〈2〉
実にひと月ぶりの再会だ。
イヌワシはアレクにいさまの命を受け、隣国であるグルジールを訪問するためにレイシアを留守にしていた。
旅の目的は、大公就任の挨拶とグルジールの第二王子の身柄の引き渡しだ。
一年以上に及ぶグルジールとの交渉の末、双方の合意に基づく賠償金と引き替えにシザリオとその一味は故国へ送還されることになった。以後はグルジールの国法により裁きを受けるそうだ。
本当の意味でわたしとイヌワシの、忌まわしきコヨーテとの因縁に決着がついた。もう二度と悪魔に会うことはない。
騎馬の一団はみるみる迫ってくると、先頭の号令に速度を落とした。馬上の騎士たちが鞍から下りると、主君を出迎える準備を整えた家臣たちが頭を垂らす。
立っているのは大公妃であるわたしだけ、馬上に留まっている最後のひとりは若き大公そのひとだった。
鼻息荒く前脚を弾ませている愛馬の首をやさしく叩き、旅装のイヌワシはひらりと飛び降りた。手綱を近習に預けると、足早にこちらへ歩いてくる。
風に乱れた麦穂色の髪はあいかわらず襟足が短いが、二十歳の顔つきは少年時代の名残を削ぎ落としてより精悍になった。帰りの道中身だしなみに気を回す余裕もなかったのか、無精髭がうっすら伸びている。
手を伸ばせば容易に届く距離で立ち止まり、イヌワシはぶしつけな視線を注いできた。わたしの存在を事細かく確かめるように。
思わず笑い、ショールをほどいて歩み寄る。かれの隣で過ごした月日のぶんだけ伸びた髪が風に流れた。
「おかえりなさいませ。ご無事でお戻りくださり安堵いたしました」
「――うん」
頷く声音は幼かった。
イヌワシは息を吐きだし、片手でわたしの頬に触れた。
「ただいま。なかなか戻れなくて悪かったな」
「ううん、手紙を貰ったから大丈夫。お義父様のお墓参りはできた?」
「ああ。傭兵団の仲間にも会えたよ。正体は隠したままだけど――またいっしょに傭兵稼業をやらないかって誘われた」
「まあ」
わたしが口元を押さえると、イヌワシは肩を揺らして笑った。
「もちろん断ったよ。死ぬまで専属契約を結んだんだって言ったら、次に来るときは嫁も連れてこいだってさ」
もう片方の手が背に回り、埃っぽい旅装の胸に抱き寄せられる。わたしは喜んで夫の腕の中に納まった。
「シザリオは、たぶん首を刎ねられる。みっともなく命乞いを続けてたが……ヴァスティアン陛下はお許しにならないだろうな」
「そう……」
予想どおりの報告にため息がこぼれた。王になれなかったコヨーテは、いずれ断頭台の露と消える。
あの男が手にかけた先代のエーヴェヌルト侯爵や侯爵家の使用人たちは、これで浮かばれるだろうか。
「あいつは、もうひとりの俺だ」
「え?」
「鏡に映ったレイシアの亡霊だったんだ、シザリオは。俺は父親そっくりになっていく自分がおそろしかった。だがあいつは、俺に――ヴランヒルトの世継ぎになろうとした」
イヌワシは苦い笑みを口元に浮かべた。淡青のまなざしは傷みを帯びて、しかし揺るぎない意志を宿している。
「不思議だよな、あんなに嫌いだった名前を渡したくないと思った。たとえ呪いだとしても、セレイウスの運命は俺のものだ」
レイシアのヴランヒルトの息子、レイシアのセレイウス。噛みしめるように名乗り、濃い金色に煙る睫毛を伏せる。
「俺が選んだ、俺の名だ。王にはならない、騎士でもない。あんたが信じてくれる、その心が欲しいために働く悪どい傭兵だ」
ふと、かれの瞳は夜明けの空の色だと思った。冬の終わり、春を運んでくる風に染まった暁天の光り――
わたしは爪先立ってイヌワシの頬を両手で包みこんだ。
「傭兵さん」
すっかり口に馴染んだ呼称に小さく瞬く。
「トゥスタのローゼリカ……いいえ、レイシアのローゼリカが生涯をかけて祝福するわ。わたしの傭兵の、誇り高き人生を」
イヌワシは泣き笑うみたいに表情を崩し、柔く額に口づけた。
「わが姫、わが野薔薇」
かれの旗印が金の鷲ならば、わたし個人の紋章は名前にちなんだ野薔薇だ。この曠野のそこかしこにも咲く、ごくありふれた花。
それでいい、それがいい。
特別な存在ではなく野に咲く花のように、灰まみれの野良猫のように、この地に根づく
翼を持たないこの身で、根を下ろした大地を踏みしめて。
王なき国に春が来るたび、新たに芽吹く何かを願って種を蒔き続けながら。
不意に、イヌワシがわたしを抱き上げた。
子どものように歓声を上げて首にかじりつくと、かれも声に出して笑った。その晴れ晴れとした響きに、静かに見守っていた家臣のあいだから笑い声が洩れる。
朝陽が天の階をのぼっていく。
わたしたちの国の新しい一日がはじまろうとしていた。
王なき国の春の凱歌 冬野 暉 @mizuiromokuba
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