夜珠あやかし手帖 のっぺらぼう

井田いづ

 むしむしとした空気を引き延ばすような、生ぬるい風が吹いている。


 ここ数日でも殊更鬱陶うっとうしい暑さの日だった。湿気を帯びた風は心地よさを運ぶことはまるでなく、より一層暑さ、不快さを際立たせる。太兵衛たへえは何度目かになるかわからない寝返りを打ちながら、何の気なしに壁を見上げる形でまぶたを持ち上げた。


 その日は明るい夜だった。貧乏長屋の薄汚れた壁やそこに掛けた絵も、目を凝らせば見えない事はないような薄暗闇。とうにの刻過ぎているはずだと言うのに不思議なこともあるもんだなァ──太兵衛はどこか夢見心地で絵を見遣る。


 壁にある絵はどれもこれも太兵衛が描いたものだ。俗に錦絵にしきえと呼ばれる版画の浮世絵ではなく、肉筆画にくひつが──要は与えられた紙にたわむれに筆を走らせた、一点ものの絵である。

 一点もの故に高値がつくはずのその絵も、悲しいかな、名の売れない太兵衛のものだと途端にそうでもなくなるのだが、そうは言ってもわずかには需要があった。現に、今壁に飾られている絵はどれも頼まれて描いたものばかりなのだ。


 近所の飯屋に飾る予定の絵、長屋仲間に頼まれていた流行りの役者絵、美人画に、店に出す予定の化け物草紙、古典の英雄やらなにやらを描き出した絵。それらが並び並んだその端っこにある一枚だけは売り物ではなくて、絵の師匠から課せられた課題の絵があって──。


「ん?」


 おかしい、と太兵衛はすぐに声をあげた。確かに昨日描いたはずの絵は其処そこに飾ったはずだった。

 初めにそれが目に入ったとき、太兵衛はまず目を疑った。紙自体はあるにはある、しかし不自然にぽっかりと中央だけが真っ新まっさらになっているのである。周囲に散りばめた絵の具はそのままに、確かに描いたはずの二本差しの侍の姿だけがどこにもない。薄暗闇で見間違いもあるだろうと目をらしても、やはりなにもない。


「た、確かに昨日描いたはずだぞ、おいらは」


思わずそんな声が出た。何せ、上手くいかなくて散々ぼやいてうめきながら描いたのは記憶に確かで、間違いないのである。


──ううん、つまらん絵になったなァ。

──どんな顔もこいつにゃ合わねえぞ。

──失敗失敗、顔もなけりゃあ何にもなれねぇや。

──化け物絵にしたって迫力もねえし、こりゃあ兄さんにまたお小言もらうぞ。


そうやって、昨日は床に就いたはずなのだ。


 それならば何故、其処にないのか。

 もっとよく見ようと身を起こしたところで、がたりと戸板が鳴った。立てた枕屏風まくらびょうぶの向こうに慌てて視線をくれて、そこでようやく太兵衛は部屋にいた人影に気が付いたのである。

 戸口に一人、こちらに背を向ける形で男が立っていた。


 ──見覚えは、ある。


 太兵衛が描いたあの絵、要は真っ新になってしまったあの絵に描いたのとまるきり同じ風采ふうさいの男が、ちょうど出ていく後ろ姿だった。その姿を認めて、途端にさあと青褪あおざめた。よもや知り合いが訪ねてきたのかと、

「あ、兄さんなのかい……?」

口に出してはみたが、やはりあり得ない。あり得たとして、こんな時分に黙って部屋に入ってくるわけがない。それでも、訳のわからない何かよりは知っている誰かだと思いたかったのだ。


 まあ、しかしと言おうか、やはりと言うべきか、その期待は裏切られることになる。


 声をかけられた男が、静かに振り返った。

 開け放たれた障子戸から、湿った風が吹き抜ける。夜半よわにも関わらずいやに明るいその晩のこと、ろくな明かりもないと言うのに振り返った男の顔の造形ははっきりと太兵衛の目に飛び込んできた。

 美しく結われたまげに、はぎ色の着流しが粋な男の、つるりとしたその顔面! 目も、鼻も、口も、眉すら持たないぬろんとした不気味な表面!


「ひ、ひぇええええええ! ば、化け物だあっ!」


 つまんねえ絵だと、昨日は思ったそれも、こうして実際に見てみると迫力は十分あった。

 周りのものを巻き込んで、太兵衛は派手にひっくり返った。がしゃあん、と大きな音。なんだなんだと周りの部屋から人が顔を出す。化け物だ、のっぺらぼうだ、助けてくれぇ──そう叫んだつもりが言葉にはならず、ただぶくぶくと泡になって出たのみである。


 ──暗転。

 以上が、太兵衛の覚えている限りの記憶である。

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