二話 たま、破れ寺へ(一)

 夏の始まりごろの、湿っぽい空気が肌にはりつく。真上の空にははなだ色が覗くものの、遠くの空では天も機嫌がよろしくないのか重たい雲が見えていた。


 その中をたまは歩いている。

 団子屋での仕事は(この日の分は)すでに済ませてあって、近くの破れ寺やれでらを目指しているところであった。出掛けに、これから友人に会うのだと言ったら、おかみさんと旦那さんが不揃ふぞろいの饅頭まんじゅうをたんと持たせてくれた。この手土産てみやげにはきっと破れ寺の主人も喜ぶだろうと、その足取りは軽くなる。


 人の行き交う往来おうらいを通り過ぎ、いくつかの角を曲がって、小さな川に架かる橋を渡り、そうやって歩けばもう目的の寺である。

 かつてはさぞ立派だったであろう門──とは言え今となっては木の枠組みだけの姿だが──そこをくぐろうとしたところで、たまは立ち止まった。


 男が一人、境内けいだい喧嘩けんかをしていたのである。それも真っ黒な鳥──要するにからすと、だ。


 人間と鳥とが顔を突き合わせてギャアギャアガァガァ喧嘩をしているなんとも奇妙な光景に、たまはぽかんと口を開けた。たまは想像力豊かな方ではあるが、それでもまさか人間と鴉の喧嘩を目にしようとは想像したこともなかったのである。


 寺の前に着くなり、

「おいこら、俺の飯だと言ったろう! 独り占めはないんじゃねえのか」

「ガァ!」

「ええい、可愛げのない鳥だな! 一寸ちっとも反省していないだろう!」

「ギャアギャア!」

こんな具合で大層にぎやかな声が届いてくる。


 この男、紺地の小袖こそで黒袴くろばかまはよれてはいるが、それなりの生地であることはわかるし、腰に差した大小の刀から見て武士身分であるには間違いない。けれども月代さかやきまげもなく、ぼうぼうとした髪を高いところで結えて、あごにはばらばらと無精髭ぶしょうひげを散らしているから、ワケありの浪人者ろうにんものでは──というのがたまの見立てである。

 兎にも角にも、この怪しい浪人者(実際にそうかはさておいて)こそ、たまが破れ寺を訪れた目的のその人である。


──一体全体、夜四郎やしろうさまは何をしているのかしら……!


 たまは我にかえると、こほんとわざとらしい咳払せきばらいをひとつ、

「あのう、夜四郎さま……」

この破れ寺の主人の名を呼んだ。

「おう、おたま! 良いところに!」

呼ばれて、夜四郎は人好きのする笑顔を咲かせた。それから、その目線はたまの手元──正確にはそこにあるたま愛用の菓子箱に注がれて、その笑顔は深まった。


 夜四郎は鴉をキリリとひとにらみしてから(当の鴉が気にも留めない様子なので思わずたまは苦笑してしまった)、大股でたまの方へとやってきた。上背うわぜいがあって一歩一歩も大きいので、数歩で側まで来る。たまは首を傾げた。

「あの、お取り込み中ではないです?」

「いンや、べつに取り込んじゃないさ。今から昼にしようとしたんだが、この鳥に絡まれたんだよ」

「その子がです? むう、大人しいはず……」

「大人しいわけあるものか! こいつは俺の握り飯を一人で食っちまったんだぜ。半分の半分くらいなら分けてやろうと思ったのによ」

「夜四郎さまの握り飯をですか……」

「恐れ多くも俺の貴重な握り飯をだ」

「それでその子と喧嘩になったと」

「その通り」

夜四郎がなんとも複雑な表情で頷くので、たまもつられて眉尻を下げた。


 たかが握り飯──されど握り飯。彼が握り飯ひとつで鴉と喧嘩をするのも、仕方のないことではあるのだ。夜四郎は常から日々の食糧を得るのに、非常に苦慮くりょしていた。

 路端みちばたの屋台に出向こうが、飯屋の暖簾のれんくぐろうが、河岸かしの市場に繰り出そうが、はたまた野菜やら豆腐を売り歩く棒手振ぼてふりに声をかけても、彼は結構な割合で相手にされないのである。話しかけてすぐに振り向いてもらえなければ、大体は二進にっち三進さっちもいかないのだ。


 彼の性質上腹はあまり減らないらしいのだが、そうは言っても食事を抜くわけにもいかないだろうと──彼は食べ物を売ってくれる人を探すべく日々奔走ほんそうしていた。町に入ってすぐに気がついてもらえるような日もあれば、全くのからきしという日もある。そうなればまさしく暖簾に腕押し、豆腐にかすがいといった具合で、彼一人の力ではどうにもならないのである。


 何も町ぐるみで夜四郎に嫌がらせをしているわけではない。彼らはただ、気がついていないだけだ。

 そこに夜四郎がいることに──問題は夜四郎自身にある。


「相変わらず夜四郎さまのお姿は、町の人の目には映りにくいんですね……」

たまは悩ましげに呟けば、

「最初の頃よりは随分ずいぶんとマシだがな。仕方なかろうよ、この俺が半分亡者もうじゃのようだからなァ──」

と夜四郎は自嘲じちょうする。

「妖なんぞに油断して、身体を奪われちまうなんてよ」

と、つまりはこういうわけなのである。


 夜四郎はあるあやかしによってその身体を奪われていた。詳しい事情はまだたまも知らないのだが、その一件以降、彼の姿は普通の人の目には映りづらくなってしまったのだと言う。昨今で言うところの幽霊といったところだろうか──ひとつ違う点と言えば、ややこしいことに、そんな状態でも彼がまだ生きている人であるというところにあった。


 故に、幽霊のように(一部を除いて)全く視えないのではなく、単に視えにくいだけ。きっかけさえあれば誰の目にも映るのだが、うとい人相手だと半刻(一時間ほど)粘っても気が付かれないなんてことも珍しくはないのだ。


 夜四郎としても己のヘマから始まった不幸だと、一部諦めているところはあるのだが、

「俺のことが見える人が其処そこ彼処かしこにいりゃあなア」

そう思わず呟くのも仕方のないことだった。たまも腕を組んで、ひとうなり。

「むう、たまがしょっちゅうくっついているわけにもいきませぬし……」

「そりゃアそうさ。おたまも自分の暮らしがあるんだから、それは望んじゃねえよ」

「ですが、夜四郎さまを放っておくわけにも……」

「いや、まさかおまえさんにそこまで世話になることはしねえさ。それに、割とやりようはあるんだぜ」

「まあ……それはそうですが……」

たまはなんとも言えない表情になる。


 夜四郎は人に気がついてもらうため、何度も大袈裟おおげさに声をかけることもあれば、石なり木の枝なりで音を出すこともある。それで気がついてもらえるうちはまだ良いのだが、それでも気がついてもらえないとなると地面に奇妙な絵を書き出したり、あるいはその辺の石なんぞを積み上げたりするらしいのだ。それでは例え気が付かれても、不審な男に映るのは間違いない。


──それに夜四郎さま、なんでも出来ちゃいそうなお人だけれど、絵はちょっぴり苦手だもの。


人がいないように視える空間に残された謎の絵──そのうち新たな妖怪として語り出されるのではないかと、たまはちょっとだけ心配していた。


 何か妙案は無いかと唸って唸って──、ややあってたまはぱあっと顔を輝かせた。

「そうだ、たまと一緒に志乃屋で働きましょう!」

「はい?」

夜四郎は思わずとぼけた声をあげる。

「志乃屋って……、おまえさんのところの団子屋かい」

「あい。たまは住み込みで働いてますし、それにお客さんと知り合いになれば、この町に夜四郎さまがいると知る人が増えるでしょう? 町中で気がついてもらえることが今よりうんと増えると思うのです」

「まあ、それはあるだろうな」

「はい! おかみさんと旦那さんもお話しすればきっとわかってくれますし、簡単なものでしたらお昼はたまが用意できますし」

「……いやな、しかしサ、ひとつ都合が良くないこともあってだな」

夜四郎は歯ぎれ悪く苦笑した。

「俺はたまの兄だって名乗ってるんだぜ」

「あっ」

「おまえさんが黙っててもさ、店に来た連中にそう声をかけられてみろ──おまえさんの家族に要らん心配を掛けてしまうじゃないか」

「あう……」

そう言えばそうだった、たまは思い出して渋い顔になった。そう言う設定だった。

 おかみさんも旦那さんもたまが「いろは」も喋られないようなうんと幼いころから知っているし、ひとまわりも離れた兄などいようはずもないことを知っている。

 そこに、突然兄を自称する見ず知らずの浪人者が来たのなら、確実に警戒されるに決まっていた。

「それは……志乃屋は無理ですね」

「だろう」

夜四郎は肩をすくめた。


 しかし、そうなると浅蜊あさりでもしじみでも、なんなら釣りをするのもありだろうが、自分で食べるものを調達するのが良いのだろうが、

「釣りはあんまり心得ていなくてな……」

「たまも、釣られたお魚をさばく専門です……」

こんな具合なので、先は長い。腹をすかせた夜四郎をそのままにするのもどうにかせねばなあ、と言うのが目下、たまの悩み事である。ひと回り以上も年の離れた少女がそんな悩みを抱え、いっそたまが毎朝こっそりご飯を運ぶのが一番かもしれない……などと決心したのを、夜四郎は知らない。

「たま、頑張りますね」

「お、おう。何をかはわからんが、ほどほどにな」

「今日は握り飯をもらえたとのことなので良いのですが──、あれ? そういえば、それはどこで?」

「ああ、葵屋だよ、一膳飯屋いちぜんめしやの──そこで仕事中の佐七さしちさんに会ってさ、あの人はすぐに気がついてくれたんだよ」

なるほど、合点がてんがいった。たまは小さく手を打った。


 太兵衛たへえとの話にも出てきたこの佐七、春先にあったの騒動を通して、夜四郎とすでに面識があった。この町に夜四郎という男が存在すること、出歩く場所のことをある程度知っている彼なら、店先に現れた夜四郎を些細ささいなきっかけで発見できてもなんら不思議はない。

 要はそこに誰かがいるとわかりさえすれば視えるようになっているのだから。


 さて、夜四郎に気がついた佐七は、話を聞くなり夜四郎に握り飯を渡してくれたそうだ。くだんの騒動に際して大した礼もできていなかったし、と大きなものを三つほど包んでくれたのだと。

 夜四郎は早速店先で一つを食べて、残りを寺で食べようとしたところを鴉に襲われたのだと──冒頭の騒ぎがそうだと、夜四郎は苦々しい表情で言った。いつだって、食べ物の恨みは恐ろしいものなのだ。


 じとりと夜四郎が鴉に視線を向けた。呑気のんきなカラスは気押けおされもせず、てってって、と庭を跳ねて遊んでいる。とりあえず座るか、と言った夜四郎に続いて、寺の濡縁ぬれぶちまで回り込んだ。鴉もちゃんと、跳ねながらついてくる。

「この子が夜四郎さまのご飯を奪っちゃったんですか……」

改めて、たまは呟いた。

「あろうことか全部自分だけで食っちまったんだぜ。確かに分けてやってもいいとは言ったが──あんまりに過ぎた悪戯いたずらだからよ、いっそふん縛って軒先にでも吊るしておこうかと思ったのさ」

たまはごくりと音を立ててつばを飲み込んだ。中々に恐ろしい光景である。

「つ、つまり、これから夜四郎さまの夕餉ゆうげになると……? あ、あの、その子も確かにやんちゃな所はあるのですが、流石にそれはあんまりです……!」

「いや待て、誰が、何を食うって?」

「え? 夜四郎さまが、その鴉を」

「食うわけあるか!」

「ガァアッ!」

たまには馴染みない習慣だが、武士の方はもしかしたら……と思って聞いてみたのだが、思いっきり顔をしかめられた。なんなら鴉も抗議をしてきた。


 たまはほっと胸を撫で下ろした。たまから見て夜四郎はお節介焼きで人が良い人なのだが、妖だったりには少々容赦ようしゃがないところもある気はしていて、少しだけそんな想像をしてしまったのだ。

「よかったあ、すみませぬ、たまはまた思い違いをしておりました」

「……まあ、誤解が解けたのは何よりだ。それよりもおたま、先から気になっていたんだが」

「何をです?」

「おまえさんはコイツを知ってンのかい」

コイツ、と言いながら、いつの間にかたまの足元に跳ねて来ていた鴉を見る。たまは持っていた菓子箱から饅頭を取り出した。ひとつは夜四郎に、ひとつは鴉に、もうひとつを自分用にそれぞれ配ってから、質問には元気に頷いて見せた。

「あい」

「……おまえさんの家で飼ってんのかい? おまえさんから受けとった饅頭はいやに行儀よく食べやがる」

「実は団子屋うちによく来る子なんです。飼っているわけじゃあないんですけど、今じゃ常連のお友達みたいなんですよ。最初に店先に来た時にはびっくりしましたけど、大人しくて頭も良くてたまに木の実なんかもくれたりして、だから私もご飯を分けてるんです。まさかお寺にまで来ているのは知らなかったんですが……ね、から太、この辺りにお家があるのかな?」

「ガアア」

頭を振って見せる鴉に、微笑むたま。夜四郎は未だ何か引っかかるようで、

「……いやしかしよ、鴉の違いがおまえさん見分けられるのかい」

真っ黒くて似たような顔立ちじゃないか──そう呟いた。たまはほとんど無意識で頭を振った。


「ううん、この子は分かるんです。見間違いようがないもの」

夜四郎が動きを止める。鴉も止まる。たまだけが止まらない。

「ふうん、そうか。と……ソリャどうしてかな、おたま」

「だってその子は一度見たら覚えますよ。だって鴉って言うより────あっ」

「……」

「あう」

たまは口をつぐむが遅い。両手で抑えてもあまりに遅い。夜四郎が呆れた声をこぼすのも無理はない。

「……まア、おまえさんが無条件で見分けられるってことはそういうことだよなァ」

「そ、そのう……や、夜四郎さま」

「おたま、この鴉は普通の鴉じゃないんだな?」

生ぬるい視線。なぜか鴉からも同じ温度の視線で見られているような気がして、たまは誤魔化すように饅頭を口いっぱいに詰め込んだ。

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