十話 美成、襲われる

 のっぺらぼう。

 誰の顔も持たない、何者でもない、化物。

 普段なら恐ろしいと思えるそれを、何者でもない彼を、美成はほんの少しだけ羨ましいと思っていた。


 奇しくも美成と同じ姿を持つそれの顔は、さながらまっさらな紙だ。まげの結えが似た他人、小袖の色模様が同じ他人、そんなのは万といる。けれども顔はそうもいかない。顔のない彼は、どんな顔も描けるが故に誰にだってなれるのだ──。


 それが、美成は羨ましかった。


 佐伯屋の倅という顔、あの兄たちの弟という顔、そう言ったものに縛られていなかった頃に戻りたいや────叶わぬ願望を胸にくすぶらせたまま、美成は夜道を歩く。

 自身番からの帰り道。

 美成はざくざくと土を鳴かせて、月明かりの下を歩いている。

「無駄な時間だったよ、まったく──」

誰に言うでもなく呟いた。無駄で当然だ、だって事実無根の話なのだから。真面目に絵師をやっていただけの男なのだ。絵一筋に打ち込んで、浮いた話もないけれど、叩いて出る埃もない。

 皮肉にも、彼の嫌疑を晴らすのには普段から注目されていたのが役に立った。出向いた先で、人が覚えている。覚えている人が美成がその時間に出歩いてないことを伝える。

 元より嫌疑というにはあまりに証拠が甘く、念のため話を聞くという具合だったのだ。うろ覚えの目撃証言だけはある、しかしその場にいない証拠がたんまりと出てくる美成を何の罪に問えるわけもない。


 そうは言え、ついでに話を聞かせろと、あれやこれや根掘り葉掘り聞いてくるので、随分と夜遅くなってしまっていた。木戸が締まるまであと半刻ばかりといったところか。

「佐伯先生はなんと言ってもあの立派な佐伯屋さんの御子息。それがこんなことに巻き込まれなさって……いやはや、そんなわけもないのに。災難ですなァ」

帰り際、そう声をかけられて、思わず顔をしかめたのは許されたい。全くこんな時まで『佐伯屋の優秀な倅』かい──これが冤罪えんざいなどでなければ、今度は『佐伯屋に泥を塗った愚息』になるのだろうなと想像できて、ひどく不機嫌になったのだ。



 遠くに蕎麦そば屋らしい屋台の灯りが見える。遠いところに人の影がひとつふたつ、提灯が揺れる。猪牙舟ちょきぶねの影が川を遠ざかるのも見える。

 それなのにこの辺りだけ、ポッカリと人がいなかった。道は常夜灯で照らされている筈なのに普段よりも暗いような気がする。

 ぞわりと肌が粟立った。闇に溶けて、何かがこちらを見ているような気になって、気持ち、早足になる。

「……やだね、まったく──」

不意に思い出した太兵衛の話で柄にもなく怖がるとは──そう自嘲して、ふと前を向いた時。


 美成の目の前に、はいた。


 月明かりの下、男の顔が真白く浮き上がっている。揺らめく縞の小袖、アレは普段の私と同じではないか。髷の結い具合もよく真似られていて、その格好も、背丈も、やや重心が右に寄った立ち姿も、全身の色合いもまるで同じだった。

 ああ、あれがそうなら、太兵衛は確かに観察眼はあるのだと。なるほど、これは似ているし、関与を疑うわけだ──そう、思わず感心していたところ、ぐるりとその首が回り。


 目があった。


 いや、目が合うわけがない。目など何処にもないのに! 口が笑う。口など何処にもないのに!

「ャア」

彼は美成を見るなり、ゆらりと動いた。視線だけ落とせば、握られた脇差が見える。聞こえたのは歪な音。

 のっぺらぼうが動いたのと、美成が悲鳴を上げて転がるように駆け出したのと、どちらが速かったか。

「ひぃぃ……お、お助けぇッ!」

美成は一介の絵師である。元より刀など持ち合わせてはいない。あると言えば、袂に筆の入った木箱がひとつあるのみである。そんなもの、一太刀浴びれば無意味だ。だから、灯りの方へと逃げるほかない。


 口がないのに、声が聞こえる。

 目がないのに、視線を感じる。


 女の声にも聞こえる、女の声にも聞こえる。睨め付けるような視線かと思えば、哀愁に暮れる視線のようでもある。ひどく不思議な感覚だった。外見は美成だったが、発する声は知らぬ何処ぞの町人のそれであろう、ならば刀を握るその腕は一体誰の腕なのだろう。


──聞いたかい、美成さん。

──あんたに似たって噂の化物、人を呑み込んだんだとサ。


店で誰かに聞いた話が蘇る。それでああ、と思い至る。何もかも、混ざっているのだ。混ざった上でまっさらなのだ、こののっぺらぼうは。


 必死に何かを模そうとしているのだと美成はわかった。見様見真似で、誰にもなれずに、それでも誰かになろうと、沢山の色が混ざっている。

 濁り濁って、何色にもなれなかったそれは泣き叫んでいるようにも見えた。どんな枠にも入れない、まっさらなのっぺらぼう。


──たくさん混ぜても、所詮『佐伯屋の倅』という枠から出られぬ己と真逆だ。


 駆けていた美成は、三間もいかぬうちに勢いよくつんのめる。足がもつれて路端の小石に躓いて、

「うぐ……ッ」

無様に夜道に転げていた。

 振り返れば、のっぺらぼうはもう背中に追いついていた。ぎらりと刀が月明かりを反射したのを見た。影が揺らめき、のっぺらぼうの身体が膨張する。

「ひ、ひぃぃッ」

叫んで、せめてもと庇うように腕を上げて──はたと美成はまた動きを止めた。


 美成はのっぺらぼうを見た。

 咄嗟に見上げてしまったその顔。さまざまな色が混ざり合うそこに、美成は不思議と色を見たのである。彼の訴えを、美成は聞いてしまったような気がした。彼の悲しみを見たような気がした。

「……あ、あんた、まさか……」

あわや斬られる──そんな瞬間に、美成は恐怖も忘れてのっぺらぼうを見つめていた。

「な、泣いてるのかい……」

「ァ?」

気がつけば、美成の口から勝手に言葉が飛び出ていた。


 ぴたりとのっぺらぼうの動きが止まる。おかしな話だ、涙を流す術なんて持たないはずなのに──それでも美成には、確かに泣いているように見えたのだ。否、悲しくて泣きたいのに、泣く術を知らないかの如くに見えたのだ。

「あ、あんたはさ、悲しんでる──そ、そうじゃないのかい」

のっぺらぼうは答えない。

「……あんた、人が憎くてこんなことしてるんじゃ、ないんだね。そ、そうさ、きっとそうだ。顔がほしくて、どうすればいいか分からなくて、だけど持っていたのがその二本しかなくて──」

つるりとした表面が月明かりにぼんやりと浮かび、美成を見下ろしている。


 恐ろしさはとうに消えていた。そうと感じないのは、それが突然考え込むような素振りを見せたからだろうか。刀を持たぬ方の手を顎にやって、小さく首を傾げている。

「カナシイ?」

呟いた声は、今度は少年のような声だ。

「ナニガ?」

「う、羨ましいンだろ、顔を持っている人が。でも、足掻いてもどうにもならないから、そんな現実が寂しくて──あんたは、きっと悲しいんだよ」

美成はまたも考える前に声に出していた。


──私が、そうだから。


 知らずのうちに美成は己とのっぺらぼうを重ねていた。同じ色を、そこに見た。人に求められる顔しか持てない己と、顔を求めてならない無貌の彼。

 のっぺらぼうは刀を持った手をだらりと垂らしたまま、こちらの言葉を待っている。顔欲しさに人を斬る、きっとそれ以外の道を待っている。


「あ、あんた、そんなに寂しいならさ」

うちにおいでよ、と思いの外優しい声が出た。


 のっぺらぼうは戸惑うような素振りを見せた。怖い思いもある、人を呑んだという話が嘘か真かもわからない。けれども、目の前にいる彼の助けになれれば、きっと自分はただの『佐伯屋の倅』以上の意味を持てるのではないかという気持ちが湧いてきた。

 そう思うと、すうっと恐ろしさが抜けて、思うように動かなかったはずの身体に自由が戻る。怖さも聞いた噂話もどこかへ飛んで、代わりにどこか温かなものが込み上がるような気さえする。のっぺらぼうが震えたのを見て、美成は立ち上がって同じ目線に立った。


「……もしさ、私の言ったことが的外れじゃないなら泣いちまえばいいんだ。悲しい時は、それを流しちまえばいい」


のっぺらぼうは応えない。


「一人が嫌なら、やり方がわからないなら、私も一緒に泣くよ。こうやって泣けばいいってさ」


美成は迷わずに手を伸ばした。差し出したその手をのっぺらぼうは戸惑うように見つめる。

 勝手な期待と失望の中、心に蓋をして、思いの丈も言えずに燻っていた自分──それによく似た、この妖。足掻いて足掻いて、夢の先を確かに掴んだはずなのに、満たされないその心。


「迷子みたいにぐるぐる回ってンだよね、私たちはさ。勝手な願いを厭うておいて、人にはそうあれと願っちまうんだ」


美成の手をのっぺらぼうはおずおずと掴んだ。刀はいつの間にか鞘に収められている。美成は表情を緩めて、目の前の白い顔を見つめた。


「そのさ、……あんたに居場所がないなら、私のところに来なよ」


もう一度繰り返すその言葉に、今度こそのっぺらぼうはゆっくりと頷いた。戸惑いはまだ残るものの、美成をどうこうするつもりは既にないらしい。

 美成は心を決めて、この妖の耳元に数言囁く。のっぺらぼうは追われている──美成は町の人に疑われている──それを欺く為に必要なことを済ませねばならない。

「ほら、きっとこれで大丈夫だよ。あとは私が上手くやるさ──」


 やがて、夜が更ける。

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