四話 太兵衛を訪ねて方々へ(一)

 日はまだ高く、じわりと汗を誘う。


「あれっ」


 たまがそんな声をあげたのは、ところ変わって、太兵衛の住む長屋の前である。たまと夜四郎は二人揃って太兵衛を訪ねてきていた。


 ただ、声をかけても返答がないばかりか、人気すらまるでないのである。たまは拍子抜けして、とぼけた声をあげてしまった。

「留守のようだな」

「今日は家にいらっしゃると聞いたのですが……」

急用だろうか。たまは首をひねる。もしやのっぺらぼう絡みで何かあったのかとも考えて、いやいや少し散歩に出ただけだろうと思い直して、ころころと表情をくるくるさせる。

「部屋はここであってそうだよなァ」

「あい、そのはずです」

たまは戸をもう一度確認するように見るのだが、面の障子には墨で伸び伸びとした絵が走り──しかもご丁寧にとも書いてあるのだから、見間違えようもない。


「そんなあ、太兵衛さぁん……、いつ頃帰ってらっしゃるんですかぁ……」


ここで待つべきか、否か。結構急ぎのような話だったけれども日を改めるべきなのか──たまの情けないつぶやき声は、丁度井戸場に出掛けていた近くの部屋の女が拾ってくれた。彼女はたまを見て微笑んだ。

「おやまあ、志乃屋さんところの。こんなところで何してるんだい? 太兵衛のやつに何か届け物?」

たまもぺこりとお辞儀を返す。

「あのう、そういうわけではないんですけど……。太兵衛さんはお出かけでしょうか?」

「ああ、太兵衛さんならついさっき出掛けたけどねえ。あの人にしては随分慌ててたよ」

「あう」

たまは肩を落とした。


「ちなみに何方どちらへ……」

「ソリャ、あんなでも絵師だもん、おたなだよ。なんでも兄弟子に呼ばれたんだってサ、面白いくらいに大慌てだったよ。ただまあ──あの様子じゃあすぐは戻らないんじゃないかしらねえ」

女はけらけら笑うと、急ぎの用かと首を傾げた。たまが曖昧あいまいに頷くと、またひとつ愉快そうに笑う。

「そンなら会いにいっておやりよ。あいつも喜ぶだろうしさ、最近元気がないみたいだから頼んだよ。──店の場所はわかる?」

「あっ、いえ、わかりませぬ」

たまは慌てて首を横に振った。


 なにせ、この近くだけでも絵草紙屋えぞうしやだの貸本屋かしほんやだの、それと疑わしい中店は二、三軒あるし、小店こだなも含めるともっとありそうなくらいなのだ。

 そもそも太兵衛がこの町の店にいるのか、隣町にいるのか、はたまた別の町にいるのか──、太兵衛の務める先についてたまは詳しくは聞いていないのである。

「田中屋……増田屋でしょうか……」

「その近い方。絵草紙屋の田中屋さ」

「ううむ……あっちだっけ……?」

「あはは、あんたその顔、あんまり場所を覚えてないんだろ?」

たまの煮え切らない返事にまたひとつ大きく笑うと、女はどこからか木の枝を拾い上げて、地面に絵を描き始めた。親切なことに地図らしい。


 × 印を起点にして、通りに出て右に曲がって、次の小通りを曲がって、また曲がって、そのまま通りに沿って真っ直ぐと。

「ほら、ここが今の私たちのところ。そんでこうやって行きゃいいのさ、簡単だろ?」

「あっ! なるほど、そういえばここだったような気がしてます!」

たまはぴょん、と跳ねるように勢いつけて礼をひとつ。

「ありがとうございます」

「あはは、気持ちがいい子だねえ。太兵衛さんも隅に置けないじゃないの、こんな子に探されてちゃア幸せもんだよ」

「えっ」

「いいのいいの、そンなの聞くのは野暮天やぼてんってサ! でも気をつけるんだよ。最近また物騒な話を聞くようになったもの、帰りはちゃあんと太兵衛さんに送ってもらうんだよ」

「はあ……ええと、兄がいますので……」

たまはちらりと夜四郎を見上げた。けれど、女の方はその視線に意味があるものと思わなかったのか、夜四郎の方には全く意識を向けずに、

「そうかい、何処かで兄さんと待ち合わせしてンなら安心だね。気をつけて行ってらっしゃいな」

そうやってあっさりと見送った。ここでわざわざ印象付けておくこともないだろう、と夜四郎が|囁《

ささや》くので、たまは大人しく

「あい、行ってまいります」

とお辞儀をもう一つだけした。


 さっさときびすを返そうとしたたまなのだが、夜四郎は慌ててたまの肩をとん、と軽く叩いた。ついでに太兵衛殿の騒動について聞いてみてくれないか──と、静かに聞いてくるので、たまはその場で足を止めて振り返った。たまが

「あのう、そういえば、太兵衛さんからおかしな話を聞いたのです。幽霊掛け軸じゃあないんですけど、とにかく何か、ここ数日で騒ぎがあったとかなんとか」

と聞けば、

「ああ、あの騒ぎでしょ、覚えてる、覚えてる」

すぐに、女は答えた。


「だってさあ、夜中の九ツ半あたりだったかなア、こっちは気持ちようく寝てンのにさ、酷く情けない悲鳴で叩き起こされたのなんのって! しかも聞いてみれば寝ぼけたことばかりで、もうたまらないよ」

「結局、物盗りだったのです?」

「いンや、まさか! 盗むようなモンなんて、太兵衛さんのところにあるもんか」

あったらとっくにもっと良い住まいに越してるだろうさ、と女は笑った。あの家にゃ七輪ひとつないんだから、と。


「まァでもさ、あんまりあの人が部屋に変なのがいたって騒ぐもんだから、一応岡っ引きの旦那にゃ見てもらったけどね。部屋に荒らされたような形跡もないし、太兵衛さんにも傷ひとつない、忍び込んだ形跡もないんだからって朝のうちに帰っていかれたよう」

「絵も異変なく?」

「へえ、よく知ってるね。なんかお侍の絵がなんだとは確かに言ってたけどさ、肝心の絵やら絵道具やらはひとつも盗まれちゃないんだもの。それに彼の絵はさ、こう言っちゃなんだけど、そう高くない値段で買えるものしかないんだし」

わざわざ盗みになんて入らないだろ、というのが女の考えらしい。


 なるほど、たまは頷いた。太兵衛から聞いた話と照らし合わせても内容は特に変わらない。

 例の晩、太兵衛の部屋には何かがいて、それは人の目には映らないものだったと。


「むむう、幽霊と……」

「ああ、太兵衛さんが言ってたねえ。いなせな美丈夫、それも立派なお侍の幽霊だっけ? そんなのもないない。子供じゃないんだし。それになんでそんな立派な御仁の霊がこんな貧乏長屋の、そんでもって貧乏絵師の元に現れンのさ。なんもゆかりもないのに」

「まあ、それはそうですね……」

「それにあの人、ちょいととぼけちゃいるけど、そんなゆかりもない幽霊にたたられるような悪い人でもまるでないからさア。余計ありえないよ」

結局、あの人も疲れて変な夢でも見たんだよ──女は肩をすくめた。

「なんにせよ、危ないことはなかったよ。そんなこと、隣の誰も気がつかないなんてあるわけないしさ」



+++



 たまと夜四郎は通りを絵草紙屋に向けて歩いている。結局、あの後一人二人ばかりに声をかけて聞いてみたものの、情報は変わらずだった。


「それにしても、太兵衛殿は結局何で呼び出されたんだろうなあ」

と夜四郎は呟いた。

「のっぺらぼうの件じゃないんでしょうか」

「ないと思うぜ。呼び出すくらいの騒ぎになってンならさ、さっきの長屋もそうだし、もっと周りが騒いでるだろうよ」

「むむ、それはそうですね」

たまは腕を組んで頷いた。


 太兵衛から相談を受けたのが今朝のこと。団子屋の方でも物騒な噂はいくつか耳にすることはあれど、のっぺらぼうが云々といった噂を聞いた覚えはなかった。志乃屋は通りに面しているだけあって、いろいろな話が行き交う。たまに対してわざわざ何処ぞのお家騒動が……なんて話はわざわざしなくても、怪談話だったりは別なのだ。町にはそう言った話を聞いて、それから傍迷惑はためいわくなことに人に聞かせることが好きな人は山ほどいる。


「太兵衛さん、いらっしゃればいいのだけど」

「まア、俺としては太兵衛殿に会えなくても兄弟子の方には会っておきたいところだなア。のっぺらぼうを探すのに役立つだろう」

兄弟子という言葉に、そういえば、とたまは思い出す。

「太兵衛さんの兄弟子さま、とても高名な方なのだそうですよ」

しかし、夜四郎はすでに知っていたようである。


「ソリャそうさ、浮世絵師・田中たなか秋房あきふさ殿の一番弟子と言ったら、それは佐伯さえき美成よしなり殿のことだろう。太兵衛殿が田中屋に行ったとなりゃ、小洒落た兄弟子の正体は佐伯殿が妥当だろうな」

「エッ」

たまは慌てて夜四郎を見上げた。

「佐伯さまをご存知だったのです……?」

「おや、おたまは知らなかったのかい」

「た、太兵衛さんから少しは聞いてますが……」

たまはむうと考えるそぶり。


 なにせ、太兵衛から聞いた話はほとんどぼやきのようなものばかりなのだ。


 覚えている限りだと──呉服ごふく問屋といや大店おおだな・佐伯屋の三男坊であり、背丈も恵まれ、天賦てんぶの画才に恵まれた家柄も才能もなんでも持っている画家であると。太兵衛より七つほど歳上で、(太兵衛の評するところによれば)表情が堅苦しくて非常に気が難しい人なのだと。

 十の頃から太兵衛の師匠でもある田中秋房の元で絵を学び、ここ数年で華々しく名をあげて、今や人気絵師の一人だとかなんとか……。


 名を挙げてから、その気難しさは一層酷くなったと太兵衛はよく嘆いていた。下手な褒め言葉では機嫌を損ねるというのに、周りの人はみんな軽率に兄弟子を褒める、それに対してまた兄弟子は気に食わないとばかりに口を曲げると──そんな具合だ。その度に叱られるし参ってるよ、と太兵衛談。


「よく怒るおっかない人だと聞きました」

「あはは、ソリャ、太兵衛殿が何か悪さをしてンじゃねえのかなア」

たまの言葉に夜四郎は冗談めかして笑うと、

「そうさな、確かに愛想を振りまくような御仁ではなかったと思うが、そんなに偏屈へんくつな方でもなかったはずだよ」

そう言った。

「夜四郎さまはお会いしたことがあるんです?」

「いンや、それはないよ。話で聞いただけさ」


 曰く、佐伯屋の長兄は商才豊かで立派な跡取り、次兄は剣の腕と学問に秀でて将来有望、そして末弟の美成は遅咲きながらも類い稀なる画才に恵まれた、天才三兄弟とうたわれているのだと。

 三者三様、異なる方面に芽を出し花開いた三人は、兄弟仲も悪くはないらしい。ただ、三男である美成だけが、家族の集まりを嫌がって、あまり家に寄り付かないのだとかで、しょっちゅう上の兄二人が絵草紙屋に足を向けるのだそうだ。

 売れ出してから尚のこと深まった美成の無愛想は、家族に対しても変わらないが、会えばそれなりに会話はするのだという。


「だからこそ一目会っておきたくてね。いかんせん、当の御仁の情報が少ないんじゃあな」

「確かに……たまはどんな見目の方かも分かりませぬし、詳しくどんな方なのかも分かりませぬ。結局太兵衛さんから聞けたのはお家の話ばかりで……むむう」

「はは、今のうちからそう眉間にしわを寄せて考えるモンじゃねえよ」

たまは唸るが、

為人ひととなりっつうのはさ、会って自分の目で判ずるもんだからな。こういう時ばっかりは人の評価や噂話ほど役に立たんモンもないよ」

「そういうものなのですか?」

「そういうものだよ」

夜四郎は噛み締めるように頷いた。


 そうは言っても気になるものは気になるもので、佐伯美成という絵師は三人兄弟かあ、とたまはふんわり考える。たまは一人っ子だし、世話になっている志乃屋のおかみさんと旦那さんにも子供はいないので、兄弟に馴染なじみが薄かった。無論、近所の子供たちと遊びはするし、面倒も見るのでそう言った感覚はほんのりとはわかるにしても、実の兄、実の弟、あるいは実の姉妹というのは憧れるものがあった。


 眩しそうに呟く。

「いいなあ、たまも兄弟が欲しいなあ」

「薄情だなあ、この兄をお忘れかい」

主張の激しい兄(仮)が片眉を上げて笑いかけてくるのを、たまは頬を膨らませて応戦した。

「そういえばおりました! 夜四郎さまは諸事情で生き別れて最近やっと再会かなった、訳ありの兄さまですもんね!」

そういう設定である。


「そういうのではなく、血の繋がった兄弟がいたらもっと楽しかっただろうなあって思ったんです。助け合って、たくさん楽しいこともして」

「……ふむ、まア、仲が良ければ楽しかろうな」

夜四郎は少しだけ遠くを見る。

喧嘩けんかはしてもいいんです。仲直りをしますもの。その時にはきっと、自分で蒸した大きなお饅頭を半分に分けるんです。ごめんねって」

「はは、それはいいな」

「弟か妹……ううん、いっそ、夜四郎さまが実の兄だったらよかったのになあ。夜四郎兄さまはお優しいし、剣も強いんですもの!」

たまは無邪気に笑いかけた。それを柔らかく笑んで受けると、夜四郎は小さく肩をすくめた。

「でもなあ、俺は兄貴って言うにゃ、少しばかり貫禄かんろくだの心持ちだのが足りんかもしれんぞ。兄はどーんと、妹や弟を背中で守るべきだが、俺じゃあ役者不足さ」

「そうでしょうか?」

そんなことないのに、とたまは首を捻る。夜四郎は少しだけ、謙遜けんそんするきらいがあるのかもしれない。


 ふと、たまは気になったことを口に出した。

「そういえば、夜四郎さまはご兄弟はいらっしゃるのですか?」

ほんの世間話のつもりである。たまと夜四郎はちょくちょく行動を共にしているが、なんだかんだお互いについて(少なくともたまは夜四郎について)知らないことが多いのだ。

「妹分のおたまだな」

軽く聞けば、軽く返される。

「そうではなく、夜四郎さまのご実家です」

「俺の?」

「あい」

「……そうさなあ」

たまは夜四郎をなんの気なしに見上げると、しまったとすぐに口を抑えた。夜四郎の表情からすっと色が消えていた。遠くを見つめたそのまま、何かを考えている。

「あ、あの、すみませぬ。ご無理にとは」

慌ててたまが言ったのを、別に隠すほどのことでもない、と夜四郎が頭を振った。

「まあ、実のところ、弟が一人いるんだよ」

落ちてきたのは、とても寂しい声。

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