君が私の拠り所


「退屈だ」


 それがアイツの口癖だった。

 アイツが何を想って、何を考えて、何を感じて日々を過ごしていたのか。一番近くでアイツを見ていたはずの私ですらわからなかった。


 いや、それは私の勘違いだったのかもしれない。

 私はアイツのことを見ているつもりで全く見れていなかった。

 だからアイツは私の前から姿を消したんだ。

 私がもっとアイツのことを見ていたら、アイツの拠り所になることが出来ていれば、アイツは――。


 ◇ ◆ ◇


 陽咲向日葵はるさきひまわり。それが母のくれた私の名前。元気にスクスク育って欲しい。母のそんな想いとは裏腹に、私は心臓に爆弾を抱えて産まれて来てしまった。


 医者から激しい運動をすることを禁じられ、毎日嫌になる程の薬を飲まされならがら過酷な闘病生活を送っていた。半年に一度は長期的な入院を強いられて、幼稚園や小学校ではロクに友人を作ることすらできなかった。中学に上がってからは容態も落ち着いて、高校に入学する頃には体育の授業にも参加できるほどに体調が安定した。


 幼き頃に憧れた女子高生という肩書を手に入れて、今までやれなかったことをやろうと決めた。苦手な勉強も頑張った。クラスのガールズトークについていけるように、ドラマや漫画、音楽なんかもありったけ頭の中に叩き込んだ。


 その甲斐もあってか、私の高校生活は長きに渡る闘病生活の事など忘れさせてしまうほどに、色鮮やかな青春という名の花々によって飾られることとなった。これが私の高校デビューの話。


 アイツと出会ったのは二年生に進級した頃だった。

 新しいクラスでも私は人気者のポジションに居座り続け、誰とでも分け隔てなく接する優等生を演じた。

 オシャレやメイクも皆に後れを取らないようにと、毎日ネットや動画を漁る日々。勉強だってどんどん難しくなっていき、寝不足のまま登校する日も増えた。


 二学期の席替えでアイツと隣同士の席になった時、その時初めてアイツの声を聞いた。


朝倉未来あさくらみらいさん、だよね? 三カ月間、よろしくね?」


 私はいつもの優等生スマイルで、隣の席の彼女に握手を求めて手を差し出した。名前も顔も知ってはいたけれど、あまり目立つタイプではなかったから、声を掛けたのもこの時が初めてだった。


 彼女は詰まらなそうな表情で私を見詰め、感情の見えない声で私に言い放つ。


「……あんた、ほんとに陽咲向日葵か? なんか、偽物が姿だけ真似てるみたいでムカつくな」


 まるで私の全てを見透かす様な彼女の言葉に、私は思わず声を詰まらせてしまった。もしかしたら、この時の私の笑顔は相当歪んでしまっていたかもしれない。


 それから三ヶ月。私とアイツは一度も言葉を交わさずに、三度目の席替えがやってきた。


 内心ホッとした。三ヶ月間、気かが気じゃなかった。無口で態度も悪く、いつも退屈そうに授業を受けているだけのアイツを、私は大袈裟なまでに警戒していたから、そんな生活ともおさらばできるんだと思ったら嬉しくて。次の席替えで隣になったクラスメイトとはこれでもかってくらい親密な関係を築くことができた。


 それから冬休みがやってきて、私は久しぶりに発作を起こして入院することになった。

 体が弱いってことは友人らも知っていて、何人かがお見舞いに花を持ってきてくれたこともあった。病室は個室だったから、面会時間ギリギリまで病室でお喋りして、ちょっとだけ味気なかったけど、退屈な冬休みではなかった。


 体調も順調に回復していき、年明け前には退院できると医者から告げられた。


 三学期が待ち遠しい。早く皆に会いたい。皆と、遊びに行きたい。

 頭の中がやりたいことで満たされる。久しぶりの入院で心細かったけど、今の私は無敵だ。だって、私にはたくさんの友達がいる。


 幼い頃の自分とは見違えるほどの成長を感じつつ、私は安静に退院の日を待った。


 しかし、退院への期待が膨らむ私を病魔は見逃してはくれなかった。

 十二月三十一日。大晦日。私は今年二度目の発作を起こしてICU(集中治療室)へと運ばれた。


 歩ける程度に回復するまで一週間は掛かり、医者からはまだ暫く退院は難しいと告げられた。この前と言っていたことが違うとも思ったけれど、この一カ月で二度も発作を起こしてしまったのだから仕方がないと自分に言い聞かせる。


 病院から出ることはできなかったが、気分転換に院内を歩き回るくらいは良いと言われていたので、気晴らしに一階の売店へ行くことにした。

 特に欲しい物があったわけじゃない。本当にただの気分転換だった。


 街中でよく見かけるチェーンのコンビニ。売ってるものは普通のコンビニと差異もなく、お弁当コーナーや雑誌コーナーを眺めつつ、店内をうろつき回る。

 何か甘い物でも買っていこうかと、デザート売り場へ足を向けた時だった。見覚えのある顔が、私の行く手を阻むように立っていた。


「……あっ」


 声を掛けるつもりなんてなかったのに、気づけば私は口を開いていた。知り合いを見かけると話し掛けてしまう、いつもの癖だ。


 彼女は、朝倉未来あさくらみらいは一度だけ此方に視線を向けてから、再びデザートコーナーに陳列された甘味へ目を戻す。あまりにも素っ気ない態度に、私の顔を忘れてしまったんじゃないかと思った。

 ただ、冷静になって考えてみれば、隣の席だった時から彼女はこうだった。無関心というか、興味がないみたいな態度。本当に何を考えているのか分からない奴だ。


「……ねえ、私のこと覚えてる?」


 無視されたみたいで嫌だったので、私はもう一度彼女に声を掛けた。返答が返ってくるまでにおよそ数秒。長い沈黙が続き、彼女はこちらへ視線を向けることなく口を開いた。


「覚えてるも何も同じクラスでしょ。私の事、鶏かなんかだと思ってる?」


 相変わらず感情のない声だ。無機質というか、機械と喋っている様な感じ。


 こいつが誰かと楽しそうに話しているところを一度も見たことがない。いつだって一人。一匹狼って言葉がここまで似合う女も早々居ない気がする。


「だったらなんで無視したの? ていうか、君はなんで病院にいるわけ?」

「会話する必要がないと思ったから。ここに居る理由は……あんたに話すことでもないよ」


 淡々と告げる彼女に、私は口を大きく開けたまま固まってしまう。


 彼女は本当に私に興味がないらしい。話し掛けられるのも嫌なのか、目線も全然こっちへ向いてくれる気配がない。

 不思議を通り越して不気味。一体どんな育ち方をしたら、彼女の様な人間になれるのだろう。


「もう、いい?」


 最後にもう一度だけ、視線を私に向けてから彼女は歩き出した。


 行くなら別に良い。彼女と話すことなんて何もない。彼女が私に興味を向けないのと同じで、私も彼女に興味なんか微塵もなくて、ないはずなのに――。

 気が付くと、私は彼女の手首を掴んで引き留めていた。


「……なに?」


 不機嫌そうな声を漏らしつつも、彼女は私の手を振り払おうとはせず、その場に足を留めた。


 自分でも何をしているのだろうと、自分の行動の意味をよく理解していなくて、戸惑いつつも彼女を引き留めた言い訳を口にする。


「その、私……入院中なんだ」

「うん。知ってる」


 それがどうした。彼女の冷たい視線がそう言っている様な気がして、背中に嫌な汗が伝う。


「……入院中で、外にも出られなくて、だから……少しだけ、私に付き合ってほしい」


 真っ白な頭で振り絞った言葉がそれだった。


 私は眼を瞑り、懇願する様に頭を下げる。我ながら何しているんだろうとは思ったけれど、考えよりも先に言葉と体が勝手に動いてしまったのだ。


 彼女は口を閉ざし、私達の間には無言の時間が流れる。


 変な奴と思われただろうか。いや、思われたに違いない。

 同じクラスとは言え、一度しか会話を交えたことのない相手にこんなことを頼まれても気持ちが悪いだけだろう。私が彼女の立場なら、何言ってんだこいつって思ったと思う。


 いっそのこと一思いに嫌だと言ってほしかった。私自身、訳が分からないまま彼女を引き留めてしまったのだ。さっさとこの気まずさから解放されて病室で休みたかった。けれども、彼女の口から返ってきた言葉は私の予想を裏切るもので――。


「はぁ、良いよ。少しだけなら。付き合ってあげても」


 気だるげな声。それでも今まで彼女の口から聞いた声とは少し違う。柔らかくて優しい声色に、私は瞑っていた瞳をゆっくりと開く。


「えっ、良いの⁉」


 聞き間違いかとも思って再度聞き返すと、彼女は明らかに嫌そうな顔をしながら「良いって言ったでしょ。日本語通じないの?」と、悪態を吐いてきた。

 絶対に断られると思っていたので驚きを隠せないまま、二人でお茶だけ買って一階の休憩スペースへ向かうことにした。


 一体どうしてこうなったのか。彼女も同じ気持ちだろうけれど、自分が一番理解できていなかった。本当、どうしてこうなったのか。


 丸いテーブルを挟んで、向かい合わせで腰掛けた私達は、暫く無言のままペットポトルのお茶に口を付けるだけの無駄な時間を過ごす。

 私から引き留めておいて、このままずっと無言ってわけにもいかない。何かを喋らなきゃと焦るけれど、何を話したらいいのかわからない。気まずくて、目も合わせることが出来ない。


 彼女もこの空気が余ほど嫌だったのか、痺れを切らしたように口を開いた。


「で、なに。何か話したいことがあったんじゃないの?」


 さっき聞いた声は私の幻聴だったのか、随分と不機嫌なその声に私は肩を震わせながら返答を迷う。

 別に彼女と話したいことなんてない。呼び止めてしまったのも、きっと暇だったからだ。彼女とはまともに会話をしたことがなかったし、これを機に少しでも仲を深められればなんて微塵も思っちゃいない。ただ、ほんの少しだけ、彼女が何を考えて学校生活を送っているのか知りたいって気持ちはあって、それを正直に伝える勇気は私にはなく、またしても沈黙に身を委ねてしまう。


「……あのさ、前から言おうと思ってたんだけど」


 不機嫌な声のまま、彼女は言う。


「あんた、学校楽しいの?」


 意外な問い掛けだった。今まで誰かに「学校楽しい?」なんて聞かれたことがなかったから、私はちょっとだけ驚いて、視線を泳がせてしまう。


「……楽しくないように、見えた?」

「いや、そうじゃない。ただ、無理してるようにも見えたから」


 無理をしている。その自覚はなんとなくあった。

 もう一人ぼっちで過ごすのは嫌だ。寂しいし、辛い時に話を聞いてくれる人が居ない生活なんて耐えられない。だから私はそうならないように努力した。

 一人ぼっちにならないように、人気者の陽咲向日葵はるさきひまわりを演じ続けた。


 誰にも気づかれていないと思っていたのに、どうやら彼女には最初から全部お見通しだったらしい。


「……どうして、気付いたの?」

「別に。なんとなくそう思っただけ」


 彼女の返答はあまりにも素っ気なく、そしてどこか寂しそうにも見えた。


「あんた、意外と嘘吐くの下手くそなんだな」


 続く彼女の言葉。今度はどこか楽し気で、私を揶揄う様な、小馬鹿にするような視線を向けて、その視線に吸い寄せられるかの様に私の目は奪われた。

 不思議な笑顔だ。笑っているはずなのに、その笑顔を見てもちっとも嬉しくならない。寧ろ、なんだかとても悲しくなってくる。心が締め付けられて息苦しい。


 そんな彼女の笑顔も瞬き一回の内に記憶の底へと消えていき、またしても詰まらなげな表情を浮かべた彼女は言葉を続けた。


「……アンタみたいに生きれたら、さぞかし退屈しなかったんだろうな」


 何かを憂うような言葉の裏に、学校で孤立する彼女の姿が浮かび上がってくる。

 目の前の彼女は普段、どんな気持ちであの場所きょうしつに居るのだろう。いつも退屈そうに小さな世界を外から眺める彼女の目には、内側の私達がどう映っているのだろう。


 私は聞いてみたかった。彼女の胸の内側にはどんな言葉が詰まっているのか。どんな想いを抱えているのか。


 もっと早く、聞いておけば良かったな――。


 結局この日も私は彼女とロクに会話することができなかった。


 ただ、聞けばアイツもずっと同じ病院に通院しているらしく、会おうと思えばいつでも会えるということを知り、私は少しだけ安心した。

 もう二度と、アイツと二人きりで話す機会なんてないと思っていたから。


 それから月日は巡り、冬から春へと季節が移り変わる。

 三学期が始まってから複数回の短期入退を繰り返し、その度に彼女と病院で遭遇する回数も増えていった。


 アイツが私と同じ病院に通院する理由を私は知らなくて、何度か本人に聞いてみたこともあったけど、答えてくれたことは一度もなかった。


「……あんたさ、体調大丈夫なの?」

「大丈夫……じゃないかもしれない」


 医者からは発作の頻度が増えているからと、三年に上がってからは長期的な入院も考えた方が良いと告げられた。おかげで心まで沈み切り、たまたま顔を合わせた彼女に愚痴を聞いてもらっている始末。


「へえ、遂に私の前じゃ嘘も吐かなくなったんだ」

「……別に最初から嘘吐いてたわけじゃないけどね。君には散々見られたくない姿を見られてしまったし、今更気にすることでもなくなっちゃった」


 苦笑を浮かべて返す私に、彼女は退屈そうな顔で「あっそ」と告げた。

 その声が少しだけ嬉しそうに感じたのは私の気のせいだろうか。


 今年に入ってから、体重が七キロも落ちた。元々細身で肉付きも悪かったけど、ぱっと見目立つほどじゃなかったと思う。

 今は骨と皮だけみたいな自分の体が少し嫌だ。クラスの子達にもこんな姿を見せたくなくて、退院しても学校を休んだり、体育の授業は見学したりしている。


「そういう君だって、最近来る頻度が増えたんじゃない。大丈夫なの?」


 さり気なく、此処へ通う理由が聞けたらいいなと、そんな狙いを込めて訪ねてみた。

 すると彼女はあからさまに嫌そうな顔をして、溜息混じりに言う。


「……私のことはどうでもいいでしょ。あんたには関係ないし、変な詮索するならここにはもう来ないよ」


 乱暴に。まるで声を吐き捨てるみたいに紡ぐ彼女に、私は舌をべっと出しながら「このケチ女―」なんて茶化す。そこまできつく言わなくても良いのに。


「あんた、学校に殆ど来なくなったから、クラスの奴らも寂しそうだったよ」

「あー……うん、まあ……そうだね」


 誰が悪いって話でもないのだが、少しだけ胸の奥が痛んだ。待針で刺されたような小さな痛み。皆の顔を思い浮かべると、焦燥感に駆られてしまうのは少なからず罪悪感を感じているからなのだろう。


「でもさ……入院も悪いもんじゃないなって、今はそう思ってるんだよ?」


 休憩スペースの丸いテーブルの上、両手を重ねて私が言う。


「ほら……君と話せるし」


 少しだけ照れくさくて、私は直ぐに視線を逸らしてしまう。

 だから、彼女の顔は見えていない。ただ、次に彼女が口を開くまでの沈黙の時間が、彼女の心を代弁してくれている様にも感じた。


「……なにそれ。詰まらない冗談だね」


 彼女もそっぽを向いて、普段と変わらない退屈そうな声で言った。


 それから二人共黙り込んでしまい、その後は一言も喋らずに彼女と別れた。


 私と彼女はこんな風に何度も顔を合わせて言葉を交わし、同じ時間を過ごしながらゆっくりと生温い月日を重ねた。


 三年の夏になる頃には私もすっかり不登校の不良生徒に成り下がり、体調も安定して長期入院を乗り越えた後でさえも、学校には殆ど顔を出さなくなっていた。


 二年の頃に仲が良かったクラスメイトや友人やらとも連絡を取り合わなくなって、今でも繋がりがあるのは病院で顔を合わせるアイツだけ。最初は嫌な奴だと思っていたアイツへの印象も今ではすっかり変り果ててしまった。


 体調が安定したとは言え、週に一度は経過観察のために通院がある。その度に休憩スペースに顔を出してしまうのは向こうも同じらしい。

 ここでアイツと会話をするのが今の私の楽しみになっていたりする。


「経過は順調って感じ? 顔色も大分良くなってきたじゃん」

「殆ど家から出てないし、激しい運動も控えてるからそりゃあね」

「クラスの人気者が一気に不登校の引き籠りか。世も末って感じ」


 丸テーブルに肘を突き、彼女は私を揶揄う様に言う。


 返す言葉も見つからず、私は苦笑を漏らして頬を掻いた。

 出会ったころの彼女と比べると、やはり違う。全体的に雰囲気が丸くなったような気がする。あの頃は話し掛けると凄く嫌そうな顔を浮かべていたけど、今はあの不機嫌面も見る機会が減ってしまった。


「それより君さ、少し痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの?」

「いや、変わってないと思う。ご飯も三食食べてるし」

「ほんとに? 顔周りとか、明らかに細くなった気がするけど」

「気のせいでしょ。ていうか、病人に心配されるのムカつくな、なんか」


 どうやら本当に気に障ってしまったらしい。そっぽを向いたまま、黙ってしまった。

 彼女だって病人であることは変わりないはずなのに。


 これは謝った方が良いのだろうか。いや、謝る様な事をしてしまったつもりはないんだけど、でも怒っているし、ごめんの一言くらいは掛けた方が良いかな。


「……えっと、ごめんね? 悪気はなかったというか、本当に何でもないなら良いんだ。ちょっと気になっただけで、本当にごめん」


 たどたどしくて、ぎこちない謝罪。彼女を怒らせてしまったことが、自分の中で大きなショックだったみたいで、言葉を選ぶ余裕もないまま当たり障りない「ごめんね」になってしまった。


 もう二度と目を合わせて話してくれないのではないか。そんなことを思いながら、彼女が口を開いてくれるのを待つ。休憩スペースは他の患者や面会者で騒がしかったはずなのに、この時間だけは凄く静かに感じられた。


 チラチラと彼女の顔を伺いつつ、落ち着かない様子で手遊びしていると、そっぽを向いたまま彼女が口を開いてくれた。


「……はぁ、もういいよ。別に、そこまで怒ってるわけでもないし」


 目を合わせてはくれなかったけど、その声の柔らかさから怒ってはいないということを察し、私は安堵の息を吐く。


 本当に全てが終わってから気付く。ここがアイツを救える最後のチャンスだったのだと。

 この時、私がもっと強引にアイツの話を聞いていれば、アイツのことを助けることが出来たかもしれない。


 まあ、今となってはそれもどうしようもない後悔の一つになってしまったけれど――。


 夏休みがやってきて、私はまた長期的な入院をすることになった。

 今度は十月までの二カ月間。長い。長すぎる。

 それでも病院ならアイツに会えるからそこまで苦にも感じない。


 きっと今日も休憩スペースにいるはずだ。診察を終えた私の足は、自分の病室ではなくアイツが待っているであろう休憩スペースへと向けられた。


「……あれ、居ない」


 一階の売店でお茶を買い、いつもの休憩スペースに顔を出す。

 私達がいつも腰掛けている丸テーブルの席には誰も座っていなかった。


 彼女だって毎日通院しているわけではないので、こういう日もあるか。

 そう思ってその日は特に気にすることもなく、自分の病室に戻った。


 その日の夜。なんとなく眠れなかった私はアイツと最後に交わした会話を思い出していた。


「アンタはさ、心臓の病気……だっけ?」

「うん、そうだよ。それがどうかした?」

「いや、死ぬのが怖いって思わないのかなって」

「あぁ、そりゃ思うよ? だって、死んじゃったらもう君には会えなくなるし、美味しい物も食べられなくなって、眠ることもできなくなって……凄く、怖い」


 幸いにも私の病気は安静にさえしていれば、すぐにでも死んでしまうほどの重い病じゃない。体が大人になればなるほど、丈夫になって普通の生活が出来るようになると医者も言っていた。

 だから、私への恐怖は感じてもそこまで大きな不安に苛まれるわけではない。


「……そっか。やっぱり、そうだよな」

「うん、そうだよ。多分、病気を持ってるとか持ってないとか関係ない。誰だって死ぬのは怖いって思ってると思う」


 きっと彼女だって死を怖がっているはずだ。私はそう思っていた。

 彼女はいつも退屈そうに世界を眺めていて、文字通り「退屈」って言葉を口にする。

 それでも何かしらの希望を持って生きていて、彼女にだって私と同じように「生きたい」と思える理由があるはずなんだ。


 私はこの時、彼女がそう思える理由の一つになりたいと思っていた。

 彼女に直接言ったら嫌がられそうだけど、私は確かにそう思ったんだ。


「……私は怖くないよ、なんて言えたら格好良かったんだろうな。でも、私はそんなに強くない。やっぱり私も死ぬのは怖い。ただ、生きる為の支えっていうか、拠り所みたいなものがなくなってしまったら、私は生きることすらも怖くなって逃げてしまうかも――なんてな」


 休憩スペースを立ち去る前に彼女が放った言葉。

 それはどこか自分を嘲笑う様な口調だった。


 いつもの冗談だと思って帰してしまったこの時の自分を、私は今でも許せない――。


 それからアイツと会えない日が続き、気付けば夏休みもあっという間に一週間が過ぎた。

 その日は雨で、病室の窓の向こうからは打ち付けるような激しい雨音が聞こえてくる。


 私も体調が優れずに、ベッドの上でスマホを弄りながら時間を潰していると、久し振りに二年の頃からの付き合いがある友人からLINEが送られてきた。


 どうせ生存確認か何かだろうと思いながらチャットを開く。

 しかし、そこに書かれていた文面は私の予想を残酷にも裏切った。


『向日葵。元気? ちょっと聞いた話なんだけど、二年の頃一緒だった朝倉が、自宅のベランダから飛び降り自殺したんだって。なんか、持病のことで悩んでたみたいで……心配になって向日葵にLINEしちゃったんだけど――』


 私の手からスマホが滑り落ちていく。まるで水の中で目を開けてるみたいに視界が揺らぎ、私の体はベッドの上から病室の床に向かって落ちる。


 痛みや衝撃を感じる余裕はない。私の頭の中は真っ白で、呼吸も上手くできない。

 意識が徐々に朦朧と溶けていく。狭まっていく視界の奥に広がる闇の中、浮かび上がってくるのはアイツが見せた憂いを孕んだ笑顔。


 ――あぁ、もう会えないのか。


 突き付けられた現実に私のキャパシティーは限界を迎え、そこで間もなくして眠りに就く。


 それから三日三晩。私はICUで眠り続けたらしく、目が覚めてからも暫くは身体を動かすことも、声を出すこともできなかった。


 ICUを出て、体を満足に動かせる程度に回復する頃には季節も秋になり、私は久しぶりに一階の休憩スペースへ足を運んだ。


 痩せ細った腕と、点滴がぶら下げられたスタンドを引きずりながら、いつもの丸テーブルの席へ腰を下ろす。


 いつもアイツが座っていた椅子を眺めていると、無性に泣きたい気持ちが込み上げてきて、私はそれをグッと堪えながらテーブルを撫ぜた。


『退屈だ』


 どこからともなく聞こえてきたその声は、私の幻聴だ。

 それでもいい。幻聴でも良いからアイツの気だるげな声を聞いていたかった。


「……この世はそんなに退屈だった?」


 私の問い掛けに答えてくれる声はない。


「私といるの、詰まらなかった?」


 私は凄く楽しかったんだ。


「私のこと、どう思ってた……?」


 私は、私は……――。


「……もっと早く、伝えておけば良かったなぁ」


 私にとっての拠り所。それは、紛れもなく君だったんだ。


(次週に続く)

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