夜珠あやかし手帖 のっぺらぼう
井田いづ
序
むしむしとした空気を引き延ばすような、生ぬるい風が吹いている。
ここ数日でも殊更
その日は明るい夜だった。貧乏長屋の薄汚れた壁やそこに掛けた絵も、目を凝らせば見えない事はないような薄暗闇。とうに
壁にある絵はどれもこれも太兵衛が描いたものだ。俗に
一点もの故に高値がつくはずのその絵も、悲しいかな、名の売れない太兵衛のものだと途端にそうでもなくなるのだが、そうは言っても
近所の飯屋に飾る予定の絵、長屋仲間に頼まれていた流行りの役者絵、美人画に、店に出す予定の化け物草紙、古典の英雄やらなにやらを描き出した絵。それらが並び並んだその端っこにある一枚だけは売り物ではなくて、絵の師匠から課せられた課題の絵があって──。
「ん?」
おかしい、と太兵衛はすぐに声をあげた。確かに昨日描いたはずの絵は
初めにそれが目に入ったとき、太兵衛はまず目を疑った。紙自体はあるにはある、しかし不自然にぽっかりと中央だけが
「た、確かに昨日描いたはずだぞ、おいらは」
思わずそんな声が出た。何せ、上手くいかなくて散々ぼやいて
──ううん、つまらん絵になったなァ。
──どんな顔もこいつにゃ合わねえぞ。
──失敗失敗、顔もなけりゃあ何にもなれねぇや。
──化け物絵にしたって迫力もねえし、こりゃあ兄さんにまたお小言もらうぞ。
そうやって、昨日は床に就いたはずなのだ。
それならば何故、其処にないのか。
もっとよく見ようと身を起こしたところで、がたりと戸板が鳴った。立てた
戸口に一人、こちらに背を向ける形で男が立っていた。
──見覚えは、ある。
太兵衛が描いたあの絵、要は真っ新になってしまったあの絵に描いたのとまるきり同じ
「あ、兄さんなのかい……?」
口に出してはみたが、やはりあり得ない。あり得たとして、こんな時分に黙って部屋に入ってくるわけがない。それでも、訳のわからない何かよりは知っている誰かだと思いたかったのだ。
まあ、しかしと言おうか、やはりと言うべきか、その期待は裏切られることになる。
声をかけられた男が、静かに振り返った。
開け放たれた障子戸から、湿った風が吹き抜ける。
美しく結われた
「ひ、ひぇええええええ! ば、化け物だあっ!」
つまんねえ絵だと、昨日は思ったそれも、こうして実際に見てみると迫力は十分あった。
周りのものを巻き込んで、太兵衛は派手にひっくり返った。がしゃあん、と大きな音。なんだなんだと周りの部屋から人が顔を出す。化け物だ、のっぺらぼうだ、助けてくれぇ──そう叫んだつもりが言葉にはならず、ただぶくぶくと泡になって出たのみである。
──暗転。
以上が、太兵衛の覚えている限りの記憶である。
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