一話 逃げ出した姿絵

 絵から侍が抜け出した──。


 たまが太兵衛からその話を聞いたのは、まだ昼前のこと。団子や饅頭を商う志乃屋しのや床几しょうぎに座るなり、太兵衛が唐突に語り出したのである。熱い茶と、炙りたての団子をふうふうと冷ましながら語られるそれに、


「はあ、絵からお侍さまが」


たまはとぼけたような声で返事をした。今は他に客の姿はない。


「昨日のお話ですか?」

「いや、まずは自分でそいつを探そうと思ってたのよ。それが五日、六日ばかり前のことさ。だがよう、どこから探せばいいのかもさっぱりでよう、仕事の合間にもあちこち歩いてみたが、とんと見つかりゃしねえのさ」

太兵衛は重い重いため息である。

「お侍さまの姿絵ということは、特別な絵なんです? どなたからか頼まれたとか」

「なんてこたァない、ただの絵さ。あれは売りモンでもなくて、田中先生に──あ、おいらの絵の師匠なんだけど──ひとつ心のおもむくままに描いてみろって言われてさ、そんなら普段描かねえもんをと思っていなせな二本差しを描いてみたのよ。役者絵なんかの練習みてえなモンだな、周りに季節の花なんて散らしてよう、物語に出てくるような見目麗しい美丈夫びじょうふに仕上げるつもりでさ、途中まではそれなりに描けてたンだ」

「途中まで」

「そう、途中まで。しっかしなあ、その顔だけがうまく決められなかったんだ。どんな表情なのか、とんと見えてこなくって」


 たまはふうん、と小さく頷いた。

「どなたかを描かれたんでしょうか」

「いや、それならこんなに悩まないさ、架空のお侍だよ。何処の誰ってのは全くないんだけど──いや、実はさ、ちょっとだけ参考にした人がいるんだ。背格好にたたずまいに着こなしに……その人がまたおっかない人でさあ」

「はあ……それは一体……」

「おたまちゃん、こいつは内緒だぜ。おいらの兄弟子の美成よしなりさんを参考にしちまってんだよ。あの、天下の佐伯さえき美成先生さ」

太兵衛がこそこそとたまに耳打ちした。たまにとってはさして馴染なじみの無い名前であるので、曖昧あいまい相槌あいづちを打つ。


「さっきも言ったけど、顔は何ひとつ描いちゃあないんだけど、髷の結いだとかさ、小袖こそでの柄だとか、佇まいだとかさあ、結構参考にしちまってんだよ。だってあの人、とにかく洒落しゃれてンだもの。まずいことにさ、こんな時ばっかりうまく描けちゃって、立ち姿を遠目に見る限りじゃあそこそこそっくりなんだ」

「あちゃあ、それが逃げちゃったと」

「それが逃げちゃったのよ」

「兄弟子さまのお姿で」

「そう、兄さんの姿で」

「でも、顔はなく」

「うん、顔はない」

「むう、表情が決まらなかったなら、いっそ兄弟子さまのお顔を借りればよかったのでは……」

「そんなわけにはいかないよう、おたまちゃん。だって姿絵じゃああるまいし、描かせてくれって頼んだわけでもないからさ、勝手に兄さんの顔を借りるなんて悪いじゃないか」

あっけらかんと言い放つ。そうは言っても姿は借りてしまっているのだが、顔さえ違えば最終的には別人なのだと太兵衛は主張した。


 絵の中の侍は、むしろその兄弟子の姿絵を描きかけていたのだと言って差し支えないほどのもので、まんまに描けていたと言う。顔を変えてどうにか別の絵にするつもりであったと──。流石に件の兄弟子は二本差しでもなければはかま姿でもないけれど、よく似た造形ののっぺらぼうが騒ぎを起こせばどうなるかは、想像に難くない。


 ──しかし、絵が脱走とは。


 まさしく怪談話ではないか──、たまはそう思うと真顔になってしまった。たまは怖い話が苦手なのだ。よくわからないモノは怖いモノ、今回の話もそう言った類なのだと気が重くなる。


「あのう、本当に物盗ものとりだったのでは……」

そう聞いてみるが、太兵衛は頭を横に振った。

「ないない、だってうちにゃあ金目のモンなんて何もないしさ、取り立てられるような覚えもないし、第一何も盗られてないんだし。唯一たんまりある絵だって、無名のおいらのじゃ二束三文なんだ。盗み損だよ」

「その、他の長屋の方は逃げ出したのっぺらぼうについてはなんと──」

「それがおかしな話でさ、誰も誰の姿も見てねえってんだ! みんなおいらの声を聞くなりすぐに

外に出たらしいんだけどさ、戸は確かに開けられて、部屋の中はとっ散らかって、だけど肝心の怪しい人なんざ影も形もなかったとか抜かすんだぜ」

ふん、と太兵衛は鼻を鳴らすが、確かにそれはおかしな話だった。


 何せ、長屋の壁というものは薄い。耳をすませば隣の家族の会話が聞こえてくるくらいには薄い。そんな薄壁へだてた隣人の誰もが、太兵衛の部屋に出入りするような人の気配などなかったと主張しているのである。

 近くの自身番じしんばんに警備のために詰めていた親方も、はたまたそれより手近な場所にいたはずの木戸番きどばん小屋の主人も、門限をとうに過ぎた夜半に門のそばを通るような人はいなかったのだと言う。

 なるほど、そうなると確かに普通の人ではない。普通の人であるなら、太兵衛が見たというそれを他の誰もが見なかったというのはおかしな話だった。


 ──ひとつ例外があるとするならば。

 人の目に映らないはずのモノが相手なら、そうなってもおかしくはない。


 夜、暗闇が天地を覆うその時間は、そういったこの世ならざるモノたちがうごめく世界──彼方かなたが近くなる。近くて遠い異形の世界だが、普段は深い境界線に隔たれたはずの彼方かなたから、うっかり異界のモノが入り込んでくるのもこういった時間である。


 たまは頭を抱えた。そういう話を太兵衛はしているのだ。

「ああ……」

たまだって他人事ではない。のっぺらぼうが抜け出したきり消息が掴めていないなら、いつかどこかで(そしてそういう時は大体一人で出歩いているのだ)、ばったりそののっぺらぼうと出会ってしまうことになってもおかしくはないのである。たまは普通の人よりも少しだけ、そういうモノに敏感だから尚更だ。

 もしも仄暗ほのぐらい時間帯にでも、そんなモノとにらめっこになんてなってしまったら……、そのぬろんとした顔でたまを見下ろしてきたりなんてしてきたのなら……、たまだって太兵衛同様に泡を吹いて倒れる自信がとてもあった。


「あわわ……なんということでしょう」

「あはは、おたまちゃん、すごい顔になってるぜ。どうだ、おっかないだろ」

「当然でしょう! 太兵衛さん、これは大変なことです」

「うんうん、やっぱりおたまちゃんは話がわかる。恐ろしいだろ」

「恐ろしいです」

「まあさ、顔がないお侍なんておいらたちじゃなくたっておののくだろうさ」

「びっくりした拍子に怪我でもしたら……」

「なんなら腰に提げた大小で事件でも起こされたら……、怪我人が出たってんで大騒ぎだろ? 巡り巡っておいらがそののっぺらぼうを描いたんだって知れた日にゃあ」

「間違いなく大変な目に遭いますね。太兵衛さんも、そっくりだと言う兄弟子の方も」

「そうだろう! ただでさえ夜中に大騒ぎしたってさあ、あんな絵一枚のせいで長屋のみんなからも怒られてんのに……」


 長屋の連中はまともに取り合ってくれない、それで、彼はここに来たらしい。たまに聞かせるためだけに。

 太兵衛はまっすぐにたまに向いて、突然拝むような姿勢をとった。目の前の通りには少なからず往来がある。若い娘をいきなり拝み出した男の姿はさぞ不審だろう。

 覿面てきめん、たまは慌てた。

「た、たたた太兵衛さん?」

「おたまちゃん、この通りだ! 頼む、おいらを助けてくれ!」

「た、たまがですか⁈ たまはご飯の準備と、お裁縫さいほうと、お掃除しか出来ませぬ!」

「そりゃあ十分……じゃなくてさ、そうじゃなくて、おたまちゃんに力を貸してもらいたいんだよ。正確には、おたまちゃんの兄さんにさ」

「へ? あ、兄、です?」

たまは思わず頓狂とんきょうな声を上げた。


 たまは一人っ子で、ついでに住み込みでお世話になっている志乃屋の旦那さんとおかみさんにも、子供はいない。生憎あいにくと血の繋がった兄弟などいないはずなのだが、そこでふいっと思考を彷徨さまよわせる。どうしてか、どこか心当たりはあって、そんなことを言い出しそうな人は知っている。

 思い出して、すぐに微妙な面持ちになった。

「あー、兄、ですね……」

「同じ長屋の佐七さしちさんに聞いたんだよ。そういう不思議なことならおたまちゃんの兄さんが詳しいだろうってさ。滅法腕の立つ、訳ありで家出中の兄さんがいるんだって? おいら長いことこの店の常連なのに知らなかったよ」

「しょ、諸事情がありまして……おかみさんたちには内緒ですよ……。佐七さんなら、確かに一度お会いしましたからね……」

「ええっと、確か夜四郎さんだっけ」

「あはは……、や、夜四郎兄さまですね」

本当のことなど言うわけにもいかず、たまは愛想笑いを返す他なかった。


 この夜四郎という男は、たまがひょんなことから関わることになった破れ寺やれでら暮らしの風来坊ふうらいぼうである。見たままの浪人者ろうにんものなのか、実はお偉い武家に仕えるお侍なのか、はたまたただの変な人なのか──実のところ、彼の正体はたまにもよくわからないのだが、間違ってもたまの兄ではない。つい二ヶ月近く前に知り合って、以来不思議な事件がある度に協力して町を駆け回ることになったのだが、この男、何かあるとすぐにたまの兄を名乗る悪癖あくへきがあった。


 その方が都合が良いからと、方々でたまの兄であると名乗る──それをまず先にたまに教えてくれたならまだよかったのに! 大体の場合、たまは人伝に夜四郎が兄である設定を聞かされる。そろそろ慣れるべきなのだろうかと半ば諦めたような心持ちになっていた。

 変に狼狽うろたえて、話をややこしくすることも無かろう。キリリと表情に力を込めると、たまは神妙な面持ちで頷いて見せた。

「それで、夜四郎兄さまなら太兵衛さんのお力になれると」

「おうとも! 夜四郎さんにさ、どうにかそいつを連れ戻してくれるように頼んじゃくれないかい」

「そ、そいつを……」

「のっぺらぼうだよ。おいら二本差しで描いちまったんだもん、万が一刀を抜かれちゃあたまんないだろ? 腕が立つ人がいた方がいいじゃないか」

「それは、まあ」

太兵衛が刀を振る素振りを見せて、たまはそれをひょいと体ごと避けた。


 太兵衛の主張もわかるし、何よりたまは困っている、助けてくれと言われて断れるタチではない。頼むと言われると、たまはめっぽう弱くなる。

「おいらの描いた絵とは言やさ、面倒ごとを起こされちゃ堪んないよ! どんなおとがめがあることやら……それに美成さんに知られた日にゃあさ……」

「あ、あい」

「話を伝えてくれるかい? 後生ごしょうだよ、捕まえても退治してくれたっていいんだ。お礼だってちゃんとするさ。今日明日は少なくても家にいるし、そうでなくてもおたまちゃんと兄さんの都合に合わせるよ」

太兵衛はまた、拝むような姿勢でたまに頭を下げた。


 ──どのみち、妖となれば夜四郎さまの出番だもの。


 今行くか、後で事件が起こってから行くかだけの違いだ。ならば早いに越したことはない。

「おたまちゃん、頼まれてくれるかい?」

「あい」

太兵衛のダメ押しの一言に、たまはついに頷いた。


 こうやって、たまはこの騒動をったのである。

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