一話 逃げ出した姿絵
絵から侍が抜け出した──。
たまが太兵衛からその話を聞いたのは、まだ昼前のこと。団子や饅頭を商う
「はあ、絵からお侍さまが」
たまは
「昨日のお話ですか?」
「いや、まずは自分でそいつを探そうと思ってたのよ。それが五日、六日ばかり前のことさ。だがよう、どこから探せばいいのかもさっぱりでよう、仕事の合間にもあちこち歩いてみたが、とんと見つかりゃしねえのさ」
太兵衛は重い重いため息である。
「お侍さまの姿絵ということは、特別な絵なんです? どなたからか頼まれたとか」
「なんてこたァない、ただの絵さ。あれは売りモンでもなくて、田中先生に──あ、おいらの絵の師匠なんだけど──ひとつ心の
「途中まで」
「そう、途中まで。しっかしなあ、その顔だけがうまく決められなかったんだ。どんな表情なのか、とんと見えてこなくって」
たまはふうん、と小さく頷いた。
「どなたかを描かれたんでしょうか」
「いや、それならこんなに悩まないさ、架空のお侍だよ。何処の誰ってのは全くないんだけど──いや、実はさ、ちょっとだけ参考にした人がいるんだ。背格好に
「はあ……それは一体……」
「おたまちゃん、こいつは内緒だぜ。おいらの兄弟子の
太兵衛がこそこそとたまに耳打ちした。たまにとってはさして
「さっきも言ったけど、顔は何ひとつ描いちゃあないんだけど、髷の結いだとかさ、
「あちゃあ、それが逃げちゃったと」
「それが逃げちゃったのよ」
「兄弟子さまのお姿で」
「そう、兄さんの姿で」
「でも、顔はなく」
「うん、顔はない」
「むう、表情が決まらなかったなら、いっそ兄弟子さまのお顔を借りればよかったのでは……」
「そんなわけにはいかないよう、おたまちゃん。だって姿絵じゃああるまいし、描かせてくれって頼んだわけでもないからさ、勝手に兄さんの顔を借りるなんて悪いじゃないか」
あっけらかんと言い放つ。そうは言っても姿は借りてしまっているのだが、顔さえ違えば最終的には別人なのだと太兵衛は主張した。
絵の中の侍は、
──しかし、絵が脱走とは。
まさしく怪談話ではないか──、たまはそう思うと真顔になってしまった。たまは怖い話が苦手なのだ。よくわからないモノは怖いモノ、今回の話もそう言った類なのだと気が重くなる。
「あのう、本当に
そう聞いてみるが、太兵衛は頭を横に振った。
「ないない、だってうちにゃあ金目のモンなんて何もないしさ、取り立てられるような覚えもないし、第一何も盗られてないんだし。唯一たんまりある絵だって、無名のおいらのじゃ二束三文なんだ。盗み損だよ」
「その、他の長屋の方は逃げ出したのっぺらぼうについてはなんと──」
「それがおかしな話でさ、誰も誰の姿も見てねえってんだ! みんなおいらの声を聞くなりすぐに
外に出たらしいんだけどさ、戸は確かに開けられて、部屋の中はとっ散らかって、だけど肝心の怪しい人なんざ影も形もなかったとか抜かすんだぜ」
ふん、と太兵衛は鼻を鳴らすが、確かにそれはおかしな話だった。
何せ、長屋の壁というものは薄い。耳をすませば隣の家族の会話が聞こえてくるくらいには薄い。そんな薄壁
近くの
なるほど、そうなると確かに普通の人ではない。普通の人であるなら、太兵衛が見たというそれを他の誰もが見なかったというのはおかしな話だった。
──ひとつ例外があるとするならば。
人の目に映らないはずのモノが相手なら、そうなってもおかしくはない。
夜、暗闇が天地を覆うその時間は、そういったこの世ならざるモノたちが
たまは頭を抱えた。そういう話を太兵衛はしているのだ。
「ああ……」
たまだって他人事ではない。のっぺらぼうが抜け出したきり消息が掴めていないなら、いつかどこかで(そしてそういう時は大体一人で出歩いているのだ)、ばったりそののっぺらぼうと出会ってしまうことになってもおかしくはないのである。たまは普通の人よりも少しだけ、そういうモノに敏感だから尚更だ。
もしも
「あわわ……なんということでしょう」
「あはは、おたまちゃん、すごい顔になってるぜ。どうだ、おっかないだろ」
「当然でしょう! 太兵衛さん、これは大変なことです」
「うんうん、やっぱりおたまちゃんは話がわかる。恐ろしいだろ」
「恐ろしいです」
「まあさ、顔がないお侍なんておいらたちじゃなくたって
「びっくりした拍子に怪我でもしたら……」
「なんなら腰に提げた大小で事件でも起こされたら……、怪我人が出たってんで大騒ぎだろ? 巡り巡っておいらがそののっぺらぼうを描いたんだって知れた日にゃあ」
「間違いなく大変な目に遭いますね。太兵衛さんも、そっくりだと言う兄弟子の方も」
「そうだろう! ただでさえ夜中に大騒ぎしたってさあ、あんな絵一枚のせいで長屋のみんなからも怒られてんのに……」
長屋の連中はまともに取り合ってくれない、それで、彼はここに来たらしい。たまに聞かせるためだけに。
太兵衛はまっすぐにたまに向いて、突然拝むような姿勢をとった。目の前の通りには少なからず往来がある。若い娘をいきなり拝み出した男の姿はさぞ不審だろう。
「た、たたた太兵衛さん?」
「おたまちゃん、この通りだ! 頼む、おいらを助けてくれ!」
「た、たまがですか⁈ たまはご飯の準備と、お
「そりゃあ十分……じゃなくてさ、そうじゃなくて、おたまちゃんに力を貸してもらいたいんだよ。正確には、おたまちゃんの兄さんにさ」
「へ? あ、兄、です?」
たまは思わず
たまは一人っ子で、ついでに住み込みでお世話になっている志乃屋の旦那さんとおかみさんにも、子供はいない。
思い出して、すぐに微妙な面持ちになった。
「あー、兄、ですね……」
「同じ長屋の
「しょ、諸事情がありまして……おかみさんたちには内緒ですよ……。佐七さんなら、確かに一度お会いしましたからね……」
「ええっと、確か夜四郎さんだっけ」
「あはは……、や、夜四郎兄さまですね」
本当のことなど言うわけにもいかず、たまは愛想笑いを返す他なかった。
この夜四郎という男は、たまがひょんなことから関わることになった
その方が都合が良いからと、方々でたまの兄であると名乗る──それをまず先にたまに教えてくれたならまだよかったのに! 大体の場合、たまは人伝に夜四郎が兄である設定を聞かされる。そろそろ慣れるべきなのだろうかと半ば諦めたような心持ちになっていた。
変に
「それで、夜四郎兄さまなら太兵衛さんのお力になれると」
「おうとも! 夜四郎さんにさ、どうにかそいつを連れ戻してくれるように頼んじゃくれないかい」
「そ、そいつを……」
「のっぺらぼうだよ。おいら二本差しで描いちまったんだもん、万が一刀を抜かれちゃあ
「それは、まあ」
太兵衛が刀を振る素振りを見せて、たまはそれをひょいと体ごと避けた。
太兵衛の主張もわかるし、何よりたまは困っている、助けてくれと言われて断れるタチではない。頼むと言われると、たまはめっぽう弱くなる。
「おいらの描いた絵とは言やさ、面倒ごとを起こされちゃ堪んないよ! どんなお
「あ、あい」
「話を伝えてくれるかい?
太兵衛はまた、拝むような姿勢でたまに頭を下げた。
──どのみち、妖となれば夜四郎さまの出番だもの。
今行くか、後で事件が起こってから行くかだけの違いだ。ならば早いに越したことはない。
「おたまちゃん、頼まれてくれるかい?」
「あい」
太兵衛のダメ押しの一言に、たまはついに頷いた。
こうやって、たまはこの騒動を
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