二話 たま、破れ寺へ(一)
夏の始まりごろの、湿っぽい空気が肌にはりつく。真上の空には
その中をたまは歩いている。
団子屋での仕事は(この日の分は)すでに済ませてあって、近くの
人の行き交う
かつてはさぞ立派だったであろう門──とは言え今となっては木の枠組みだけの姿だが──そこを
男が一人、
人間と鳥とが顔を突き合わせてギャアギャアガァガァ喧嘩をしているなんとも奇妙な光景に、たまはぽかんと口を開けた。たまは想像力豊かな方ではあるが、それでもまさか人間と鴉の喧嘩を目にしようとは想像したこともなかったのである。
寺の前に着くなり、
「おいこら、俺の飯だと言ったろう! 独り占めはないんじゃねえのか」
「ガァ!」
「ええい、可愛げのない鳥だな!
「ギャアギャア!」
こんな具合で大層
この男、紺地の
兎にも角にも、この怪しい浪人者(実際にそうかはさておいて)こそ、たまが破れ寺を訪れた目的のその人である。
──一体全体、
たまは我にかえると、こほんと
「あのう、夜四郎さま……」
この破れ寺の主人の名を呼んだ。
「おう、おたま! 良いところに!」
呼ばれて、夜四郎は人好きのする笑顔を咲かせた。それから、その目線はたまの手元──正確にはそこにあるたま愛用の菓子箱に注がれて、その笑顔は深まった。
夜四郎は鴉をキリリとひと
「あの、お取り込み中ではないです?」
「いンや、べつに取り込んじゃないさ。今から昼にしようとしたんだが、この鳥に絡まれたんだよ」
「その子がです? むう、大人しいはず……」
「大人しいわけあるものか! こいつは俺の握り飯を一人で食っちまったんだぜ。半分の半分くらいなら分けてやろうと思ったのによ」
「夜四郎さまの握り飯をですか……」
「恐れ多くも俺の貴重な握り飯をだ」
「それでその子と喧嘩になったと」
「その通り」
夜四郎がなんとも複雑な表情で頷くので、たまもつられて眉尻を下げた。
たかが握り飯──されど握り飯。彼が握り飯ひとつで鴉と喧嘩をするのも、仕方のないことではあるのだ。夜四郎は常から日々の食糧を得るのに、非常に
彼の特殊な性質上腹はあまり減らないらしいのだが、そうは言っても食事を抜くわけにもいかないだろうと──彼は食べ物を売ってくれる人を探すべく日々
何も町ぐるみで夜四郎に嫌がらせをしているわけではない。彼らはただ、気がついていないだけだ。
そこに夜四郎がいることに気がつかないだけ──問題は夜四郎自身にある。
「相変わらず夜四郎さまのお姿は、町の人の目には映りにくいんですね……」
たまは悩ましげに呟けば、
「最初の頃よりは
と夜四郎は
「妖なんぞに油断して、身体を奪われちまうなんてよ」
と、つまりはこういうわけなのである。
夜四郎はある
故に、幽霊のように(一部を除いて)全く視えないのではなく、単に視えにくいだけ。きっかけさえあれば誰の目にも映るのだが、
夜四郎としても己のヘマから始まった不幸だと、一部諦めているところはあるのだが、
「俺のことが見える人が
そう思わず呟くのも仕方のないことだった。たまも腕を組んで、ひと
「むう、たまがしょっちゅうくっついているわけにもいきませぬし……」
「そりゃアそうさ。おたまも自分の暮らしがあるんだから、それは望んじゃねえよ」
「ですが、夜四郎さまを放っておくわけにも……」
「いや、まさかおまえさんにそこまで世話になることはしねえさ。それに、割とやりようはあるんだぜ」
「まあ……それはそうですが……」
たまはなんとも言えない表情になる。
夜四郎は人に気がついてもらうため、何度も
──それに夜四郎さま、なんでも出来ちゃいそうなお人だけれど、絵はちょっぴり苦手だもの。
人がいないように視える空間に残された謎の絵──そのうち新たな妖怪として語り出されるのではないかと、たまはちょっとだけ心配していた。
何か妙案は無いかと唸って唸って──、ややあってたまはぱあっと顔を輝かせた。
「そうだ、たまと一緒に志乃屋で働きましょう!」
「はい?」
夜四郎は思わず
「志乃屋って……、おまえさんのところの団子屋かい」
「あい。たまは住み込みで働いてますし、それにお客さんと知り合いになれば、この町に夜四郎さまがいると知る人が増えるでしょう? 町中で気がついてもらえることが今よりうんと増えると思うのです」
「まあ、それはあるだろうな」
「はい! おかみさんと旦那さんもお話しすればきっとわかってくれますし、簡単なものでしたらお昼はたまが用意できますし」
「……いやな、しかしサ、ひとつ都合が良くないこともあってだな」
夜四郎は歯ぎれ悪く苦笑した。
「俺はたまの兄だって名乗ってるんだぜ」
「あっ」
「おまえさんが黙っててもさ、店に来た連中にそう声をかけられてみろ──おまえさんの家族に要らん心配を掛けてしまうじゃないか」
「あう……」
そう言えばそうだった、たまは思い出して渋い顔になった。そう言う設定だった。
おかみさんも旦那さんもたまが「いろは」も喋られないようなうんと幼いころから知っているし、ひとまわりも離れた兄などいようはずもないことを知っている。
そこに、突然兄を自称する見ず知らずの浪人者が来たのなら、確実に警戒されるに決まっていた。
「それは……志乃屋は無理ですね」
「だろう」
夜四郎は肩をすくめた。
しかし、そうなると
「釣りはあんまり心得ていなくてな……」
「たまも、釣られたお魚を
こんな具合なので、先は長い。腹をすかせた夜四郎をそのままにするのもどうにかせねばなあ、と言うのが目下、たまの悩み事である。ひと回り以上も年の離れた少女がそんな悩みを抱え、いっそたまが毎朝こっそりご飯を運ぶのが一番かもしれない……などと決心したのを、夜四郎は知らない。
「たま、頑張りますね」
「お、おう。何をかはわからんが、ほどほどにな」
「今日は握り飯を
「ああ、葵屋だよ、
なるほど、
要はそこに誰かがいるとわかりさえすれば視えるようになっているのだから。
さて、夜四郎に気がついた佐七は、話を聞くなり夜四郎に握り飯を渡してくれたそうだ。
夜四郎は早速店先で一つを食べて、残りを寺で食べようとしたところを鴉に襲われたのだと──冒頭の騒ぎがそうだと、夜四郎は苦々しい表情で言った。いつだって、食べ物の恨みは恐ろしいものなのだ。
じとりと夜四郎が鴉に視線を向けた。
「この子が夜四郎さまのご飯を奪っちゃったんですか……」
改めて、たまは呟いた。
「あろうことか全部自分だけで食っちまったんだぜ。確かに分けてやってもいいとは言ったが──あんまりに過ぎた
たまはごくりと音を立てて
「つ、つまり、これから夜四郎さまの
「いや待て、誰が、何を食うって?」
「え? 夜四郎さまが、その鴉を」
「食うわけあるか!」
「ガァアッ!」
たまには馴染みない習慣だが、武士の方はもしかしたら……と思って聞いてみたのだが、思いっきり顔を
たまはほっと胸を撫で下ろした。たまから見て夜四郎はお節介焼きで人が良い人なのだが、妖だったりには少々
「よかったあ、すみませぬ、たまはまた思い違いをしておりました」
「……まあ、誤解が解けたのは何よりだ。それよりもおたま、先から気になっていたんだが」
「何をです?」
「おまえさんはコイツを知ってンのかい」
コイツ、と言いながら、いつの間にかたまの足元に跳ねて来ていた鴉を見る。たまは持っていた菓子箱から饅頭を取り出した。ひとつは夜四郎に、ひとつは鴉に、もうひとつを自分用にそれぞれ配ってから、質問には元気に頷いて見せた。
「あい」
「……おまえさんの家で飼ってんのかい? おまえさんから受けとった饅頭はいやに行儀よく食べやがる」
「実は
「ガアア」
頭を振って見せる鴉に、微笑むたま。夜四郎は未だ何か引っかかるようで、
「……いやしかしよ、鴉の違いがおまえさん見分けられるのかい」
真っ黒くて似たような顔立ちじゃないか──そう呟いた。たまはほとんど無意識で頭を振った。
「ううん、この子は分かるんです。見間違いようがないもの」
夜四郎が動きを止める。鴉も止まる。たまだけが止まらない。
「ふうん、そうか。見間違えようがないと……ソリャどうしてかな、おたま」
「だってその子は一度見たら覚えますよ。だって鴉って言うより────あっ」
「……」
「あう」
たまは口を
「……まア、おまえさんが無条件で見分けられるってことはそういうことだよなァ」
「そ、そのう……や、夜四郎さま」
「おたま、この鴉は普通の鴉じゃないんだな?」
生ぬるい視線。なぜか鴉からも同じ温度の視線で見られているような気がして、たまは誤魔化すように饅頭を口いっぱいに詰め込んだ。
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