閑話 美成の独白

 きっと完全にはわかりあえないのだろう。

 お互いにお互いが眩しいから、直視出来ないから、分かり合えるはずもないのだ。平行線に立ち続けているのだと、佐伯美成は太兵衛を見るにつけ、ずっと思っていた。


──だってさ、あんたが私を羨ましく思うのと同じか──それ以上に、私こそあんたが羨ましいんだよ、太兵衛。


 どこまでも無邪気に、純粋に、真っ直ぐ伸びる筆筋。描きたいままに描いたかと思えば、人の戯言にふらふらと流されて、しかし決して自由と光は見失わない太兵衛のことが、ずっと羨ましかった。


 家柄や才能に恵まれながらも、佐伯美成という男は生きることにこと不器用だった。感情表現も絵にしなければ素直になり切れず、物心ついた頃から優秀な兄と比べられることを厭うて、ひねくれて。やることなすこと上手くいかなくて、さらに歪んでいく自分にほとほと嫌気が差していた。ようやく得た夢の欠片ですら、自分は素直に受け止められずに穿ったようにしか捉らえられないのだ。いつもいつも不満ばかりを抱えていた。


 対する太兵衛は、貧乏暮らしの中でも器用に世間を渡り歩いていた。自由に生き、自由に人と交わり、自由に筆を走らせる。

 苦労も多かったろうに、失敗しても笑って、次に挑む。ひん曲がったり挫けたりもするが、ちゃんと一歩ずつ進んでいる。どこか人の心には疎くて、ずけずけと踏み込んで、それでも『太兵衛さんじゃあね』なんて笑って許される。


 真っ直ぐで、無頓着で、呑気で、些細なことに感情を豊かに表せる、そんな太兵衛がずっとずっと羨ましかった。


 だからこそ、許せなかった。


 真っ直ぐな太兵衛なら、ひねくれた美成よりも近く、のっぺらぼうに寄り添えたかもしれないのに。彼に光を与えられるのは太兵衛だったと言うのに。

 彼がいつもの無邪気さでのっぺらぼうの心をにじったように思えて、話を溢れ聞いた瞬間はどうにも我慢がならなかったのだ。


 美成自身、羨まれる立場であることは理解している。恵まれた生まれだという自覚は当然ある。物心ついた頃には何でも揃っていたし、食うに困った記憶もない。

 それでも不満だったのは、誰も、美成自身を見てくれないと思ったからだった。佐伯家の倅としてしか、己の価値を見出されず、見出せなかった。様々な道を歩んでみても、結局は『佐伯家の倅』という枠の外には行けなかった。


 うまくやれば『流石は佐伯様のご子息』と言われ、ひとつ間違えると『佐伯家の面汚し』と呼ばれ、算盤そろばんや竹刀を握れば『あの家の生まれなのに凡庸な子だ』と陰口が聞こえ、兄たちがどんなに優秀であるかを聞かされるばかり。

 そんな日々の中、竹刀も算盤も捨てた頃、ようやく見つけたものが絵の道だった。


 太兵衛が羨むような天性の才能なんてどこにもなく、ただ自分は運が良かっただけ、だと美成は思っていた。誰に何を言われても美成はがむしゃらに筆を握って生きてきた。

 月日を重ねる。

 年が幾重にも積もりゆく。

 そのうち、ふと評価される機会に恵まれたのだ。そうすると今度は良い先生に目をかけてもらえた。すると腕は更に上達して、絵師としての名前も上がる。描けるものが増えて、描きたいものが増える。絵が増えれば絵を見る人も増える。更に名前が上がり、評判になり──そうすれば、人々は掌を返すようになるというものだ。


 佐伯美成はなんだかんだでずっと幸運だったのだ。幸運に努力を重ね、しかしその先にも、やはり佐伯の看板は追ってくるのである。


 佐伯美成ではない人になってみたかった、と言うのが贅沢な悩みだと言うのは、自身、十も承知だ。

 恵まれた家柄に生まれ、望んで絵師の道に進め、更に良い運に幾重にも巡り合って名を高められた。けれど、その道すがらで、彼は彼自身を見失っていたのである。燻って、迷って、辿り着いた先で、自分はどのような顔をしているのかがわからなくなっていた。


 絵を描いているうちは無我夢中になれる。

 ちらほらと自身の絵を求めてくる人を見るのも好きだった。

 ただの絵師として売れていたのはほんの最初だけだった。

 名が売れるに従って『佐伯屋の倅』という肩書きだけが目立って、皆それを口にあげるようになる。今まで美成を無視してきた人からも声をかけられる。不出来とそしったその口で、彼の絵を讃えるのだ。自分は大器晩成するとわかっていたのだと。これまでは愛想を振りまいても振り向きすらしなかった人々が、つんと澄ましていても擦り寄ってくるのが、たまらなく嫌だった。

 他意はない人もいただろう、彼らは純粋に褒めたつもりなのだろう──それがひどく窮屈きゅうくつだった。誉めそやされた絵は佐伯家の血ではなく、美成自身が描いたものだと、わかってほしかった。


 故に、美成は願い、羨んだ。

 一遍でいい。一刻でいい。何にもない、どこのだれでもないただの一人になりたいと────まっさらなのっぺらぼうのことすら羨む自分以外の誰かに。


──まったく、うまくいかないよねェ、いい歳こいてないものねだりなんてさ。


美成は一人、苦笑する。なんだかんだで己が一番『佐伯屋の倅』という名に縛られている。その名前に相応しくあろうとするのだから。

 何者にもなれずに彷徨うあの妖と、名前に縛られて己を見失った自分はやはりどこか似ているのだと、確かにあの晩思ったから──佐伯美成はのっぺらぼうを迎え入れた。

 彼に名を、帰る場所を、此方こなたへの縁を、与えたのだ。


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