさ、案外あっさりこの件も終わりかもしれないねェ。ああ、勿論、依頼した以上お礼はするけどね」

と一言。たまは小さく首を傾げた。

「そうなればいいのですが……。ええと、夜四郎さま、兄さまはおっかなかったですか?」

「友人になれないほどじゃあないけどね、おっかないよ。何処を見てるのやら、目があってるくせに私のことなんて目に入ってないみたいでサ──おっと、こいつは兄さんには内緒だよ。兄馬鹿なのかね、あんたには随分優しいみたいじゃないか」

「むむ、そうでしょうか」

「そうだよ」

「夜四郎兄さまは尖って見えるかもしれませんが、とてもお優しい方なのです。お寺の鴉ともお友達なのですよ」

「へえ? あの人鴉を飼ってンの? 確かにそいつは面白い話だねえ」

くつくつと美成は愉快そうに笑みをこぼした。

「とにかくまあ、不用心すぎる妹がいちゃあおっかなくならざるを得ないのかもしれないねぇ。今日だって一人で突っ走って来たんだろう? 一応ここも男所帯だしね、今度来るときは事前に店の奴にも知らせてさ、ちゃんと太兵衛か兄さんを連れて来なさいよ」

「あっ、すみませぬ」

「あはは、あんたはぽやぽやしてるからねぇ。ま、ここまで通した私が言えた口じゃあないけど」

美成は楽しそうに笑っていた。


 美成とたまは向かい合う形で座りながら、取り止めのない話をいくつか交わす。聞けば、ここ数日で美成の絵が飛ぶように売れるのだと言う。風景画、役者絵、美人画を求める人が山といて、新しい錦絵の依頼も来るわでてんてこ舞いなのだと。

「怪我の功名ってやつかな。皆、噂の不幸な絵師様ってのに興味津々なのさ。有難い話だけど、まァ所詮一過性のものだよねぇ」

野次馬根性所以だからと、至極冷静な感想である。

「それにしても皮肉だよねえ。今回のことで、やっとただの一人の絵師として求められるようになったんだからさ。佐伯屋の倅の絵じゃなくて、不幸な絵師の佐伯美成が描いた絵を求めてンだよ」

その上で、美成の絵を認める声があがったのは嬉しいことだと呟く。

「そういえば、以前来た時よりも賑わってますね」

「あんた、結構はっきりと言ってくれるね……。ま、その通り、例の件で店自体が賑わってくれたんだよ。おかげで店の連中が忙しいったらないよ。嬉しい悲鳴ではあるけどねぇ」

今日はそれでも大分落ち着いたんだよ、と美成は嬉しそうに笑った。

「私にとっちゃ、良いことばかりでさ、のっぺらぼうはある意味福の神だったんだねぇ。こりゃ、太兵衛に強く言いすぎたことを謝らないといけないな」


 普段つんと澄ましたその裏はこうも柔らかく、そこに気難しいだの、無愛想だのと言われる雰囲気はまるでない。普段もこの雰囲気であれば太兵衛との対話も、他の人の誤解も解けそうなものなのだが、

「いつもこうとはいかないんだよ、おたまさん」

美成はゆっくりと頭を振った。

「あんたには少し馴染みがないかもしれないけどね、人って何かしらを腹に抱えながら、表面だけは善意を繕って生きているものなのさ。私も含めて、人を見るとかにゃ必ず色眼鏡が挟まるものでね──この人はきっとこうだろう、ああだろうと勝手な期待をしてさ。それをいちいち判断するのが面倒だとね、『常に不機嫌な気難しい変人』としてあしらった方が楽なんだよねぇ」

こういうところがいけないんだけど、とため息を吐きつつ、困ったように笑う。

「もっとも、友人だとかにゃちゃんとしてるさ。最初会った時よりはマシだろう?」

「あい、お話ししやすいです」

「そんならいいや。……まあね、背負った名前に負けてるようだと、結構いい食いもんにされちまうからさ、漬け込まれないようにしなきゃならない時もあるんだよ」

たまは曖昧な頷きを返した。


 元より、たまの周りには気の良い人ばかりが集まっていたからその感覚に馴染みが薄いというのもある。背負って負ける名声もないというのもある。

「ま、のっぺらぼうがくれた良い風向きに乗れたらさ、いつかはただの絵師としてもっと気ままに絵を描けるようになるかもね」

しみじみと呟いてから、こめかみをとんとん、と軽くたたいた。

「おっと、要らない話までしちまったねぇ。おたまさんたらぽやぽやして綿毛みたいだからさ、ついつい口を滑らせちまう。尋問官にゃうってつけだねぇ」

ごふ、と咽せかけてたまは慌てて茶を飲み込んで、絞り出したのは一言。

「わ、綿毛? 尋問?」

「そ。あはは、なんだい、その顔は! そういうところがなんだか憎めなくってさぁ、つい油断しちまうんだよ」

「むう……」

たまは口を尖らせた。夜四郎もそうなのだが、美成はたまを実際よりもうんと子供のように扱う時があるのだ。

 膨れてるたまをよそに、美成は満足そうに続けた。

「今回のこと、気負いなく話せるあんたらに会えたのは良かったね。太兵衛の奴も、怪我したって言ったらさ、慌ててすっ飛んできてさ、その時にはそれなりにちゃんと話ができたし。怪我人は出ちまったが、あの太兵衛がしでかした騒動もこれで一旦は落ち着いたんだよ──」


 語る、その瞬間。


 ぶわりと視界の端が揺らめいた。ぞわりと背中に冷たいものが走る。目の前の美成は、ここに来てからずっとだ。違う、もっと別の何かが掠めたのだ。

 彼方から紛れ込んだ何か。

 たまは視線を彷徨わせてそれを探ろうとして、すぐに襖が少しだけ開いているのを見つけた。先程は閉まっていたはずの、その奥に──。

「おたまさん」

はっとして視線を美成に戻すと、心配そうな表情がそこにある。それだけではない、何か警戒するような響きも感じて、たまは思わず視線を逸らしてしまった。

「……どうかした?」

口の中が乾く。襖の奥の闇から、何かがこちらを見ているような気がする。

「顔色が良くないね。そろそろ帰った方が──」

「美成さま」

たまは思い切って声を絞り出した。おちつけ、と心に言い聞かせて、ゆっくりと息を吸う。

「あの、ここのところ、何かお変わりはないでしょうか」

「……あれまあ、おたまさんてば、本当にどうしちまったんだい」

美成は何かを隠している──それも、ぽやぽやして油断するようなたまに、だ。


 たまに対する美成の声は終始柔らかく、優しいものだ。態度も柔らかい。しかし、明らかな拒絶がそこにあった。踏み込まれることへの強い拒絶。ゆるりと立ち上がると、ごく自然な仕草で襖を閉めた。

「こ、困ってることだとか、ないでしょうか。たまも夜四郎さまも、美成さまの力になりたいのです」

「……そいつは有難い話だねぇ。お言葉に甘えてさ、機会があれば相談させて頂戴よ」

「……あ、あい」

たまは続く言葉に迷ったが、結局見つけられなかった。ここで下手に深掘りして心を閉ざされるよりは、夜四郎に意見を仰ぐ方がいいたろう、と自分を納得させて、なんとか笑みを浮かべてみせた。

「すみませぬ、なんとなくお伝えしときたかったのです」

「そいつはありがとうね、気持ちは受け取ったからさ」

美成はそう言ってまた軽い調子で話をしてくれたが、その後のお茶の味はたまにはわからなくなっていた。


 お茶を飲み終わって少しして、

「おっと、おたまさん、そろそろ帰らないといけないんじゃないかな」

美成は軽くたまを促した。たまも素直に頷く。

「つい長居をしてしまいました」

「何処か寄り道の予定はある?」

「一度は志乃屋に戻る予定です」

「そンなら、太兵衛の長屋の前は通るね。ちょっとした届け物ついでさ、途中まで送るよ」

そう言ってたまを先に家から出した。

 やや後からやってきた美成を見上げるが、やはりその輪郭は普段通りである。一瞬、こっそりと何かが着いてきていないかとも思ったのだが、道中何度振り返ってもいつもの通りが続くだけであった。怪しいのは美成の手元にある、何かの包みだが──違和感の正体を掴めないまま、たまは足をすすめるほかなかった。

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