私と猫
あの日、朝目を覚ますと焚き火の火は消えていた。
彼はいなかった。
ただずっと、足跡だけが残っていて。
ただずっと、猫が鳴いていた。
後を追うかしばらく悩んだけど、私は猫を抱えて足跡と一緒に歩くことにした。
歩きながら、私はたくさん考えた。
初めて彼と会った日。
彼は渇いた地面にうずくまっていた。
人と会えた喜びで気づかなかったけど、あのとき彼はずっと何もない空中を両手ですくっていた。
よく考えれば、きっとそのときからだったんだろう。
彼は優しかった。
私が勝手に家に住み着いても、特に文句は言わなかった。
ずっとベッドの上から窓の外を眺めたり、猫を撫でたりしているだけだった。
あ。でも喉が渇くのか、よく水を飲んでいた。
私が水をグラスに入れると、少し嬉しそうに笑った。
もっと笑えばいいのに。と思った。
そして、家を掃除しているとき、壁に貼られているメモを見つけた。
内容を理解するまで時間が必要だった。
受け入れられなかったと言った方がいいのかもしれない。
そんななか、彼が海に行きたいと言うようになった。
嫌だった。
でも止めることもできなかった。
喉の奥がキュッとしまって、声が出せなかった。
本当に嫌だった。
でも歩いているときの彼は少しだけ笑っていて、ああくそ。と思った。
今思えば、無理矢理にでも引き戻せばよかったのかもしれない。
また、私はひとりに戻ってしまった。
どれくらい、歩いただろうか。
もう諦めようかと思ったとき、一冊の本を拾った。
それは、見覚えのある彼の日記だった。
怖くて、中を開けられなかった。
私は日記と猫を抱えてまた歩く。
歩いて、歩いて、歩いて。
赤く染まった足跡を追いながら、ただ歩いた。
突然、猫が私の腕から飛び降り、駆け出していく。
嫌だ。
もう一人は嫌だ。
私も必死に追いかける。
腕の中の日記が、開いては閉じ、開いては閉じ、パタパタと音をたてる。
冷たい空気が肺に刺さって痛い。
それでも必死に追いかけた。
頭の中には、彼だけがいた。
猫が走っていった先。
そこには、地面に倒れて動かなくなった
“それ”がいた。
靴は半分以上取れていて、足には赤黒いものが固まっていた。
そして、手には万年筆があった。
一気に視界がぼやける。
手が震える。
息がうまくできない。
猫が鳴いた。
あれから2年が経った。
私と猫は、別の場所に生活できそうな家を見つけ、今はそこに住んでいる。
あの家には一度も帰っていない。
2年、2年かかった。
私は今日やっと日記を開き、これを書いている。
なぜこんなにも時間がかかったのか。
本当はこの日記を開くつもりも、書くつもりもなかった。
でも、今日からは書いていこうと思う。
サボり癖がある、がさつな私だけど。彼みたいに綺麗な言葉は思いつかないけど。
毎日書いていこうと思う。
だってまだ空白のページは残っているから。
それに…
「に”ゃーお”」
猫がおもちゃを咥えて私のところに歩いてくる。
青い、ロープで作られたボール。
「犬みたいな趣味ね」
これが、私と猫の住む世界。
もう終わってしまった世界の始まりの物語。
海の音がうっすらと聞こえた。
僕と猫と世界の終わり 皓月 吟 @gin_kogetsu
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