12.王なき国に春が来る
〈1〉
夜明け前の
中天から地平にかけて紺青から淡青へと空が白んでいく。地上には夜の名残が青墨色の影となって広がり、灌木の梢を撫ぜて渡ってくる風は川底の水流のように冷たい。
空の裾野で儚く瞬く星を見上げ、わたしは外套の襟元を手繰り寄せた。
王都よりも北に位置する属領地の春はのんびりとやってくる。暦の上ではとっくに冬は終わっているが、足元の草地は霜で凍りついていた。
風に靡く雪灰色の髪は肩よりも少しだけ長い。花冠祭の季節には結い上げるのにじゅうぶんな長さになっているはずだ。
「公妃殿下、風が冷とうございます。やはり天幕に入ってお待ちになられていたほうが……」
後ろに控えているマイアさんがためらいがちに声をかけてきた。
わたしは苦笑して首を横に振った。
「ありがとうございます。でも平気です。この外套は毛皮が裏打ちしてあるし、それにほら、温石を用意してもらったから寒くないですよ」
火に当てて熱した石を厚手の布で包んだ懐炉のおかげで、外套の内側はぽかぽかとあたたかい。
マイアさんはそれでも心配そうな顔をしているが、「ではせめてこれを」と羊毛で編んだショールを差しだした。
「頭から首にかけて巻いてくださいませ。頭巾の代わりになりますから」
言われたとおりに巻きつけると、耳や首元がしっかりと覆われて外気から守ってくれる。わたしは再び礼を告げると、風が吹きつける曠野の果てに向き直った。
いよいよ日の出だ。
地平から赤橙色の先触れが滲みだしている。空の明るみが増すごとに地表の影が深くなっていく。
光と闇の狭間に立ち、わたしはイヌワシを待っていた。
十六の冬から季節が一巡し、今年わたしは十八になる。十七の春にレイシア公となったかれの許で暮らすようになって、もうすぐ一年だ。
属領地――レイシアへやってきてからの日々は目まぐるしく、わたしもイヌワシもがむしゃらに駆け抜けた一年だった。夫婦になった感慨に浸る間もなく、課題ずくめの領地の建て直しに奔走している。
元王太子の帰還に領民たちは驚き、大多数は歓呼してイヌワシを迎えた。しかし、トゥスタ国王の妹であるわたしとの結婚に関しては反発の声が大きすぎて、婚礼に漕ぎ着けるまで半年以上を要した。
イヌワシは真摯に領民の陳情に耳を傾け、この結婚はレイシアがより豊かに発展するために必要不可欠なものだということを訴えた。わたし自身領地を歩いて回り、少しでもレイシアの人びとに馴染もうと努力した。
領内の視察で目についたのが孤児院や養老院、貧民に無償で傷病の治療を行う施療院といった施設の惨状だ。
庶民の識字率が高く、窮民救済の施策が手厚いトゥスタ本国で生まれ育ったわたしには、あまりに衝撃的だった。荒んだ土地では社会的な弱者から切り捨てられていくのだと理解していても、その実情を目の当たりにすると打ちのめされた。
ある孤児院で、痩せこけた体にぶかぶかの古着を被った女の子が指をしゃぶりながらドレスの裾にまとわりついてきた。お腹が空いていたのか遊んでほしかったのか、茫洋とした顔は感情が希薄で読み取れなかった。
そばにいた世話係の女性が慌てて引き剥がそうとしたが、女の子はしがみついて離れようとしなかった。フケまみれの女の子の頭を見て、わたしはとっさに沐浴の準備をするようお願いした。
動きやすいエプロンドレスを拝借し、湯を張った盥に古着を脱がせた女の子を入れて頭から爪先まで丸洗いする。唖然とする世話係や、ついでに女官や護衛の騎士にも協力してもらい、大人総出で孤児たちの沐浴を行った。
着せっぱなしの古着はすべて持ちこんだ清潔な衣類と取り替え、汚れたリネンやカーテンとまとめて洗濯した。
孤児院じゅう大掃除をし、これも持ちこんだ食料品を使って炊き出しをした。大鍋いっぱいのシチューと山盛りのパンが子どもたちのお腹の中へ消えるころには、すっかり日が暮れていた。
くたくたになりながら空っぽの大鍋を洗っていると、湯を浴びて血色がよくなった女の子が大きな瞳をきらきらさせて飛びついてきた。
「かあちゃん、おかわり」
のちに、それは彼女が孤児院に来てはじめて発した言葉だったのだと知った。
あれから何度も孤児院に足を運んでいるけれど、わたしはあいかわらず『かあちゃん』と呼ばれている。いまでは彼女以外の子どもたちにまで呼ばれるようになった。
わたしは、目の前の子どもたちに対して自分ができる精いっぱいのことをしただけだ。
生家の孤児院では新しい弟妹がやってくるたび、兄や姉たちといっしょに沐浴や着替え、食事の世話をした。怖くて眠れないと泣いてぐずれば添い寝をして子守唄を歌った。
そんなことしかできないのだ。王妹や大公妃だなんていったところで、所詮は孤児院育ちの町娘に過ぎないのだから。
――いまはできることをしよう。貴婦人のドレスを脱いでエプロンドレスを纏い、短い髪を隠しもせず、慰問先の施設で煤や埃まみれになって働くわたしを、いつしか領民たちは〈灰猫姫〉、〈灰かぶりのお妃様〉と揶揄するようになった。
灰色がかった白髪がかまどに潜りこんで灰を被った猫を連想させるらしい。イヌワシの異名にちなんで〈
だが、孤児院の子どもたちは無邪気に歓迎してくれる。養老院で暮らす老人はわたしの手を撫でさすり、「こりゃあよく働く娘っ子の手だなぁ」と歯が抜けた口を開けて笑っていた。
施療院の患者からは、背中をさすってくれ、包帯を替えてくれ、食事を手伝ってくれと頻繁に話しかけられるようになった。かれらはじろじろと値踏みするようにわたしの顔を覗きこみ、瞳の色に気づくと決まって口にするのだ――「春告げの花の色だ」と。
トゥスタよりも冬が長く厳しいレイシアで、雪解けのころに花を咲かせる雪割草は春の使者として親しまれていた。文字通り冷たい雪を割って花開く様が、敗戦から長らく苦難の時代を過ごしてきた領民の琴線に触れたようだ。
「あんたがレイシアに春を連れてきてくれたのかい? 冠なき王、あたしらの貴いお方を」
あるとき、長患いの末に寝たきりになってしまった老女が不思議そうに尋ねた。
わたしは否と答えた。
「いいえ、あのひと自身の力で帰ってきたのです。レイシアのために、己の使命を果たすために」
老女は薄く濁った両の瞳を細め、ただひと言「そうかい」と呟いてほほ笑んだ。
「白い髪に赤紫の瞳だなんて〈トゥスタの牝狐〉の再来かと思ったけど、どうやら違うみたいだ。ああ、この目がまだよく見えてたら、やさしいお妃様のご尊顔を冥土の土産に拝むことができたってのにねぇ――」
イヌワシは、わたしはよくやっている、徐々に領民に受け容れられてきていると言ってくれる。半分以上は慰めかもしれないけれど、もう半分は前向きに信じてもいいのかもしれない。
英雄にも賢女にもなれなくても、この両手で為すべきこと、成せることはきっとあるはずだから。
「公妃殿下、陽が――」
マイアさんが声を上げた。
曙光の最初の一矢が放たれ、世界が金色に染まっていく。
朝陽が光の帯となって地平を走り、影が大地に吸いこまれる。赤く照り輝く夜明けの空に見惚れていると、馬の嘶きが聞こえた。
溢れる曙光に包まれて、北方から騎馬の一団が現れた。近づいてくる馬蹄の響きに、後方に待機した家臣たちがわっと沸き立つ。
「旗印を確認! 緋色に黄金の鷲――大公殿下です!」
物見の騎士が宣言すると、いっせいに人びとが動きだした。
わたしはその場で立ち尽くし、風に翻る金の鷲の旗を凝視した。
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