路傍の花と地蔵

ほうがん しゅん

おせいとお地蔵さま

 いまだ冬明けきらぬある日の朝のことでございます。

 隣村へ通じる峠道の傍らに集落を見下ろす一体のお地蔵さまが祀られておられました。旅人や村人らが災難に遭わぬようと願いを込めた道祖神さまでございます。


 ここしばらく村人も旅人も誰一人とし通らぬ昼下がりでございますればつい気が緩んでしまわれたのでございましょう。風の吹かぬ陽だまりの中でお地蔵さまはウトウトし始めておられました。コクリコックリと舟をこぎ始めてしまわれたのでございます。


 異様な物音に気付かれたお地蔵様はお耳をそばだてられたのでございます。

 それが雪道を歩く音とご理解されると・・更に耳を澄ませては確かめるのでございます。溶けきらぬ雪を圧しつぶしながらザックザック・ギュギュザザックとお地蔵様の方へと近づき来る気配なのでございます。

「おや、峠を越して来るとは雪深いというのに・・」と・・そのように呟かれました。


 足音のリズムが時折ずれています。お地蔵さまは思いました。人が通らぬ冬の峠道だ、雪は深く堅い筈だ。ならば歩きにいのだろうとお思いになられました。この数日というもの峠道を行き交う者はおりませんでした。ですから、積雪はもろく締まっているのでございます。


 足音が聞こえる方角を見遣りました。雪のつもる道なき道を歩くのですから体勢を保てずよろけています。女の人でした。苦しそうに呼吸する度に息が白く漂うことなく流れ去っているのです。白濁した息が寒風に吹き流される有様が見て取れます。血の気が引き紫色の唇より吐き出された息は風に散らされているのでございます。


 お地蔵さまは女を見遣ると息をのみ込みました。それは女の周辺になにか異変が起こっている、歩き来る女の有様に不自然を感じられたのです。お地蔵さまがおられるそこには吹かぬ風が、なぜか女のところだけに風が当たる不思議な光景に首をかたげられたのでございます。


 女は凍えた両手で口元を覆うと手の内に僅かな空間を作り温かな息を吹き込みました。身体の奥底に残るわずかな温みを搾り出し、両手指を温めようと懸命なのでございましょう。ですが、か細い指々の隙間から息が漏れているのです。それでも女は諦めず幾度も幾度も何度も冷たい空気をゆっくりと吸い込み温めては指先へ息を吹き込むのです。


 しかし風は情け容赦せず温みを拭い去るのです。このままでは寒さに負けて凍え死んでしまうとお地蔵さまは思いました。それでもめげずに幾度も身体の奥底から温みを必死に指先へと移しているのでございます。その仕草に女の生命力を想わせます。

 すると女は震える手を下腹に押し当て擦り始めたのでございます。


 そうか、そうだったのか、身籠みごもっているのか。

 お地蔵さまは女の仕草をみて察したのでございます。身籠る身の上でこの寒さでは辛いだろうに・・吐く息で手指を温めるだけでも体力を消耗するだろう、辛かろうと案じられるのでございます。負けじと身をこごめる姿に哀れを誘われてやみません。下腹を温めるのは凍え死ぬな、わたしが守るのだ。という強靭きょうじんな女の執念が、年若い女のこころの中で灼熱の太陽の如く燃えているのだろうと思えてなりません。懸命に命の限界を惜しみなく絞り出す女の気力に驚き覚えられたのでございます。



 ふもとの集落は陽射ひざしを浴びて春めく景色を顕示けんじしています。だが峠道の空の下では寒風が女の体力を奪っているのですから不思議でなりません。山里の小さな集落では花咲く春だというのに女の居場所のみ、その場のみが厳冬なのでございます。


 不思議なことに女がお地蔵さまに一歩一歩と近づくにつれて風は弱まるのです。お地蔵さまの近くの太い樹を見つけると女は安堵したようでございます。陽射しを浴びている大樹の木肌は乾いておりました。それに気づくと足早に身を寄せたのでございます。乾いた暖かい木肌なら暖を得られると思ったのでございましょう。陽射しは暖かいのですから風さえ吹かなければ暖かいのです。大樹に身を寄せれば寒さから逃れることができる。されば暫しの暖を得ることができる。寒風にさえさらされなければわが胎児の命とわが命を守れると思い立ったのでしょう。必死に体力を取り戻そうとする女の姿が憐れでなりません。


 暖かい木肌に身を寄せた女の身体が温まり始めているようでございます。心身ともに温まれば血の通う口元に色気が見えてくるのですが、まだまだ遠い先の事でございましょう。

 どれほど時を経たでしょうか、暫しの暖を得た女は背筋を伸ばし眼下に見える村を眺めております。その様子にお地蔵さまは体力が回復しきれないまま女は先を急ぐのかと案じました。


 峠道に立った女はお地蔵さまの御前へと歩み行くのです。お地蔵さまは正対する女の顔を視るのですが見知らぬ顔でした。おんなは深々お辞儀をするとなんとお供え物の饅頭まんじゅうを一つ掴みとり雪を払うと懐へ仕舞い込んで立ち去ったのでございます。


 女の立ち行く先は眼下に見える集落の方角でございました。これより集落に通じる道に積もる雪はございません。村人の誰それとなくお礼参りに行き来する通り道でございますれば、人一人通れる乾いた道が開いているのでございます。そのような村道でございますので、寒風に吹き晒されても小一時間も歩けばたどり着く筈でございます。


 里へと歩き始めた女が突如立ち止まったのでございます。どうしたことでしょう。なぜに立ち止まるのかとお地蔵さまはせませんでした。身体のどこかに不調が生じたのだろうか。そのように心配されるお地蔵さまは棒立ちする女のその後姿に哀れを思うのでございます。


 やおら振り向く女はお地蔵さまを見据えたのでございます。口元を硬く引き締めお地蔵様を見詰めると戻ってまいりました。お地蔵さまのすぐ近くに立つと見据みすえるのでございます。そのまま目を逸らすことなく一歩一歩と足元を確かめてはにじり寄り始めました。地蔵さまの御前で深々とお辞儀をするのです。顔を上げた女の表情がつい先の表情ではなく一変していました。それまでの険しい眼光が消えて穏やかな眼差しへと変わっているのです。


 はて、気丈に振る舞う女には深い事情があると思われました。気張る仕草の中には緊迫する心が視えるのです。事情は分からぬも葛藤するこころを制していると感じるのです。それは寒さを堪えながら見開く眼、真一文字に引き締める唇その表情から察するのでございます。女の心に存在する事態とはいったい何なのか、女の境遇が解りません。女の風貌からおんなの哀れが滲み出ているのでございます。


 女は懐に手を突っ込むと何かを探すそぶりを始めました。これは心の内で何らかの意思を固めたのだと思えました。手を引き抜くと冷たい両手で口元を覆うようにあててゆっくり温めるのでございます。そして、手の内へ幾度も息を吹き込んで温めるを繰り返すのでございます。お地蔵さまは驚かれました。小息を吹き込めば温まるでしょうが高が知れます。それでも女は懸命に体温を搾り出し両手指を温めるのでございます。手指が温まる頃合いを見計らうとお地蔵さまに密着するほどに近づき、お地蔵さまに積もる雪を事もあろうに素手で払い除けるのでございますから驚きました。幾度いくども幾度もです。手を小息で温めては繰り返し雪を払いのけるのでございます。


 一通りやりげると除け残しがないかと確かめるのでございます。お地蔵さまはとても驚かれました。この行いを受けたお地蔵さまは偽りのないこころを感じたのでございました。 この行いは信心深い内なるこころの真の姿なのだと、お地蔵さまは驚嘆なされたのでございます。濁りない黒い瞳に清新せいしんの気を感じ取れます。

 お地蔵さまの元から二歩ほど下がると深々と頭を下げ、唇を引き締めて合掌し続けるのでございます。いわくのある女だと感じました。


 女の素性に興味を持たれたお地蔵さまは考え込まれました。これほどの奇特を行う女の、女の願いを叶えてやらんでもない。この女の行く末、先々を見守るべく道祖神として見守るべきであるとお地蔵さまはご決心為されました。

 女の息遣いが聞こえ来る間合いで両手を合わす女の風貌のどこからとなく気品が漂うのを見逃しておられませんでした。



 お地蔵さまは神の声を以って叫びました。

 風の神よ!

 何処へと去れ。

 この女の望む所へ辿り着く間だけでよいのだ。

 女のこころの温もりまで奪うことは無いだろう。

 風の神よ、お前ならこれしきのこと、いとも容易いはずだ。

 この女が望む所へ辿り着く間だけでもよいのだ。

 風の神よ、凍てつく風を止めて、この場より立ち去るのだ。

 お地蔵さまは怒りを込めて叫びました。


 お地蔵さまが発するお声は女の耳にはとどきません。おんなは尚も無心に合掌し続けるのでございます。ややして手解くとお地蔵さまを見詰めるその眼は潤んでいました。お地蔵様のお顔を確かめ瞼をつぶりました。瞼をつぶった目の淵よりひとしずくの涙が頬を伝いました。滴る涙は陽の光を受け真珠のように輝きながらお地蔵さまの足元へと落ちたのでございます。


 不思議なことに寒風が止んでいるのでございます。女を苦しめたあの寒風は止んでいるのでございます。風に煽られ舞い上がっていた細かな雪の破片は陽の光を受けきらきらと輝いて落ちているではありませんか。風の神はお地蔵さまの願いを聞き入れたのでございましょう。陽の神の威力とは実にありがたいものでございます。薄雲をも追い払い、辺り一面に青空と暖かさを甦らせたのでございます。降り注ぐ陽光は夏を思わせる暖かさで残雪を溶かしていました。雪溶け水は小さな石や草の合間を流れ始めておりました。


 気づけば水路へ流れ落ちる雪解け水はせせらぎ始めているのでございます。つい先ほどに、女が近づくにつれて途絶えていたせせらぎが、再びこれでもか、これでもかと静かな山里に清らかな春の音をもって奏で始めたのでございます。


 この有様にお地蔵さまは改めて思うことがございました。それは季の移ろいを引き止め、女のゆく先々はおろか周囲一面、厳冬の如くに支配した風の神の神力でございます。瞬時に雪を解かすほどの陽の神の神力を牛耳る恐るべき風の神の神力、底知れぬ風の神の神力を恐ろしく思うのでございました。


 女はこんもりと積もる雪の一角を掻き分けるのです。現れた雪を一つまみ口の中へと放り込みました。凍えから解放される心地よい痺れを全身で感じ始めているのでございましょう。寒さに閉塞へいそくされていたこころの緊張をも解くべく、ひとつまみの雪を頬張ほうばり渇いた喉を潤しているのでしょうか、わずかな潤いを得るとお地蔵さまの元から立ち去ったのでございます。


 去り行く女の背を視れば淡い影が立ち昇り始めているのが見えました。恐らく山道を抜け来る時、全身にまといついた粉雪が陽炎となり揺らいでいるのでございました。



 お地蔵さまは風の神をお呼びになりました。

 風の神よ。よくぞ願いを聞き入れてくれた。

 私はひとつ、借りが出来たようだ。

 いずれ、この借りは返すが風の神よ、あの女のことをひとつ知りたい。

 話しては呉れまいか。なぁ、風の神よ。

 風の神よ、私の声が、聞こえぬのか。




 ふん、地蔵よ。

 久しぶりだな。相も変わらず元気だな。

 で、あの女の何を知りたいというのだ。


 おう、いたか、風の神よ。

 風の神よ。お前さん得意のお惚け芝居を演じるつもりかい。

 そうはさせまいぞ。なんと酷いことをするのだ。

 なぜ、あの女が身ごもる腹の子を堕そうとしたのかが分からん。

 それを問うているのだ。


 ほう、まだ、老いてはいないな。

 地蔵よ。どうして、そうだと分かったのだ。


 容易いことよ。自らの息で凍える手を温めては、温めた手のひらをもって下腹を温めていた。

 お前さんが差し向けた過酷な寒さに対抗する手段を持たぬ女は、自身の腹に宿る胎児の命を守ろうと必死だった。それは、疲弊しきった肉体の奥の奥深くの小さな命の危機を案じ、自身の体温を息に託し搾り出しては手指を温めていた。わずかに温めた手指を以って温め命を守っていた。それをお前は知っていた筈だ。

 女は日に日に育つわが児の命を失いたくない。助けてくださいと私に懇願してきたのだ。私は地蔵菩薩だ。容易いことよ。なぜ、お前は女の腹に宿る児を堕そうとした。なぜ身籠る胎児までを殺そうとしたのだ。その訳が知りたい。


 その事か。それ程知りたいのならば教えんでもない。わしはあんたに一つ借りがある。その借りを返すからしっかり聴けよ。


 よいか、地蔵。

 それは、あの女が将来において甘受すべく仕合わせのためだ。女の腹に宿る児はこの世の中に生まれてはならぬ宿運なのだ。よいか地蔵。あの女は児を産み育ててはならぬ。

 それ故にわしは女の腹を狙って寒風を吹き付け堕そうとしたのだよ。私は女に感謝されたいのだ。

 なぁ、地蔵。なぜ、邪魔をしたのだ。


 あの女は必死におなかの児を守ろうとしていた。宿すおなかの児をだ。子供は生まれ出てはならぬ宿運だと、女に感謝されたいだと、理不尽なことを言うな、それでは理が通らぬぞ、風の神よ、生まれてはならぬ宿運とは何事ぞ。

 なぁ風の神よ。お前がどのような理をもって女が身ごもる児を葬ろうとした、お前が言う宿運という理がわからぬ。あの女は、必死にわが児を守ろうとしていたのだ。

 さぁ、宿運とやらを語らぬか。はよう語れ聴こうではないか。女の腹の児が、お前に何をしたというのだ。


 おい!地蔵よ。わしのやることを邪魔する気か。


 私はあの女の願いを聴き入れるのだ。叶えてやりたい。懇願する女の願いを叶えるのが私の宿命である。あの女の願いを聴き入れてやりたい。これは私の、わたしの願いでありわたしの宿命だ。なぜ、寒風を吹き付け、おなかの児を殺そうとしたのだ。さぁ、語れ。早よう語るのだよ、風の神よ。あの女の腹に宿る児が、お前に逆らったとでも言うのか。お前に何をしたというのだ。それが知りたい。



 よいか、地蔵よ。しっかり聴けよ。

 腹の児は悪魔の児だ。

 この世の中に生まれ出てはならぬ、我らが司る世に出してはならぬのだよ。

 良いか地蔵、此度は見逃した。されば近い将来人間界に災いが必ず勃発する。必ず甚大なる災いが人間界に引き起こされるのだ。この今、一旦見逃すが、今なら間に合うのだ。未熟な胎児ゆえ激痛を感じぬ今であるからこそ、痛みを感じぬ今だからこそ堕すのだよ。猶予はないのだ。それが女の腹に宿る児が背負う宿運なのだ。

 何も知らずの地蔵よ。邪魔立てするではないぞ。わしとて地蔵と同じ考えだ。受け継いだ尊い命、純真な命を絶つ、いや殺めることなどしたくはないのだ。おい地蔵よ。信じられぬ事だろうがわしはあの女の命を、女の人生を守りたいのだ。あの胎児が生まれずして死ぬことは宿運である。いまは見逃すがのちの機会にわしはやる。



 風の神は女が宿す児を闇のままに葬ることが女の仕合わせになるのだ。と言い切っているのでございます。お地蔵さまは、なぜ胎児は悪魔の申し児だと言い切るのだ。風の神の手によって抹殺される宿運だと断言するのか解せませんでした。風の神は何を根拠にそのように断罪するのだろうとお地蔵さまは考えるのでございますが、風の神の真意が読めません。ですから風の神の真意を知るべく更に問うのでございます。



 宿運だと・・馬鹿げている。その様なこと、信じるに値せぬわ。

 なぜなのだ。如何に・・、風の神であっても私は断じて許さん。

 よいか、風の神よ。女は身ごもる胎児を産み育ててこそ仕合わせを感じ思うものではないか。それゆえ冷える下腹を必死に温めていたではないか。その行為は、母性本能だけではないだろう。宿したわが児を憎む女などいやしまい。愛する男の子供を身ごもりたい、産み育てたいと願うのは当然の事だ。間もなく母となるあの女はわが児を守るべく凍てつく風に立ち向かい、自らの命を惜しむことなくわが胎児へと命を守っていたのだ。その願いを叶えてやりたい。風の神よ。なぜ、寒風を吹き付けて胎児を殺そうとしたのだ。それが知りたい。


 なぁ、地蔵よ。地蔵が知りたがるのは当然のことだ。だがなぁ、あの女の腹の児は予期せぬ非道な暴力行為の末に孕んだ子供なのだ。解かったか。地蔵よ!


 な、なんと。不慮の禍によって孕んだ・・・

 祝福されぬ子供を孕まされてしまったのか。

 お地蔵さまは絶句したのでございます。


 そうだ。地蔵。その通りなのだよ。わしが今から語る女の話を聴き終えたならば地蔵よ、お前にも判るはずだ。産ませるべきではないとな、そう思うのだよ。

 だが、ひとつ安心しろ。俺様はあの女を孕ませた男を、この俺様が既に葬ってやった。地蔵よ、安堵するが良い。


 わしは、あの男の人間としての資質。つまり、人として社会生活を営む上での基礎となる価値観、考え方を理解したく訊き質した。その結果、奴は善良なる村民の平安を乱すことに快感を覚えるという悪魔であると判断した。よって被害者の苦しみを認知させたのちに葬ったのだ。残るは悪魔の血を受け継ぐあの女の腹に宿る命を絶つだけだ。


 男の真情を知るため男の、奴の家で、わしは男の親しい人間に化身し奴の心根を探るべく言及し本音を訊き出していた。

 それを基に検証すべく幾日かのちの日に吹雪をもって奴の退路を塞ぎ、奴を険しい山道へと追い込み、逃げ場をも閉ざし、崖の淵へ立たせ奴の本性、真なる心根を知るべく諭すように語りかけた。

 勿論、男が語る弁明に同情すべき事実があれば許してやろう。この場から開放してやろうと心した上で再度訊き質したのだ。


 ところが奴はことの重大さを察してかとぼけるのだよ。数日前にわしが奴の友人に化身して奴の家で訊きただしたときには饒舌に己の犯行を自慢げに誇っていた。だが、わしの正体を知るとすべて覆したのだ。返答のいかんによっては己の身に危機がくると悟ったのだろう。


 だから現実の恐怖を恐れてか作為ある弁明を続けた。真摯に答えようとはせず自己弁護のみだった。己の保身を願う命乞いだけだった。事の責任の所在は吾に無いと叫びその根拠を示すと語った。


 自分は子供のころから村人から疎外されていたのであるから責任は社会にあるのだと言い張る。村人から虐められていたと言い張った。この言い訳に対してもわしは当然裏付けをとっていた。言い訳はすべて虚言だった。



 奴の名は権太だ。権太の父親は漁師で名は卓三郎といい女房の名は智沙という。卓三郎は漁師仲間内では一目置かれた存在だった。卓三郎と智沙とは同い年で授かった子供は男と女の二人だ。

 男の子の名は言うまでもないあの男、権太だ。

 権太の両親は権太を身籠ってから所帯を持ったと言う話だ。所帯を構えるに至った事情がこれなのだ。互いに好き合っての結果ではなく異性に対する好奇心からの妊娠だった。であるから妊娠は当人同士にしてみれば不遇という事になる。


 母親の智沙は美人で浮気っぽい女であったという証言を得た。ただ所帯を持つまでは極々普通の女だったと言うが、権太が乳離れしたころから浮気心が激しくなったようだ。智沙はそのような資質があったのだろう。性行為を重ねる度に性の魔力の虜になってしまう、よく聞く話だ。


 卓三郎は不漁が続くと酒を飲んでは暴れる、時には身近にいる女に対して手を出すという酒癖の悪い男で嫌われ者だが、漁師としての腕前は彼の右に出る者はいなかった。女の子の名は伏せておく、素直でいい娘だが父親が違う。

 卓三郎が漁に出ている間に行きずりの男との間に設けた子なのだ。卓三郎はこの事実を知らない。卓三郎は現在でも自分の娘だと思っているようだ。まぁ、この夫婦、食うには困らないという家庭だった。


 細かなことは差し置き話を戻すと、権太は嫁入り前の数十名の女性を独りよがりな欲望を以って強姦し、そのうち数名の娘に妊娠させていた。言語道断まったくもって酷い話だ。娘たちの生涯を奪ったことさえ自覚せぬでは先が思いやられる。


 地蔵よ、性欲に血走るこの男の心理を解るか。

 この男、権太の性欲の強さとは、数日もの間、飲まず食わずの空腹に耐える男の目前に好物の食物があるに似ているのだよ。

 世の多くの男の性欲も権太と同様にあるのは確かだ。だが、理性を以って社会の秩序を守る。だがこの男は社会の秩序を無碍むげに乱すのであるから、もはや矯正など不可能と判断するに至った。


 これ以上の被害者を出さぬ為にこの今、自身が死に直面する恐怖を味わってもらわねばならない、とわしは迫った。すると権太は責任転嫁に明け暮れた。大ウソの連続で身構える権太にわしはあきれはてた。


 己の享楽を得るために村民の命を奪い、女の幸せを奪い取る権太に鉄槌を振り下ろさねばならないと断罪し決行を視野に入れて臨むことにした。社会の平安にそむく行為をわたしは許せない。わしは容赦などしない。あの男だけはなんとしてでも許せないのだ。己が犯した罪がどれ程の罪になるかを自覚させねばならない。


 奴はこの場においても自分がなぜ命を絶たれるのか解らぬと言う。だが、奴の犯歴を視れば喧嘩、強姦、妊娠、殺人という犯歴を重ねている。かつて犯した非道極悪振りを悔いることもなく、謝罪の一言も発せず、己の命は失いたくないと命乞いをする男にあきれ果てた。尋常な諭し方では通用しない男であるからわしはこの上のない恐怖を以って、おのれの欲のみを貫いた自らの過ちを知らしめた後に断罪せざるを得ないと決意した。


 犯行のひとつひとつを検証しつつ諭した。これに費やした時間はかなりの日数を要した。これにより春の到来が遅延してしまった。村民に多大な迷惑をかけてしまった。申し訳ないと思う。


 諭し知らしめた甲斐あって己が犯した罪を次第に理解し始めた男はひれ伏すと泣き始めた。時を経て平常心に戻った。制裁を下すべく時を知らせた。すると観念していたのだろう自ら崖淵へ歩み行き谷底へ飛び込んだ。



 遺骸は吹雪に吹かれ埋もれた。時を経た今、奴の肉体に宿る魂はこの世から消えた。しかもだ、誰も奴の死を知った所で悲しむ者は誰もいないのだ。むしろ奴の死を知って安堵する者が多いだろう。


 わたしはついさきほど奴の遺骸の上に更に雪を積らせてきたのだからな。そこは誰の目にも留まらぬ山深い谷底だ。夏の終わる頃にあの崖は嵐に襲われるだろう。されば崖から崩れ落ちる土砂に遺骸は土に埋もれる。すると土中の虫らが奴の骨の髄までをも喰い尽す事だろう。安心するがよい、奴がこの世に存在したという多くの痕跡は時を経てすべて消えるのだ。社会の秩序を乱す奴はこの世から消え去る運命にあった。


 だがなぁ。地蔵よ。地蔵に願われて奴の血を受け継ぐ子を見逃した今、わたしの心の中に悔いが残るのだよ。


 奴の手の依って愛する人や家族を失った人々の心情を思うと残念でならない。極悪非道な事件は後世まで語り継がれるが、いずれ消え去る。時の過ぎ去ると共に村人らが記憶する忌まわしい記憶は薄れるだろう。だが、あの女だけは自身の命が続く限り脳裏に潜在し続けるのだよ。それは事あるごとにトラウマと化して襲いくるだろう。壮絶な禍とは決して忘れ去ることは出来ぬものよ。忘れようと藻掻くほど悪夢が鮮明に甦ってくるから始末が悪いのだ。


 幸運なことにあの娘は賢い女だ。おそらく事件のすべてを封印し墓場に抱えてゆく覚悟だろう。それを察すると、とてもつらい。だが、わしは違う。地蔵の願いを聞き入れた事実は変わらないのだ。意に反して見逃した事実にわしの腹に悔いが残るのだ。悪魔の血を受け継ぐ子供の将来を考えると子供が不憫だ。子供本人にはなんら罪はない。だがなぁ・・いずれ村民に知れ渡ってしまう。子供は悪魔の子と名指しされてしまう。わたしは・・そのことがつらい。


 あの娘は気立ての優しい女だ、ゆえに正義感の強い子に育て上げようと努力すると私は思う。その様に確信するが、だが、子供を育てる長い年月の、日々の隙間に、この子が愛する男の子供であったらどれほど仕合わせかと、母となる娘の脳裏によぎる切ない憐れを懸念するのだよ。余計なお世話かもしれんがなぁ。だが、それが、私の懸念するところなのだよ。


 おい、地蔵よ、わしが懸念する意図するところが解るか。この一連を理解できるのかと訊いておるのだ。なぜ女の腹に宿る胎児の父親を葬ったのか、その子供までを葬り女の人生を守ろうとしたのか、その訳を知りたいのか。地蔵よ。


 その通りだ、風の神よ。その訳とやらを私は知りたい。



 あれは昨年の秋だった。秋祭りの夜におせいが襲われたのだ。おせいは十七歳だ。おせいの幼馴染の喜一郎。喜一郎はおせいを妻にと望んでいた。おせいも喜一郎に心を寄せていた。だが複雑な想いがあった。その複雑な想いとはわしの話を聞くうちに解るだろう。


 喜一郎はおせいより三つ年上の男で真面目で実直な男だ。貧乏な村の村長の三男坊だ。幼い頃から好奇心旺盛で物事を限りなく探求しては究明してしまう男だった。それでいて気張らず決して人を陥れることはしない。

 正義感は人並み以上あった。が、いわゆるお人好しな一面も垣間見せていた。また、村民同士が語り合う場で論争を仕掛けてくるならばとことん論争の相手をする。が、その論争も相手が気付かぬまに彼は得意とする三段論法を巧みに用いて論破し納得させてしまう。よって喜一郎に立ち向かえる者はあの村には誰一人としていない。


 喜一郎とは若くしてそれ程の力量を発揮する男だった。本来ならば長男がいずれ親の跡目を継いで村長の役職をと言うのが慣わしだが、慣わしを破棄すべく価値があると父である村長は喜一郎に一目置いていた。


 おせいを愛しく想う喜一郎は村中の誰もが期待する男だったのだ。


 期待された男だった?


 そう・・集落の長として期待された男だった。

 その喜一郎におせいの父親がなぜわが娘に心を寄せるのか問うた事があった。喜一郎は答えた。わたしはおせいの心根にこころを打たれているのです。と源蔵に答えていた。


 喜一郎は将来必ず村長になる男だ。いや、個なる村の村長以上の能力を発揮し、必ず近隣の村長をも統括するべき力量を持つ男だ。わが娘とは身分に素養にも差が有り過ぎると考えていた。故に娘にそれとなく大それた事を考えるではないぞ。と言い聴かせていた。それゆえ、おせいは葛藤しつつ親の目を盗んで喜一郎との逢瀬を重ねていた。


 おせいの父親は源蔵という男で炭焼き仕事を生業としている。源蔵の女房はお里と言い、歳遅くに授かった娘がおせいだ。源蔵一家は山裾に程近い所で親子三人が暮らしていた。


 源蔵の父、源左衛門は木炭に精通していた。源蔵は幼いころ源左衛門に炭つくりを教わりながら精魂込めて働いた。突然だった。源左衛門が病に倒れるとあっけなく逝ってしまった。源蔵は残された母のうたと母子二人して身を粉にして働いた。源蔵は家業の炭焼きを継ぐとクヌギの植樹に力を入れた。クヌギは成長が早い、生育したクヌギを伐採すると十分な日当たりが確保でき、それに増して切り株から新芽が再生し、十年ほどで復活する。それに昆虫が樹液を求めて集まるから土壌が豊かになると考えたからだった。それにクヌギは木炭だけではなく薪としても商売になる、そう踏んでクヌギを選択したのが二十歳の時だった。


 うたは気立てのよい女だった。月に一度、お寺様での念仏講を楽しみにしていた。村の女たちが野良仕事を終えた後に集う念仏講を欠かしたことがなく、隣村で葬儀でもあれば乞われて出向くほど頼りにされていた。普段は寺に集まり小半時の念仏を唱え、その後、女同士の雑談に盛り上がる。これが唯一の楽しみだったようだ。


 突然のアクシデントがうたを襲った。念仏講を終えて帰り際、石段で足を踏み外してしまったのだ。数段残したところで忘れ物があると呼び止められ振り向くと同時に足を踏み外し腰や肩を打ってしまった。その時介抱してくれたのが源蔵の妻となるお里の祖母だった。この縁が源蔵とお里との馴れ初めの始まりだった。


 所帯を同じくした源蔵と女房のお里との歳の差は一回りほど離れているが、村人の誰もが羨むほどに仲睦ましく暮らしていた。

 ところが、夫婦の間にどう言う訳か子供が授からなかった。大概の夫婦は所帯を持って、そう、二三年も経てばごく自然に子宝に恵まれるものだと夫婦して思っていた。だから、その内に授かるはずと、それほど気に留めていなかった。が五年六年と時は流れるも一向にその気配がない。お里は焦り出していた。


 源蔵とお里はどうぞ私たちに子宝をお授けくださいますようにと神仏にすがり祈り願っていた。子授け地蔵がどこそこの村にあると聞けば、それこそ夫婦二人して勇み足で願かけに行った。しかし、どれほど神にすがろうとも、願を掛けても授からない。夫婦にしてみればこれほど辛いことはない。特に女房のお里にしてみれば深刻だった。


 自分の身体にもしや、子宝に恵まれぬ原因があるのではと、自分自身を精神的に追い込んだこともあった。

 そんなある晩のことだった。夫婦はひとつ床の中で睦言むつごとを交わしていた。源蔵に抱かれるこの夜のお里は饒舌だった。時の流れるも忘れるほど四方山話に夢中になっていた。幼い頃、母が陽の当たる縁側で針仕事をしているのを眺めていたときの思い出話に及んだ。


 母親が裁縫の道具箱を取り出し、ほころびた着物を針と糸をもって縫い繕う母の姿に驚嘆したと話し始めた。

 くけ棒を座布団の下に挟むことで安定させ、布地のたるみを取りながら見る見るうちに仕上げてゆくのを見て驚嘆したという。針仕事それは魔法のようだったと語り続ける。


 わたしね・・おっ母さんから端切れ布を貰い針の使い方を教えて貰った。布の持ち方や針の運び方を教えてもらった。でも、不慣れだから布地に通す針が、針先が指に突き刺ささり痛かった。

 布地の持ち方、布地の端を揃えてずれない様に縫うのだと教えられても巧くできなかった。難しかった。けれどやればやるほどに楽しかった。そんな時、同い年のお八重ちゃんが息を切らし飛び込んできたと続ける。


 着飾ったきれいな女の人がいるという。とてもきれいな女の人だから一緒に観に行こうと誘ってきたのだった。駆け出すお八重ちゃんの後を追って私も走った。息の切れるほど走った。きれいな女の人が何処かへ行ってしまわないうちに追いつこうと、息が切れるほどに走ったという。


 それはそれはきれいなお嫁さんだったわ。白無垢の衣裳が眩しかった。私たちお嫁さんと並んで歩いた。お馬さん、頭を下げて眠りながら歩いているように見えたのよ。馬の背に腰掛けているお嫁さんは両手をひざにおいてうつむいていたわ。でもね・・わたしと・・目が合ったのよ。ニッコリしてくれてわたし・・恥ずかしかった。わたし、胸のところに両手を当てて、ぽかんと見惚れてしまったの・・ほんとうにきれいだったわ。


 相槌もどこそこに源蔵は虚ろ気だった。源蔵は今朝方から大忙しだったのだ。焼き上げた炭を大八車に山積みし里の母屋まで幾度も往復していたのだった。一仕事終えた区切りを癒す晩酌に心地よい眠気に襲われ、生半可な相槌を返していたが強い睡魔に寝入ってしまった。お里は源蔵の大きなイビキを耳にすると仕方なく話をあきらめ、夫の腕枕に入りこむと眠りについた。お里の手は源蔵の胸の上に置かれていた。


 真夜中に目覚めた源蔵、隣で寝入っているはずのお里がいないことに気づいた。便所にでも行っているのかと気にも留めなかった。だが、しばらくしてもどれ程待ってもお里は戻ってこない。不審に思う源蔵は今一度手を伸ばし確かめた。お里が横になっていた所に手を伸ばすとまだ暖かい。床を出て間もないと思った。

 まぁ、そのうちに戻ってくるだろうと高をくくった。だが、いつまで経ってもお里が戻ってこないのだ。もしやと過る漠然とした不安が襲った。


 背中にゾクッとする気配を感じる源蔵は見る見る内に血の気を失う。飛び起きる源蔵は明かりを灯し便所へと追って見た。が、いない。ここに居ないのであれば、お里はいったい何処にいるのだと源蔵は気が気でなかった。源蔵のこころはは暗闇の中で一寸先も見通せぬ迷路を彷徨いだしていた。


 昨晩、寝床の中であれほど饒舌だったお里がいない。真夜中だというのにいったいどこへ行ってしまったのだと気を揉んだ。居間を覗いて見た・・いない。家中探して見たがどこにも居ないのだ。源蔵の心によぎる一抹の不安。それは、もしやと思うあの不吉な予感だった。


 夫婦の間に児が授からぬことを悩んでいることは知っていた。だからと言って源蔵に断りも無く実家へと帰るなどとは思えない。それほど軽薄なお里ではない。第一、夜の夜中である。その様なことは有り得ない。とすればいったいどこに居るのか。もしや、思い余って井戸に飛び込んだのか。


 その様な大それたことなどありえない。暗闇みに阻まれ後にも先にも動けぬジレンマに陥った源蔵である。落ち着け、落ち着けと幾度も呟いた。しかし進むべく先は見えなかった。不安におののく中、頬にひんやりそよぎ来る風を感じた。まさか、まさかと立ちすくむ源蔵は大戸を視た。


 なんと大戸が半開いているではないか。とっさに源蔵は裸足のまま飛び出していた。前庭に出ると東の方角から水の音がした。驚いた源蔵は思わず立ちすくんでしまった。目に飛び込んだ光景に源蔵は震えだした。


 片膝つくお里が井戸端でしゃがみ込み桶の水を肩に打ち付け、願掛けをしているではないか。お里の全身はずぶ濡れだ。源蔵はどうしたものかと考えた。

 思い当たる事と言えばあれだけだ。二人して子供の授からぬことで思い悩むことはあった。お里が自責の念を訴えることもあった。この様な時こそ互いに責め合うことをせず将来を見通すのだと励まし合った。いつだったか言葉を詰まらせて語ったお里の一言を源蔵は忘れてはいない。


 それは、姑が生前それとなく話してくれた一言だった。その一言に慰められたとお里が語っていたことである。姑は子供を授からない寂しさを常々追い求めてはいけない。寂しさを紛らわす如くに毎夜毎晩子供を欲しがっていたのでは、神さまは子宝を預けてはくれないものだよ。それは、お前さんは夫婦に子供がいて当然だという世間体を繕う夫婦の形だけを求めているからだ。世間に対しての体裁を重んじる夫婦に子供を授けられぬ、と神様が考えておられるからだ。


 世間さまは事に触れ跡継ぎを早くもうけないかとよく言うが、家督を継ぐことにどれほどの意義があるのだろうか。私らのいう跡継ぎを世の生き物らは自然体で紡いでいるではないか。人さまのように夫婦として沽券がどうのこうのとかはない。世の小さな生き物でさえおのれの命を懸けて生きている。それが生き物の本来の姿だと思うのだよ。夫婦して仲よう暮らすのがええよ。それはお里が二十六歳になる少し前にねぎらう様に諭してくれた姑の一言だった。


 「お前さんと源蔵のあいだに神さまが子供を授けてくださらないのは、神さまは故意に忘れておられるのだと思うよ。夫婦仲が良いものだからね。いま少しの間、二人だけの夫婦を楽しみなさいというご配慮だよ。」源蔵の母のこの一言がお里の悩むこころを解放させた。


 おせいを授かったのは姑が亡くなってから三年後だった。それはお里が源蔵の元へ嫁いだ後の十年後だった。諦めかけていた頃に授かったものだから、それだけに源蔵とお里はおせいを可愛がっていた。が、決して溺愛することは無かった。源蔵の躾は厳しかった。


 おせいが過ちに自ら気づき謝ってきたときなど源蔵は娘の頭をなでながら、そうか、やってしまったか、もう二度と人様に迷惑をかけてはならぬと言い聞かせるだけで済ましていた。が、人様の思惑を乱す些細ないたずらでも反省無ければ看過せず叱る。周囲の者は年端もゆかぬ子供ならこそ知らずしてやってしまった事だ、高々子供の悪戯ではないか。なぜに怒るのかと村の衆に質されると源蔵の答えは常に一貫していた。


 自分は怒ってなどいない、叱っているのだ。子供ならこそ色々なことに好奇心を抱き、興味を持つのは当然なことだと思う。好奇心なくて人としての成長はありえない。好奇心の旺盛な子供は将来の宝であるから、親は元より村民の皆で育てなければならないと考えている。


 しかし娘は世の習いを知らぬ。幼い子供が大人に混ざるとき、子供だからと言って好き勝手な振る舞いは大人にとって迷惑千万となる。娘は人の世の中では経験の浅い子供だ。故に社会の中で、今どうあるべきかと云う立場を知らぬ。幼い娘が世の習い事を知らぬとは当然のことだ、だから教える!。教えられて娘は学ぶのだ。


 世の道理を教えるという事は躾であるから、年端の行かぬ子供だと言って、娘の欲するままに我侭気ままを看過したとしたならば、娘の将来に必ず弊害が生じる。

 人が集まり、村人に混ざり大人を見習って成長するには、己が生きて行く為には・・世間には必然の約束事があることを幼い子供のうちに学んでおかねばならない。


 世間さまとは事ある毎にあれやこれやと言いふらす恐ろしい生き物だ。であるから子供の悪ふざけとして看過してはならぬ。他愛の無い悪戯だと言い換えてこの今、父親である私が許諾したとしたならば、些細な悪戯として看過したならば子供は限りなく暴走するだろう。だから他人様の心を乱す行為をしたこの今こそ叱り諭しておきたい。この今、娘の将来の為に心の在り処を正してやらねばならない。


 時を置いて叱ると言うことは他人様の目の届かぬ所で親の面子を娘にぶつけているだけだ。これでは躾ではなく親の私が世間知らずであると子供に諭す行為他ならない。後の後に娘は思うだろう。私の父は愚かな父だと・・・そう思うに違いない。悪さをした瞬間に威厳を以って教えるのだ。怒るではない、諭すことを猶予してはならぬと思っているのだよ。人のこころは芽吹く木の枝に似て、心が柔軟で幼いこの今だからこそ、諭し矯正してやることが後の本人の為になる。と答えていた。


 源蔵は叱った蔭で誰の目にも留まらぬように、おせいに気付かれぬように身体を震わせ涙ぐんでいたのだ。源蔵とておせいのこころ中に優しい一面があることを見抜ききっていた。他人様をいたわる女房の資質を受け継いでいると理解している。それだけにしかり方に間違いはないか、このしかり方で良いのだろうかと迷うのであった。


 人様の前で娘をしかる行為は、他人が見れば言葉での虐待と問われる。その様に感じとられるのは、私が不器用だからだろう。そう思う。だが、今、高揚することなく諭しつつ叱る、柔軟なこの今だからこそ女としての心根を構築するのだと源蔵は思っていた。


 源蔵は娘の感受性を壊さぬように感性を育てたいと思っていた。更に、例え自分には役立たぬものでも対する相手には命よりも大切な宝物であることを知ることだと。それが相手にとって尊いものであると認めることだと教えたい。物の好みや価値観とは人それぞれ異なるものだ。躾は物心が付いてしまったならば遅いのである。本能で行動する幼いこの今だからこそ躾ねばならない。


 時期遅くまで叱ることは親のエゴイズムだ。それは親の立場を傘にして怒りをぶつけられたと子は思い込む。しかり方を間違えたならば意図せずとも言葉の虐待になってしまう。それがトラウマとなり娘のこころは歪んでしまうだろう。それだけは必ず避けなければならない。おせいが三歳か四歳になったとき見極めなければならないのだ。反抗期になるまえに終わらすのだ。叱り方を誤ってはならぬ。良い事をした其の時こそ、褒め称えなければならない。娘の平素の立ち振る舞いをほめずに見過ごしてはならないのだ。もし、おせいが褒められる事を行った時、私が褒めずにいたならば私はおせいに謝らねばならない。そのときの私は愚か者だ。娘を躾ける資格など私にはない。他人様のこころを察する心が芽生えさえすれば、物の価値を知る大事が娘の心に宿せば、その瞬間から叱る必要はないのだと源蔵は考えている。源蔵はその頃合いの難しさに葛藤する源蔵である。


 源蔵とて辛いのである。無邪気に振舞う娘を叱りつつ娘のこころが曲がらぬように、歪まぬ様にと源蔵は必死に気遣っていたのだった。それは慈愛をもって叱ることの難しさを省みる為に、自らへ足枷を科して源蔵は好きな酒を絶っていた。好きな酒を絶ちおせいを諭す源蔵の真情を女房のお里は察していた。



 女房のお里は心配だった。如何に源蔵が諭すように叱っていてもおせいはこっぴどく怒られているのだと恐怖を思うことだろうと。お里の目に映る源蔵のしかり方は実に不器用だと感じていた。夫がしくじれば子供のこころは傷つき、悔しさは限りなく心の奥底に根付き父を憎むだろう。子供が成長して青年になっても、恐怖心は生涯において消え去らない。だから今なぜ、なぜ怒られているのかではなく、なぜ叱られているのかと感じる心を育てなければならない。夫が諭す言葉の意味を理解できぬままではこころが折れてしまう。それだけは避けたいと源蔵の目の届かぬ所でお里は娘を庇っていたのである。


 叱られたとき、おせいはこころの内から湧き出る悔しさを泣く事で発散するしかなかった。大声で泣き叫べばこの悔しさをこころの中から追い出せると思っていた。なぜ、自分は怒られるのだろうか。考えても考え抜いても解らなかった。良かれと思うことが父には気に入らないのであれば鬱憤うっぷんがたまる。そう思うおせいは感情の全てを吐き出そうと全身を律動させ、高ぶるこころを発散すべく嗚咽おえつとともに泣くのである。


 娘が泣きじゃくる姿に娘の哀れを思うお里であった。しかし、おせいは泣き喚く事で源蔵に対抗するしか無いのだとお里は察している。娘にしてみればわが意図を否定されたのだ。子供心にも立つ瀬がなく孤独を思うから悔しがるのだと・・・

 お里はおせいを応援していた。他人の目を気にせず、お里は娘と共に人目を気にせず娘を抱締めて涙を流すのだった。お里は泣き喚くおせいの背後に回り、おせいを愛しげく抱きしめた。抱締める腕に力を込めれば互いのこころが共有できる。そう思うお里はおせいの身体にわが身の全てを密着させた。


 それは、苦しむのはお前だけではないのだ、お前の悔しさを母である私もお前と共に味わうぞ、とばかりにおせいを抱きしめる。お里の高鳴る胸の鼓動を、わが体温をおせいに移し共鳴させているのだ。お里はおせいと共に泣く。母が娘を思う嗚咽は確実におせいのこころの奧へと浸透していた。


 おせいは奥底から噴き出る感情を抑え切れず、時折甲高い悲鳴を上げた。誰にはばかることなく悲鳴を上げては大胆にのけ反った。その反動は幼い子供のそれでなく強力な反動であった。

 おせいの風貌は源蔵に似て負けず嫌いを想わす顔立ちである。おせいは全身の筋力を以ってのけぞることで母親に訴えるのだった。そのさまは間欠泉の如く噴き出していた。


 おせいは背中に母の体温が伝わり来る心地にふと気付く。母の温みを感じると自分は孤独ではなく、われ一人ではなく、この悲しみを共有してくれる味方がいるのだとおせいは思い始める。このわたしに味方する母がいる。自分を応援する味方を得たことを知ると、涙に濡れそぼつ頬を母の胸へと強く押し付ける。すると母の鼓動がおせいのこころの奥深くへと移り始めた。母の鼓動は優しい温もりを伴う鼓動だった。おせいは泣きながら母の胸にしがみ付いた。やがて、苦しむのは自分だけではないと確信した。私には悔しさを分かち合える母がいるのだ。そうと知ると安堵の感がおせいのこころに芽生えて来た。父親に怒られても母の胸の中へと逃避できる。自分を守ってくれる母がいるのだ、とおせいは確信したのだ。おせいのこころの内に母親と共生しているというこころが育んでいた。


 お里はおせいを引き寄せ抱きしめた。母のひと言ひと言に閉ざした心の門を開くおせいは嗚咽を交えて幾度も頷く。次第におせいは父に怒られたのではなく叱られたのだと思うようになっていた。なぜ私は叱られたのか。その訳を母が諭すように語る意味を少しずつ理解していたのである。


 母を見詰める濁り無い瞳を潤ませては母を見詰める。お里はおせいの目尻からにじみだす涙の粒を指先で拭ってやった。母であるお里も瞳を潤ませる。そして娘と共に自らも嗚咽交じりに優しさを込め心は同じだと伝える。母が優しくいさめてくれる言葉の響きが嬉しかった。母のこころが自分のこころと共鳴しあえる術があると知った今、母の存在をありがたく思った。


 ゆったり語る母の言葉の響きが心地好い。お里の話し方は解りやすい言葉使いにあった。それは冷静かつ穏やかに整然と話来る母の言葉、語調に触れるにつけ、他人のこころを察するという心構えを育んだ。その証拠におせいが五つか六つの歳頃になると源蔵は決して叱ることはせず、注意を促すだけになっていたのである。


 おせいの心根が曲がらずに育ったと源蔵は思い始めた。笑みを絶やさぬ娘に源蔵は叱り方に間違えはなかったと思うも、これはお里が源蔵以上に娘を愛し、慈愛に満ちるこころを以って接した賜物だとありがたく思う源蔵だった。お里が慈愛を大事とする愛を育てたからこそ成し得たのだ。と妻に絶大な感謝の念を持っていた。


 そのおせいに予期せぬ災いが襲ったのだ。おせいが十七になって間もないときだった。その日は滅多にお目にかかれぬ秋晴の日だった。おせいは庭に実った柿の実を父親に食べてもらおうと源蔵の仕事場である炭焼き小屋へと向かった。炭焼き小屋は裏山の中腹にあった。父が伐採する木炭の原木を集めるのは大仕事だ。おせいは源蔵が仕事に精を出すその姿を思い浮かべていた。炭を焼く温度を管理する事は大変なことだ。一旦火入した窯から一時も目を離すことはできない。父の仕事は難儀な仕事だと思っている。


 おせいは疲れを癒すには甘いものがよいと甘柿を持って向かった。その日は風もなく暖かだった。微かに匂う土のにおい、爽やかな空気を満喫しつつ喜一郎のことを想い浮かべては山小屋へと向かっていた。通いなれた山道を歩くこと小一時間ほどで源蔵のもとへ辿り着いた。源蔵の姿が目に入ると叫んだ。


 おっとう。疲れたろう。いいあんばいに進んでいるかい。

 おせいか。あぁ、いい按配に進んでいるワイ。

 おっとう。熟れた柿を持ってきただよ。

 幼い頃から通い馴れているとは言え山道である。人の賑わう街中とは違うのだ。山道には危険が多いと気遣う源蔵である。


 ここに来るには難儀だったなぁ。ありがとう。熊とは出遇わなかったか。

 うぅん! 出遇わなかったよ。疲れているときは、甘い柿が一番だって、おっ母さんがいつも言っているデ、おっとうに食べてもらおうと持って来たよ。


 窯へくべた薪が時折飛び跳ねる音が快く響く。雑木林の中に住み着く山鳥の鳴く声が心を休めてくれた。山肌を沿う秋の風は山で働く者の身体を冷やす。源蔵はおせいに窯に近づくようにと手招いた。釜の傍は暖かいのである。おっとう。山鳥が鳴いているね。心地よい鳴き声だねぇ、と父のこころを癒そうと気遣った。

「山鳥の啼き声樹木の合間より求め呼び合い命を繋ぐ」


 おせい。

 なぁに、おっとう。

 その短歌・・何方が詠った短歌だ。

 わたしが・・詠んだの。わたしが・・ここで感じたことを今、詠んだの・・


 源蔵は驚いた。おせいが短歌を、いつの間にか女心を詠うようになっていた。ひょっとすると気になる男が出来たのだろうかと源蔵は思った。


 なぁ、おせい・・

 するとおせいは山鳥の鳴く方角を見遣りながら言う。

 もうじき 夕方になるわ。

 数日前の夕方に詠んだのがあるという。

「陽の落つる秋の山々染めしときわが頬染めるこころの在り処」


 僅か十七になったばかりのわが娘が恋を馳せる短歌を詠う。源蔵は驚いた。こんな山の中の集落で短歌に親しみ、教えられる者といえば村長の家の者かその縁者ぐらいだろうと源蔵は思った。たとえおせいが通り一遍短歌に触れたところでさまになるようにはなるまい。源蔵が訊く。


 おせい。いつから短歌を習い始めた。

 三年ぐらい前から、喜一郎さんに習っていると答えた。

 そうか、村長さんとこの息子か・・よかったな。おせい。

 母さんもやっているようだが短歌は、わしはやらない。短歌はこころと感性を磨くと聞いている。その感性を表現するには世の中を知り、沢山の言葉を知り、語彙を文体に馴染ませてこころを伝えるのだ。文字を音読すると音となって相手に伝わる。詠み人は音の響きから感情、情景を、心の丈をどのように察するかと考える。だから短歌を詠むとき、そこまで知り尽くさねばならない。


 感受性の豊かなおせいなら良い短歌を詠えるようになるだろう。源蔵は呟きながら言うのだった。更に言う。だがなぁ、おせい、妄想は果てなく膨らみ事実を現実から逸脱させてしまう。だがおせい、こころを詠う瞑想ならば真理を突き詰めて成しえるが、喜一郎さんとのご縁は短歌だけにしておけと続けた。


 短歌だけにしておけという源蔵の心を読むことは出来なかった。なぜ父は短歌だけにしておけというのか、理解できなかった。

 おせいのこころの内は既に喜一郎を想うあまり一杯になっているのである。いかに源蔵が二人の仲を裂こうとするも最早忘れることは出来ぬ存在になっているのである。


 日暮れないうちに、わたし、帰る。

 そうか、気をつけて帰るのだぞ。落ち葉が湿っていると滑るからな。

 うん、おっとう。わかった。気をつけて帰る。

 おせい。柿を、ありがとう。



 秋の気配を促す山々の樹木は色づいていた。紅葉した木々に陽の光が当たる葉の裏越しから空を見上げると映えて観えた。近くでは気づかぬも遠くに眺める秋の色彩はあでやかだ。谷間より吹き上げくる秋風に野の鳥の囀る光景は実にのどかであった。

 おせいは柿を食べる父を思い出すと自然にほくそ笑んでいだ。父との語らいに仕合わせを思いつつ山道を下った。


 父の頭髪は白髪が混ざり無精ひげにも白いものが混ざっていた。源蔵はおせいと目が合うとにんまりし柿を美味そうに食べてくれた。実に美味そうに食べる源蔵の顔にくすんだ皺が目立ち始めていた。その源蔵を想いうかべつつ短歌を詠み始めていた。

「窯の火を鋭く見やるわが父の灰をかいだすその背は曲がり」


 おせいの父、源蔵は既に還暦を越えていたのである。永い年月を炭焼く窯の前で背を丸め働き尽くめだった。山の寒い日にも真夏の暑い日にも山小屋に篭り、丹精込めて炭を焼くその源蔵の背は猫の背のように曲がり始めていた。父の風貌は窯の熱を浴びた皺が目立つ。父の話す言葉の音、発声する父の言葉の響きは年毎に柔らかな心地よい響きだと父との会話を楽しみにしていた。父の話す口調が叙情豊かな旋律をかもしだす口調に実の父ながら感動するのだった。


 幼いころのおせいは事あるごとに怒る父は鬼だと思っていた。往時の勢いを今では嘘のように思えるのである。時を経た今、強面の源蔵が穏やかに老いてゆく様を感じたそのまま短歌にしたためたのだった。


 おせいはこころを弾ませ母の待つわが家へと急いでいた。古木が林立する山中を通り抜けると巨大な樹木がそびえる所まで来た。時折夕陽に映える山里の景色を眺めた。遠くに見える喜一郎の住む屋敷を見下ろせば陽が沈み切る間際の夕焼けに際立って見える。茜色に染まる屋敷をどれ程見詰めても、心を馳せる喜一郎があの屋根の下にいるのだと思うと、例え暗闇に包まれ視えなくなっていようとも心の奥にはっきりと見えているのである。それほどおせいの心は喜一郎へと移っている。崖に沿った山道に佇むおせいは眼下に広がる村の一角の、ただ一点を見詰め続けこころの想いを詠った。


「のどかさも野の鳥さへずる秋の山これより望むわが君の住む」

 仰ぎ見る夕空に浸透する残照がもたらす茜色との段階的な色合いに感動を覚えた。山裾のわが家は林に隠れている。残照の彼方に浮かぶ雲は幾層に連なり感動を誘う陰陽をかもしていた。山腹から聞こえる山鳥らの囀る声が紅葉する山肌より鋭く心へ響く。甲高い山鳥の囀る声がこだまする三次元の光景であり幻想的な時空空間は時の流れる俗世界を忘れさせる景観であった。


 遠くに見える神社の参道に村祭りを告げるのぼりが風にそよぎ立っていた。その風に乗って祭囃子の音が小高い此処まで聞こえる。村の若者らが祭囃子の練習に精を出す音を拾おうと耳に手を当ててときめいていた。十日後の晩方に喜一郎と一緒に秋祭りに行けるとその日を待ち望んでいるおせいなのである。


 だが父の源蔵のくぎを刺す一言が過る。喜一郎とは短歌だけにしておけと言われた一言だ。しかし、好意を抱く喜一郎に誘われれば親の目を盗んでも逢いたいと思う。山の日暮れは早い、釣瓶を落とす勢いで陽は沈む。おせいは急ぎ山を降り始めた。

 古木の根が露出して歩きにくい。さらに枯れ落ちている葉が積り重なる山道を下る事は通いなれていても足が滑り危険が伴う。母の待つわが家へおせいは急いだ。日暮れはおせいをせかす如く迫り眼下の陽は沈みつつも残照が明るく足元を照らしていた。


 おせいは村道を通らずあぜ道を小走りに急いでいた。あぜ道を走り行けば時間を稼げる。そう思ったおせいは迷わずあぜ道を選んだ。急ぎ走れば火照る頬に冷える風が心地よく当たる。田園地帯を抜ければ母が待つ我が家は間もなくだ。

 前方に人影が見えた。乾いた田んぼの中で遅くまで野良仕事をしているのだろうかと思った。一仕事を終えて道端にしゃがみ一休みしているようにも見える。すり抜けるとき挨拶せねばとおせいは思っていた。どこの誰だろうかと思いつつ足早に進んだ。


 その人影が突如立ち上がった。立ち上がるとおせいの方へと近づいてくる。おせいはこのまま進めば互いに擦れ違えぬ、ならば、前方から来る男に道を譲ろうと足早に交わる道に入った。すると、男は突然勢いを増し走り出してきたのだ。残照に照らされた男は見知らぬ男のようである。男の進む先に人家など無い。とすれば、男はなにも急ぐ必要など無いのである。異様な雰囲気に恐怖を覚えた。信じられぬ。見知らぬ男の思惑が解らない。理解できぬ。


 男の行動に不吉な予感を悟るおせいは交わる野道を走り込んだ。男が追ってくる。背後から迫り来る男の尋常でない気配に底知れぬ恐怖を覚えつつ無我夢中で逃げ走った。一体あの男の目的は何なのだろう。考える隙を得ぬままおせいは無心に走った。だが、無常にも追いつかれてしまう。


 おせいは肩を掴まれ、蹴飛ばされ田んぼの中へと蹴倒されてしまった。うつぶせに倒されると脇腹を更に蹴飛ばされた。蹴られた脇腹に食い込む鋭い痛みが走る。恐怖におののく中、覆い被さる男の酒臭い臭いが鼻に突く。押し潰され手足の自由がきかず身体のあちこちに痛みが走る。もはや絶体絶命かと覚悟を決める直前だった。

 両肩を掴まれ仰向けにされたとき男はおせいと言い放った。なんと襲う男はおせいと名を叫んだのだ。


 仰向けに返されたその瞬間、おせいは身を守るべく必死に身を縮こめた。身を縮こめたおせいの膝頭が男の睾丸へ鋭く突き刺さる如くに命中したのだ。この事はおせいにとって幸運だった。思えば本能的に身を守るべき動が、両膝を縮こめる行動がおせいの劣勢を優勢へと導くとはよもや思わなかった。


 不意を突かれた男は睾丸の鋭い痛みに耐えかね顔を歪めた。同時におせいから飛び退くと己の股の間を両手で押さえ込んだ。男は痛み苦しみ悶絶している。どす黒い顔色が見る見る内に蒼白になってゆく、全身から脂汗が留め止めもなく噴出しているのが判った。激痛を堪える悲痛な叫び声を上げる暴漢はのたうちまわる。


 それは身を守るべく膝を縮こめた偶然の幸運だった。身を守るべく身を縮込めた片方の膝頭が男の急所である睾丸に見事に命中したものだが、暴漢がのたうち回る姿を見てもおせいには何がどうなったのか分からず呆然とした。


 とにかく暴漢男が股間を抱え込んだまま動けずにいるのであれば逃げるのは今しかないと直感した。おせいの自由を容赦なくへし折る男の暴力から図らずも解放されたおせい。乾いた田んぼの中を二転三転ともがくように離れた。


 あぜ道へと逃れたおせいは振り返り様に男の様子を恐る恐る視た。するとおせいを襲った暴漢は股間を抑え込みのたうちまわっているではないか。男にしてみれば予期せぬ反撃に戸惑う間もなく股間にえぐり込む激痛を堪えるしかないのだ。痛む股間を押さえ込み激痛が治まるのを待つしか手立てはないのである。


 おせいは一難から逃れるも、いつ又あの男が襲い来るかもしれない、そのように思うと恐ろしさにいたたまれない。一刻も早くこの場から離れなければと無我夢中で母の居るわが家へ一目散に走り続けた。


 思えば途轍とてつもない不慮の災難だった。兎にも角にもあの一撃はわが身を守るべく偶然の結果だったのだ。逃げ切れた事は万に一つ得た幸運だった。おせいは土間に駆け込むと母に助けを求めるべく叫んだ。おせいの叫び声を聞きつけた愛犬の三太が嬉しそうに飛びついてきた。だがいつもと様子が違うおせいだと気づいたのか、おせいのどこそことなく鼻を押し付けてくる。


 おっかさん、おっ母さん。

 呼べどもお里は姿を現さない。棒立ちするおせいは居間の囲炉裏に釣り下がる鉄瓶を見とめた。囲炉裏の五徳に土鍋が置いてある。となれば敷地のどこかに母はいると思った。そうは遠くへ行ってはいない筈だ。おせいの思考は混乱しだした。先ずは落ち着こう、落ち着かねば物事がチグハグニなってしまう。おせいは騒ぐこころをいさめた。


 三太を抱締めると少しは冷静になれた。母は炭を補充するために裏小屋に行っているのだろうと思ったそのときだった。先の恐怖の瞬間が鮮明にフラッシュバックしたのだ。


 恐ろしい形相で襲いくる男の顔が突如として脳裏のうりに浮かんだ。あの時の、あの男の酒臭い息を感じた、思い出したくない光景に・・恐怖におののいた。怒り狂う男の形相ぎょうそうが脳裏を過ぎった。おせいは恐怖を振り払おうともがいた。眼をつぶり全身に力を込めて悪寒おかんの根源を振り払った。同時にこの身を引き裂く激痛を感じると悲鳴を上げた。おせいは暴漢者の再来を予期してしまう心に怯えた。先の恐怖がおせいのこころの内で再び襲ってきたのだ。


 おせいの異常な行動に三太が両耳を鋭く立てた。両手で顔を覆い、髪の毛を左右に振り乱し奇声をあげるおせいに只ならぬ気配を感じ取った三太。三太は外に向かって駆け出した。吼えながらお里の下へ駆け出してゆくのである。


 裏小屋にいたお里は尋常でない三太の吠声に血の気を引いた。かつてこれほど吼える三太ではなかったからだ。いったい何事が起こったというのだ。未知なる不安に襲われたお里は炭箱を落とし母屋へと走った。三太に続いて家の中へ飛び込むお里は土間でしゃがみ込む娘のあらわな姿を目の当たりにした。


 髪は乱れ瞳は泳いでいる。呼吸は荒く胸と腹とが深く浅くに浮き沈み激しく律動している。その異様な有様にたじろいだ。しかも娘は素足のままではないか。それだけではない。身嗜みを人一倍気遣う娘の着物の前がはだけている。いったい何事が娘の身の上に降りかかったというのだ。お里は硬直した。


 こうしては居られぬと急ぎ雨戸という雨戸のすべてを閉めた。無我夢中で大戸を閉めるとかんぬきをした。これでもう大丈夫だ。いかなる侵入者とて閂を施した家の中には入れぬはずだ。娘を襲ったのは一体誰なのだ。この村の男か、それとも流れ者なのかと考える猶予はない。それよりも先ず娘の身支度を整え、恐怖心を拭い去ることを優先しなければならぬと思った。お里は思う。われ以上に娘の心は錯乱しているはずだ。はやる己の心をいさめた。土間にへたり込むおせいの手を握り締め脅える娘を抱きしめた。抱きしめながら非道をしでかす行為を断じて許さぬぞと空を睨む。


 どれ程の時を経ただろうか。幾分落ち着きを取り戻すおせいはおっ母さん、おっかさんと声低く呼び続けていた。おっ母さんと呼ばれるその都度お里は、うん、うん。おせいと返事を返しなだめるのだった。

 母に抱き締められると悪夢がうすらぐ。母の膝は温かかった。安堵に浸るうちになぜ襲われたのかと過った。


 わたしが、女であるからか・・と自答した。

 おせいは男の理不尽な行為に怒りを覚えた。

 怒りの余韻が漂う中、おせいを抱きしめながらここは安全だと諭すように懸命に力を込めて抱きしめた。お里は先ず乱れているおせいの身支度を整えてやることだ。着物の乱れを直せば心は休まる。時を経ることで恐怖の一端を拭うことが出来ると思った。


 怯えるおせいの手を引き土間の縁台に腰掛けさせるとたらいに湯を足した。手ぬぐいで顔を拭いた。髪を梳かし泥の付いた足を洗った。囲炉裏端で暖まるように言い残し台所へと向かった。お里はおせいに葛湯くずゆを飲ませようと思い立ったのである。

 ジャガイモから作り置いたデンプンに砂糖と抹茶を加えた後、白湯を注いで程よい粘度に仕上げ、おせいに冷めぬうちにゆっくりと飲むのだと勧めた。葛湯をすすり飲もうとするおせいは唇へ茶碗を当てるが触れるだけだった。恐怖が覚め止まぬ今、好物である葛湯でさえ喉を通らないのである。


 おせい、茶碗を口に当てたまま、茶碗の中に小さく息を吹きかけるだけでも良いのだよ。それだけでも、身体を暖める湯気が立ち昇り、お前の身体の中に入るのだからね。葛湯をすするように勧めた。促されるとおせいは目を細め、口をすぼめて茶碗の中へか細く小息を吹き込んだ。突き出す唇を茶碗に寄せた。息を吹き込むたびに湯気が立ち昇った。おせいの顔が湯気で湿ってきた。その湯気の湿り気がおせいのこころを次第に暖め始めたのだ。温まるにつれ鼻がぐずつき、鼻汁をすするおせいは恥ずかしそうにはにかむのだった。


 微かな笑みを浮かべる仕草にお里は、どうやら娘は落ち着きを得たようだと安堵した。お里は「ゆっくり、葛湯を飲みなさい。心が落ち着くからね」こころを込めた優しい響きのある言葉であった。おせいは小刻みに脅えながら小息を吹きこむと湯気立つ湯気をすすった。それは快い按配の温かさだった。葛湯の温かさは脅えるこころの中へと沁み込んだ。いま一口すすると何とも言えぬ葛湯の風味が口中に広がり、おせいのこころを和らげた。その風味味覚が母の優しさに重なりひとくち一口すすり飲む都度葛湯は勇気と化した。私をこれほどまでに案じてくれる母がいる。私には私を守ってくれる母がいるのだとおせいは心強く思った。


 甘くて・・美味しい。

 それに、おっ母さん。あっ温かい。

 おっ母さん、美味しいね。ありがとう。


 身の毛のよだつ恐ろしさに口を噤まされていたおせい。囲炉裏で暖をとりながら葛湯を口に含めば身体が温まる。温まるにつれ恐怖の念を払いのけられると思い始めた。葛湯を飲めば落ち着きを取り戻せる。そう思うおせいは葛湯を舌に絡ませた。

 おせいを見つめるお里にも同じく安堵する表情が現われ始めた。ひとつの安心を得たお里は奥の部屋から掻巻きを持ってくるとおせいの背に掛けてやった。掻巻きの襟が首の後ろに当たるとひんやりした。襟元をさすりながら母にあの忌まわしい出来事を語り始めた。


 あのね、おっ母さん。

 おっとうと別れてから山道を下り、野道に入ってお家に向かっていたの。日が暮れる前に家に戻ろうとあぜ道を走った。そしたら見知らぬ男に襲われたと少しずつ語り始めた。


 あぜ道で男と遭遇し、不意に肩を掴まれた挙句に蹴飛ばされ仰向けに転がされたあの時、あの男は私の名前を、あの男は叫ぶように呟いていたことが脳裡に蘇った。

 おっ母さん。あの男は私の名前を知っていた。声高に話すのだった。

 あたしは・・あの男を知らない。初めて見た男だったのに、あの男は私の名前を知っていたと、お里に大事のひとつを声高に証言したのだ。そして、あの男はなぜ私を襲ったのだろうと考えた。どれほど考えたところで分かる筈などない。


 お里は見知らぬ男の正体を暴くにはどうしたら良いのだろうと思案するもお里に名案はなかった。こんなとき、源蔵がこの場に居合わせているならばどれ程心強いものかと心細さを思うお里だった。


 だが、源蔵は一旦火入れした窯から離れることはない。良質な炭を焼き上げるのだという強い信念を源蔵は持っているからだ。その信念が炭の品質へと反映され源蔵の炭として多くの顧客に支持されていた。

 だが娘の一大事と聞けば源蔵はすっ飛んで帰ってくるだろう。がこの今知らすべく術はない。まして宵のとばりだ。いかに通いなれた道でも源蔵に事の次第の大事であっても、女一人で炭焼き小屋へ知らせに行くにはすでに遅すぎる。それにお里が知らせに山へと向かえば娘一人を家に残さねばならない。

 しかも無防備ではさらに危険が増す。幸いにも明日の昼を過ぎれば源蔵はいつものように一旦わが家へと帰ってくる。それまで待つべきだと考えた。それに、あの忌まわしい野蛮な男が、愛する娘のおせいを襲ったあの暴漢がわが家の周囲でうろついているかも知れぬ。そのように考えれば尚更のこと、今外に出て行くには危険であるとお里は考えるのである。


 土鍋の餅粥もちがゆがぐずぐず煮える音、枯れ落ちる葉音が聞こえてくる静寂な秋の宵である。もし、敷地に近づく者がいれば、例え野ネズミであろうと、秋の虫であろうが落ち葉を踏まずに敷地に入れぬほどの落ち葉が積っている。如何なる者であっても敷地の周囲をうろつけばその足音に気づく。この夜は落葉する葉の音さえ聞こえるほど静寂な夜の宵なのだ。それに戸締りは万全だ。内側から戸を開けぬ限り誰も立ち入ることは出来ない。そして、この家にいるのは二人だけではない。おせいに懐く愛犬の三太が土間にいるのがなによりも心強い。


 お里は餅粥をよそい高菜漬けに梅干を添えた。おせいに食べるように勧めた。餅粥は消化がよく冷えた身体を温め餅は体力をつける。高菜漬たかなづけと梅干は食欲を促進し疲労を快復するのだから・・、ゆっくりお食べと勧めた。


 うん・・・

 頷きながら茶碗に箸をつけ食べ始めるおせい。

 お里は娘のおせいが襲われた現実に強い憤りを覚えていた。娘の将来、娘の後々を思うと心配でいたたまれないのだ。

 高菜漬けに箸をつける娘を見遣ると自然と涙が滲み出てきてしまう。だが毅然と対処しなければならないとお里は思った。自分が慌てふためいていては娘が心のよりどころを見失い、安心して身を寄せることができないがないではないか。わたしは毅然と対処しなければならない。そうと心を決めたお里は強くこぶしを握り虚空を睨んだ。


 お里は小皿に盛った梅干を選り分けその一つに箸を運んだ。梅干に絡む紫蘇っ葉を箸で解くとそれを口へと運ぶ。塩辛い紫蘇の風味さえ感じぬままに、それとなくおせいの様子を見遣るお里。


 おせいの視線とかち合った。お里は目尻が滲んでいることを悟られぬように言う。紫蘇っ葉と梅干は相性が良いね。梅干しの塩辛い汁が喉に絡んで知らずして涙が滲んでねぇ、堪えきれなかったよ。と言い繕った。


 おせいは目を細め頷きながら言う。

 おっ母さん。だめだよ。気をつけなければ・・・

 促すと湯飲み茶碗に白湯を注ぎお里へと差し出した。

 お里は娘の優しい気づかいをありがたく思う。娘は先の恐怖におののくどころか、こころの動揺さえ見せまいとするおせいに私より娘の方が大人なのかもしれないとお里は思った。揺れ動く心を娘に悟られぬよう笑みを浮かべると白湯を含んだ。

 餅粥を食べ終わるのを見計らいお里は茶盆を引き寄せた。もう一膳よそおうかと勧めた。


 うん、自分でよそうから、おっ母さん、いいよ。

 応えるおせいは母の膳には茶碗が伏せてあるのに気がついた。母は餅粥を食べてはいなかった。

 おっ母さん。わたしが、おっ母さんの・・

 そうかい。


 母から茶碗を受けとるとおせいは餅粥を一膳よそい差し出した。

 実のところお里は娘のこころへ悪夢が宿らぬよう案じるあまり食が進まなかったのである。餅粥をすすり食べるおせいの様子を視る限り娘は女としての致命傷を負わず良かった。不幸中の幸いなのかも知れぬと思った。


 娘は案外けろりとしているのかも知れない。そうでなければ、餅粥などに箸をつける余裕などはないだろう。さもなければ母親に心配を掛けまいと娘は娘なりに気遣っているのだろうか。そのように思うにつれて一層娘への愛おしさが湧きくるのだった。娘のけなげな態度にお里の胸中は複雑なのである。


 おせい。

 はい、おっ母さん。

 今夜は、一緒に寝ようかね。

 うん。でも、わたしはこうして、おっ母さんと一晩中、ここで眠くなるまで話していたい。


 予期せぬ不運に遭うも、女の一大事にならず難を免れたと神仏に感謝せずにはいられなかった。一難去ってまた一難という寝込みを襲われたくないとも思う。ならば徹夜して備えるべく一夜を語り明かすのだと互いに覚悟をしていた。


 格子窓から月光が差し込み二人を照らしている。満月は時が経つとともに黄土色から青白い色合いへと彩移る。月は満月に近づく十日夜のようであった。流れゆく雲間に見え隠れする秋の夜空の星は強く弱くに瞬いていた。


 一方、土間の片隅に居つく秋の虫が庭の虫らと競うように鳴きあう静かな宵の口である。三太といえば緊迫する気配を感じないのだろう、深い眠りに入ったようだ。お里は囲炉裏の熾火を見詰めていた。炭壺から炭を二つ三つ取り出し熾火きに重ね灰をかぶせた。熾火に灰を被せ火力の加減をしたのである。


 熾火の周囲をならし風景画を描いた。茶筒から茶葉を一つまみ掴みだし茶香炉に置いた。やがてこの茶葉が熾火に熱せられて快い香りを漂わすのだ。茶葉の香りを嗅ぐと心を休める効果があるのだよとお里が言う。


 しばらくすればおせいのこころを癒す茶葉の香りが漂い始めるだろう。お里は湯飲み茶碗に白湯を注ぎ二人して湯気をすすった。

 すすった白湯を口の中で転がすと常温の水の味とは異なる甘みが舌に広がった。おせいは白湯がもたらす白湯の味を好んでいた。目をつぶり舌に神経を集中した。おせいは時折土間に寝そべる三太の様子を覗く。相変わらず三太は寝息を立て寝入っていた。それは、この家に近づくものはいないことを意味する。母娘を包む静寂の中に香ばしい茶葉の香りが漂い始めるとおせいが口火を切った。


 おっ母さん。好い匂いだね。ありがと・・

 それにね、おっ母さん。この白湯の甘いこと、葛湯の甘さと比べても劣らないよ。

 おせいは白湯の味を甘いという。その言葉を聞くとお里は安堵した。なぜならば心休まる精神状態でなければ物の味など感じないものだからである。まして井戸水を鉄瓶で沸かした湯冷ましの白湯である。何の味も加えていない湯冷ましの白湯が甘いと感じるほど、おせいの精神状態は落ち着きを取り戻したということになる。


 おせい。

 なぁに、おっ母さん。

 お里は香り立つ茶高炉の茶葉を指で掻き混ぜながら語り始めた。

 過ぎ去った何事は戻らないものだよ。それが喩え楽しいひとときであっても遭いたくない事であっても必ず終わりがある。誰一人して留めておくことは出来ないのだよ。嫌なことでも避けて通れないのであれば、不快なことを経験したならば、今後の教訓とし日常の何気ない生活の中に潜む危機を察する危機感を育てればよいのだよ。

 悔しいけれど・・・あのことは、もう・・忘れようね。

 女としてのお前が、女の一大事に至らなかったということは、きっと、神さまが、ご先祖さまがお前を助けて下さったのだから、神さまを、仏さまをこころから敬って信じようね。

 うん、おっ母さん。そうする。

 茶葉の香りが漂う中で白湯をいただくとこころも身体も休まるね。

 ささやくような小声でおせいは応えた。頷くお里は幾度も頷いた。お里は格子窓の夜空をしばらく眺めると眠るように目をつぶった。それは暫しの時を置いたのち、おもむろに・・お里は呟くように・・・


「十日夜(とおかんや)灯りのとれぬ山に入る怪我なきやうに案じますゆえ」

 繰り返し呟くように短歌を詠った。


 おせいは母が詠う短歌を聴くと驚いた。夜の夜中の月明かりは居間に届かぬも天空に浮かんでいるはず。地上を照らすお月さまが、もしも雲に隠れたならば丹精込めて炭を焼く夫の手元はさぞかし暗かろう。月明かりが雲に遮られなければ、松明を灯すよりは手元足元が明るく照らされるだろう。なれば夫は助かるはずだ。わたしの大事な旦那さま、どうぞ暗闇に捕らわれて怪我など負いませぬように。夫の身を案じて夫の安否を気遣うお里自身のこころを詠ったのである。おせいはこのように理解できた。


 思いがけずに母が短歌を詠んだ。母が詠うに触れたおせいは目を丸くして驚いた。そう言えばおっとうは言っていた。おっ母さんが短歌をたしなむと言っていたと思い出した。この今、母の短歌を目の当たりにした今、母への敬慕の念を抱いたおせいは眼を輝かせて母を見詰めるのだった。すると母は目をつぶり瞑想しているのだろうか、湯のみ茶碗を膝の上に置いたまま再び口を開いた。


「月明かり遮る雲のなきやうに秋啼く虫も我らとともに」

 おっ母さん。おっかさんが短歌を詠んだ。おっ母さん。わたし、喜一郎さんに短歌を教えてもらっている。

 打ち明けるおせいに「村長さんとこの息子さんかい」

 そうです。その喜一郎さんからわたし、三年前から教えてもらっている。おせいは堪えきれず声高な調子でお里に打ち明けた。短歌を通じて母と共鳴できることを知った喜びにおせいの顔は崩れている。わたしも、おっとうのことを詠った短歌がひとつあるよ。


 ほう・・どんな短歌かい

「窯の火を鋭く見やるわが父の灰をかいだすその背は曲がり」

 と詠ったのだけれども、四句と結句が落ち着かないの。おっ母さん。どう思う。

 おせいは推敲するも、未だに決めかねている短歌をどのように感じるかと母に尋ねた。おせいが詠んだ短歌をお里はこころで詠ってみた。


「窯の火を鋭く見やるわが父の灰をかいだすその背は曲がり」

 発声して二度繰り返し詠んだ、するとお里は大きな声で笑い出したのだった。おせいは何故に母が笑うのか分からずきょとんとしている。

 よく解らないけれど・・おっとうが・・かわいそうだねぇ。というのだ。

 おせいはなぜそのように言うのか解らなかった。お里は続けた。お前さんはおっとうの遺骨を拾うのかい。わが父の灰をかいだすだなんて。まぁ、お骨を掻い出すとは言わないけれど、掻い出すというのは水を掻い出すという場合に使うのではないかい。


 おせいは絶句した。おせいは小首をかしげ考え込んだ。なるほど、その様にも聞こえ感じる事があるのか。しかし普段友達との会話では、かいだすもかきだすも、喩えそれを誤用していたとしても、うたの内容や場面の描写、文脈の流れから言わんとする意味は相手に伝わるし理解してくれる。いや、母の指摘を以ってすれば、誤用した言葉であっても聞き手が正しく修正し、好意を以って解釈をすると思うのだった。


 船底の水垢を掻き出す。痒いところをかきだす。手紙を書き出す。燃えカスを掻き出す。頭を掻きだす。どれもかきだすと発音するがその行為目的は異なる。が文脈で言わんとする意味は通じる。文字を見なくても、聴く言葉の音から文字が想像できる。文字が想像できれば意図する意味を理解する。とすれば、会話というものは経験や感性によって、或は先入観によっても解釈が異なる怖いものだといえる。


 先入観、固定観念に囚われず友好的な相手ならば好意的に解釈するが、そうでなければ誤解されてしまう。会話とは、言葉とは、短歌とは実に怖いものだと再認識するおせいだった。


 おっとうが炭を焼くのはおっとうの仕事。おっとうは丹精こめて薪を燃やすのは元気な木炭を作る大切なこと。薪が燃え尽きれば灰ができる。その灰が燃え盛る薪を覆えば微妙に火力を落とす、灰をかき出すことは品質の良い木炭を作る上で大事な作業だ。そう、おっとうは燃え盛る炎の色具合から温度を測り知り、火力の調整をするべく薪をくべ、灰を掻き出す頃合いを見定めている。仕事とは、微妙でかつ高度な技術なのだわ。だから私は「窯の火を鋭く見やるわが父の 灰をかきだすその背は曲がり」と詠んだ。「父の」「灰を」・・父の、で寸止めする一瞬の間合い、そう体言止めのように間合いをいれてほしい。

 でも、母の指摘するように「わが父の灰をかきだす」と音と音の間合いを、音を切る間合いなく詠んだら意味が異なってしまう。真意は通じなくなってしまうし、不確かな心を詠う短歌になっていると感じる。


 ならば・・「窯の火を鋭く見やるわが父は灰をかきだすその背は曲がり」もしくは「・・わが父が灰をかきだす・・その背は曲がり」と間合いを促す接続語を変えれば間違いは解消されると思うがどうだろう。文節を繋ぐ接続語の選択の誤りだったのかと思った。誤りを母に指摘され、短歌はこころの想いを文字言葉に託す文芸であるから文章を繋ぐ音を正確に使わねばならないと思った。


 音読された音は複雑に響きあう韻となり、聞き手は次なる語句がかもす音韻を期待する。歌のように旋律から感じる風韻を感じれば、その風韻にふさわしい情景を思い浮かべるものだと母は続けた。おせいは母の短歌に対する考えに共鳴した。もっともっと知りたいと思った。


 おせいは母に聴き手側の意見を聞きたいと問うた。

 すると、文字数こだわるべきでない、使う語彙の意味を多角的に知る事、何よりも大切なことは心にふさわしい共感する言葉を選ぶことが重要だという。

 短歌は詠むことでなく、こころの想いを正直に詠うというのだ。そう言われたが理解できず、どういうことなのかと訊き直した。返事がなかった。母を見ると横になり居眠りをしていた。


 おせいは母に掛けてもらった掻巻きを母に覆いかけた。気が付けば夜をこめて短歌のことばかり考え話し合っていた。囲炉裏の暖かさを受けて眠りつく母を見やると母は疲れているのだと思った。

 格子窓を眺め見ると月明かりではなく、夜明けが間近だと告げる鳥のさえずりが朝日のように入り込んでいた。


 山鳥らの囀りがおせいの心の中へ心地よくしみる。母とこうして夜っぴて囲炉裏を囲んで夜を明かしたのは初めてだった。母が短歌をたしなむということをこの夜わたしは初めて知った。意外だった。これほどまで母と二人して言葉を交わしたことがかつて有っただろうか。私があの忌まわしい事件に遭わなければ夜をこめて、こうして語り合えることは無かったはずだ。母と短歌の話を語り合えた。いや、それどころか、まさか母から短歌を教えてもらえるとは思ってもいなかった。母と語り合えた感動は生涯忘れることなく記憶に残る事だろう。そして、この感動は禍を経た慰め・・なのかとおせいは思うのだった。


 母にしてもこうして私と語り明かして一夜を過ごすなどとは思いも寄らなかったと思う。父が言う生涯において人の生き様に正解な人生・生き様など無いぞと話してくれた言葉が思い浮かぶ。父は世の中を生き抜くことは容易いことではない、と話し禍を避けて人生を通り抜けることなど考えてはならない。幸せだけを求めても幸せは訪れないものであるという父の言葉がこの時に理解できそうだと考え始めたのだった。


 父が若い頃の経験話として、村の長老から聞かされたと前置きして話してくれた言葉を思い起こした。禍福かふくとはあざなう縄の如しだと・・。そう聞かされた時、わたしには全く意味が解らなかった。禍福という言葉の意味を理解できないおせいは父に尋ねた。かふくとはわざわいとしあわせとが交互に入り混ざることを言う。どちらも人として生きるために架せられる不幸と仕合わせを言う。それは藁をひねり合わせて縄としたとき、一本の藁は弱くとも弱きものが互いに絡みつき合うからこそ丈夫な縄となるに似ている。幸せを願うには不幸を知ってこそ心地よい幸せを強く感じるものだ。どちらも必要なのだという。そして、「禍福門なし唯人の招く所」と続けたことを思い出していた。


 おせいは今日一日、禍福の時を経たありかを瞑想していた。あの禍はこれからも私が生き抜く上で、私が仕合わせな生涯を歩む一歩として、私の試練として課せられた禍なのだろうか・・。この様な事はわたしだけでなく、女は女を生きる幸せを掴む中で誰もが大なり小なり経験する禍福の禍なのだろうか。女の私に架せられた運命なのだろうか。しかし、私を襲ったあの禍は母のこころまでも巻き込み襲ってしまった。昨夕のことは私だけに禍が襲ったのではないのであれば、女の私は男の人を信じつつ、男を疑うこころを隠し持たねばならぬものかとおせいは思い悩み始めるのだった。

 おっかさん自身が心強い藁となって弱い私の藁に絡みつき、くじける私を励ましながら支えてくれた。母は私と一体となる一本の縄になってくれた。くじけてはならないと教えてくれた。だがこの先の人生を男の人に懐疑的な目を持って接しなければならぬとすれば・・それは・辛い・・ことだと呟くのだった。

 だがなぁ地蔵よ! よく聞け! この禍はおせいの悲運な運命の序章であったのだ。地蔵よよく聞け!


 それから十日ほど経ち秋祭りの当日を迎えた。四方を山で囲まれた山村に朝霧が立ち込める光景はまるで水墨画のようだった。朝早くから秋祭りの開催を知らせる祭り太鼓の音が朝霧を突き抜けて村中に響いていた。村民の誰もが待ち望んでいた秋祭りの始まる音であったのだが源蔵一家にとって悲運が始まる幕開けの音だった。


 おせいが恋う喜一郎は日暮れる少し前に迎えに来た。今か今かと待ち侘びていたおせいは喜一郎と目を合わすと頬笑んだ。互いに微笑み合うと喜一郎は一目見て地味な着物がよく似合うと感激に浸った。おせいの両親に挨拶を済まし神社へと連れ立って行った。道々に周囲に誰の目もないことを確かめ合うと手を繋いでいた。ほどなく二人は鎮守さまに辿り着いていた。二人は本殿に向かいお参りを済ませると子供歌舞伎に魅入っている。


 秋風のそよぐ冷たさも喜一郎と共に受けるならば、それは快い秋風だとおせいは思っている。この日は陽のかげる宵から夜へと時の流れるほどに肌寒い晩だった。他の人の目に入らぬよう喜一郎に手を握られる温かな感触がなんとも嬉しかった。互いの体温が行き交うほどに身体は触れぬとも、寄り添える感触を女として感じつつ受け入れたいと願っている。この今、この胸に疼く不思議な想いが互いの体温を介して触れ合っている、おせいの願いが満たされている心地よさを伴う感覚に浸る自分を恥ずかしく思う。が、嬉しさが恥ずかしさを制する乙女こころなのであった。一方、喜一郎がおせいに寄せる想いもおせいに劣らぬほどに浮きだっていた。


 おせいがまだ幼い頃、遊ぶおせいの姿を遠目に見ていた喜一郎は。自分のことよりも友達のことを優先する何気ないしぐさ、仲間を思いやる心遣いをごく自然にこなしているおせいに不思議さを思っていた。おせいの話し言葉の柔らかい響きに心を打たれ、おせいは決して我を張らぬも言うべきことは相手に伝えていた。そして、皆を喜ばしながら皆を統率するおせいの姿に見惚れていた。喜一郎は思った。私の将来を共に歩む女はおせいしかいないのだ。と・・こころに秘めていたのだった。


 子供歌舞伎を演じる子供らの演技は迫真に迫る好演技だった。すばらしい。実に堂々と彼らは演じていた。おそらくこの日のために大変な努力をしたのだろうと思った。喜一郎もおせいも彼らの演技の終演までを観たいものだと思っていた。それはかつて喜一郎も演じていたからだ。自分と同じ役を演じる子供は、この今目前で演ずる彼のほうが自分より遥かに上手だと喜一郎は絶賛した。それゆえ、時の流れることを忘れ子供歌舞伎見物に没頭していた。あの子は将来すごい役者になるぞと喜一郎はおせいに告げた。


 喜一郎には気になることがあった。それは、二人が出かける間際におせいの母親から釘を刺されていたことだ。早めに切り上げて送ってくださいましと言われていたのだ。そのことをすっかり忘れていた。忘れていた事をおせいに告げるとおせいは喜一郎の判断に任せるという。


 では、この幕を観終えたら帰ることにするか。いや、もう一幕観てからにしよう。ついつい先延ばしになってしまう。しかし、おせいの母との約束を思えば、そろそろ帰らねばと思う、が、もうすこし、今少しの間一緒にいたいという想いが決断を鈍らせる。


 思い返せばこの半月ほど村長のお供でおせいと逢う機会を得られなかった。この秋祭りを、子供歌舞伎をおせいと一緒に観られるとの裏付けがあればこそ逢えなくとも我慢が出来た。それに見物客に押し押される度に時々触れ来るおせいの胸の感触が決断を鈍らせていたのだった。思いがけずに触れ来る柔らかな感触に顔を赤らめる喜一郎なのである。おせいも喜一郎も秋祭りを大いに楽しみたいと思っていた。が、しかし、約束は約束である。約束は守らねばならない。子供歌舞伎の見物も半ばに二人は帰ることにした。


 鎮守さまの本殿脇におみくじが置いてある。おせいはくじを引いてから帰ろうと小銭を賽銭箱に投げいれた。おみくじの箱を抱え持つとカサゴソ音を立てて揺らした。そして一本の棒を引き抜くとき、「喜一郎さん。このくじ棒が私なのよ。いいえ、わたしは、喜一郎さんとのことを含めて占ったの。くじ棒の示唆する私たちの運命をわたしが引き当てたのだから、このおみくじはわたしの今を示しているものなのか、或はわたしの未来かもしれない。でも、これはおみくじ占い。気休めだと思うの」

 おせいはこころの中で大声で叫んだ。

 おせいはくじ棒に書かれている数字を確かめると巫女に渡した。巫女からおみくじを受け取るとゆっくり解き開いた。凶と記してあった。


 凶だったわ。

 呟くように喜一郎に告げた。すると喜一郎はそうか。凶。おせい。そのおみくじを向うの木の枝に結んで氏神さまに御参りしよう。

 喜一郎に向き合うおせいは胸元の御神籤に手をあてがい呟いた。

 喜一郎も胸元に手を置き、氏神さまどうぞおせいに災いが及びませぬように・・おせいはわたしが守ります。わたしが守りきれぬとき、そのとき、どうぞおせいをお助けくださいますようにと願っていた。喜一郎は氏神さまへ願を託すべく鈴を鳴らした。参拝をする喜一郎の半歩後ろでおせいは手を併せ参拝していた。胸元からおみくじを取り出し、小枝に固く結ぶと鳥居を潜り抜けた。鳥居を潜り抜けたところで二人は鎮守さまに一礼をし、秋祭りたけなわの境内を後にした。


 帰り道、子供らが舞う演技を語り合った。すばらしく舞をこなす子供らを絶賛し合った。あの子が見得を切る表情がこの今もあの子の舞う残像が目蓋に浮かび、こころの内でこの今でも舞っていると喜一郎は熱弁を奮う。おせいの興奮もまだ覚めやらずであった。


 おせいの家へと向かう途中誰一人として行き交う村人はいなかった。雑木林を抜ける夜道の月明かりはほのかな明るさだった。手をつなぐ喜一郎の手のぬくもりにおせいは仕合せを感じていた。


 祭囃子を口ずさみ小太鼓を打つ仕草をしながら近づきくる男。薄明かりでよく視えないが正面よりお面をかぶった男を二人は気づく。喜一郎とおせいは祭り気分に酔いしれている粋人だと思った。次第に近づく粋人の足取りは小刻みに左右に揺らし歩いてくる。男は氏神様へ行くのだろうと思った。喜一郎はふらつきながら近づく粋な男に道を譲るべくおせいを道の脇側へと入れ替わり譲った。近づく男は相変わらず祭囃子を口ずさみ小太鼓を打つ仕草を楽しみながら近づいてくる。


 だが、男は奇妙な動きで踊りつつ殺気を隠していた。男は意図する微妙な間合いを縮めていたのである。そうとは知らぬ喜一郎とおせいは面白おかしい身振り手振りの男を微笑ましく眺めながら道を譲り空けている。


 すれ違う正に互いの身体がすれ違うそのときだった。太鼓を打つ仕草の中に男は卑怯にも拳を隠していたのだった。ひょっとこのお面をかぶる男はおせいの腹をめがけて拳をつきおせいの腹を一撃し気絶させた。そして間髪入れず喜一郎のわき腹を小刀で突き刺すと背後に回りこみ、背中に小刀を突き立て喜一郎を絶命させた。男は薄笑いを浮かべ口をぬぐった。その後、道端に横たわるおせいの着物を剥ぎ取りおせいを犯したのだ。



 二人を襲う間際まで己の正体を隠し通した男はひょっとこの面をかぶり、殺気を隠していたのだ。この男こそ、この卑怯な男こそ権太だ。おのれの性欲を充たすため、ただそれだけの理由で喜一郎を殺害しおせいを犯したのだ。


 おせいを喜一郎より先に襲ったのには訳があった。権太にとって邪魔な喜一郎を先に襲えばおせいは悲鳴をあげる。さすれば、悲鳴を聞きつけた村人が何事がと駆けつける。これは権太にとっては都合が悪いことだ。悲鳴を封じるために先におせいをおせいを先に気絶させたのだ。途轍もない卑怯な男だ。権太は犯行の手順を考え抜いていたのだ。なぁ、地蔵よ。権太とはそういう男だったのだよ。


 おせいが父に柿を持って行ったその帰り道の話を覚えているか。おせいが襲われたあの事件を覚えているか。あの男こそがこの男だ。そう、この権太だ。奴が犯した犯罪はこれだけではない。奴は近隣の村々の娘を幾人も襲っていた。自分の性欲を充たすためにだ。


 地蔵よ。まだ先があるのだ。権太はおせいを蹴飛ばして村道脇の溝に落としたのだ。


 おせいが一撃を食らったその頃源蔵は三太の行動に不思議を思っていた。居眠りをしていた三太が突如起き上がると逆毛を立ててうなった。遠くを見据える三太の眼は鋭く牙をむき出し空に向かい威嚇している。さらにおとなしい三太が吠え叫ぶのだ。


 いったいどうしたことか。初めて見る三太の奇行にお里は胸騒ぎを思う。威嚇し吠え叫ぶ三太の形相とはそれはすさまじく喧々たる吠え方だった。これには源蔵も驚いた。脱兎の如く飛び出す三太は一目散に走り行く。これはただ事ではないと直感した源蔵は素足のまま飛び出し三太の後を追いかける。先行する三太の姿は闇にまぎれ視えない。視えぬが吠えながら疾走する三太の吠え声は聴こえる。吠え声を頼りに後を追いかけた。目指す先はどうも鎮守さまの方角のようだ。行く先を推測しつつ源蔵は息切れを堪え夢中で走る。窪みを避ける足がもつれ転んでしまった。体勢を整えると三太の後を追った。


 源蔵は数日前、お里から聞いたあの事件のことが気になった。もしやあの事件とつながる悪夢に再び巻き込まれてしまったのかと不吉が過ぎる。まさか、まさかと思いつつ先行する三太の後を追った。雑木林を抜ける辺りだろうか三太が攻撃する気配の中に混ざる男の悲鳴が聞えた。


 追いつくと源蔵は驚いた。あのおとなしい三太が見知らぬ男に猛然と攻撃しているのだ。防御する男のわめき声が錯乱している。

 三太と格闘する男とはいったいどこの誰だ。何故三太があの男を襲うのだろうか。これは現実なのだろうか。猛然と攻撃する三太の牙が男の足に噛み付いている。男を視ると握る手に小刀が光っている。源蔵はこれは三太が危ない。三太に加担すべく周囲を見渡した。すると格闘する所より離れた所に人が倒れているではないか。源蔵は横たわる人物の様子を視た。男だった。男のわき腹、背中あたりから大量の赤黒い血液が流れ出ていた。横たわる男は微動たりともしない。うつ伏せる顔は半分ほどしか見えない。目を凝らし視ると顔面蒼白で血の気がない。源蔵は男の脈を診た。脈を診ながら地面に伏せている男の顔を確かめるべく顔の向きを直し覗いた。


 源蔵は度肝を抜かした。この男は、今自分が脈を診ているこの若い男は喜一郎ではないか。源蔵は驚いた。村長の息子である喜一郎がまさか、まさか喜一郎は死んでいるのか。


 三太と格闘する男が喜一郎を殺ったのか。あの男に殺されたのか、惨憺たる光景を目の当たりにした源蔵は絶句した。思いも寄らぬ現実に思考は錯乱した。兎も角も喜一郎を襲ったと思われるあの男を制し捕えなければならぬ。三太と格闘する男を捕らえ、事の次第を明らかにせねばと三太と格闘する男に近づいた。


 だが相手は小刀を手にしている。うかつに近づくことはできない。男の顔を見れば尋常でない血走る虚ろな目をしている。男の目は錯乱するうつろな目だった。なぜこの男に喜一郎は襲われたのだ。娘のおせいはどこだ。おせいは喜一郎と一緒にいたはずだ。周囲を見回しながら男との間合いを詰める源蔵。そのとき、その瞬間三太が小刀を握り持つ男の手に噛み付いた。男は小刀を握り締める手を緩めず三太を振り払おうと必死だった。小刀を持ち替えて新たな刃を振り下ろすが男自身の腿をかすった。三太は腕を噛み切らんと男に勇敢に噛み付き首を左右に振っている。男は悲鳴をあげ痛みに耐えるも足で三太を蹴散らしている。


 今だ、男を制する転機を見定めると源蔵は飛び込んだ。この今でしか男を制する時はないと源蔵は素手のまま男に飛びついた。先ず男を押し倒し、小刀をもぎ取ろうと突進した。入れ違いざまに男は三太を払いのける小刀を振り下ろした。源蔵が男を押し倒すまさにその直前、無常にも小刀は三太の脇腹へ突き刺さった。三太は悲鳴をあげ倒れてしまった。源蔵は勢いをつけ男の真横に体当たりした。男はぶっ倒れた。地面に倒した男にまたがる源蔵ともみ合いになった。もつれ合いながら男が手にする小刀をもぎ取ろうとする源蔵は男の眼を睨み視た。


 この顔は・・見覚えが無い。見たこともない男だった。荒々しい呼吸をする男の息が鼻に付く、酒くさい臭いがする。この男か、おせいを襲った男は・・この男だと源蔵は確信した。


 だが、源蔵とて山の中で仕事をする男だ。容易く負けやしない。足腰は山で鍛えている。腕力は強い方だ。男をねじ伏せては手に握る小刀を奪い取るべく男の手首を押さえ込み、小刀を握る指を剥がそうとした。だが男の指の力は思いのほか強い。必死に抵抗する男は小刀を握る指を離さなかった。


 この男か。おせいを襲った男とはこいつか。

 こいつか!こいつなのか・・おせいが大事に想う男を殺した男がこいつか。こいつかと思わず源蔵は叫んだ。俺は貴様を許さない!。この男を許せんぞ。源蔵が上体を浮かせ男の顔面を一発殴った。男の顔が歪んだ。歯を食いしばる男の鼻から口から血が流れ出た。観念を促すべく顔面を更に強く殴ると男の前歯がすっ飛んだ。


 だが、この一発が戦いの均衡を狂わせた。源蔵を優勢に導くべき攻撃の一発が源蔵にとって不運だった。源蔵と男の胸の間合いが僅かに浮いたことがまずかった。小刀を持つ男の手首を抑える力が緩んでしまった。男はその瞬間を見逃さなかった。男は全身をよじると体勢を逆転させた。源蔵は逆にねじ伏せられた格好になった。その時、源蔵は自分のわき腹に差し込む熱を覚えた。なんと男の持つ小刀が源蔵のわき腹に突き刺さっていた。


 鋭い痛みを耐える源蔵はわき腹に手を当て身体を丸めた。押さえ込む脇腹から血が噴出している。転がりこんだ反動で小刀がわき腹に突き刺さってしまったのだ。


 されど源蔵は勇敢だった。不覚にも傷を負ったが源蔵は気丈である。先に起き上がっていた男の足をめがけ渾身の力を込めて足払いをした。源蔵の足蹴る威力は強烈だった。源蔵の足蹴りが、三太が噛み付いた傷口に見事に命中したものだから男はたまったものではない。三太に噛み付かれた傷口を、激痛の走る傷口を源蔵に蹴飛ばされた男はぶっ飛んだ。地面に伏す男が握りしめていた小刀が地面に落ちた。三太が負わせた傷口は思いのほか深かったのだろう、激痛のあまり二度三度と悲痛な叫び声をあげる。


 男は全身に走る激痛を必死に堪えていた。このままでは突然飛び込んできた源蔵にねじ伏せられ突き出されてしまうと恐怖に脅えた。男は渾身の力をこめ起き上がり体勢を整えた。そして、源蔵が痛むわき腹に手を当ててうずくまるのを見定めると、したたかな薄笑いを浮かべぶっ飛んだ小刀を掴み取った。男の薄笑いはわき腹の痛みを堪えうずくまる源蔵を見定めたからだった。男はニヤニヤ不気味な薄笑いを浮かべ薄汚れた口から鮮血の混ざるよだれをたらしている。そして源蔵の背後に回りこみ、源蔵を見下し小刀を振り下ろしたのだ。この後、男はびっこを引き悠然と立ち去った。

 おせいを犯すために、喜一郎を刺し殺し愛犬の三太と父親の源蔵をも殺してしまう男こそ憎き権太だ。わたしは権太を許せないのだ。


 三太と男とが対峙する喧噪を秋祭りに向かう母子の耳に届いていた。子供は母親に異常なほどに吼え叫ぶ犬の声がおかしい、何か変だと告げていた。子供の指差す方角に耳を澄ませると確かに尋常でない吠える犬の声が聴こえた。当初野犬同士の争いかと思った、が、この辺りには野犬などいない。母親は思った。犬を連れ歩く誰かが熊かイノシシか熊に出くわしたのかと思った。だとしたら大変な事だ。村の世話役に急ぎ知らせなければならないと焦った。村の世話役に知らせるべく走っていた。長老格の与三郎の姿を探しだすと事の次第を知らせた。


 与三郎は訴えを聞くと顔面蒼白になった。数年前この時期に熊の出没を彼は目撃していた。されば冬眠前の食料を探す迷い熊がでたのだと思った。二人の世話役を呼び寄せ、境内で賑わう音の届かぬ所へと小走りに走った。そして、両耳に手を添えて耳を澄ませた。すると与三郎の耳にかすかな犬の叫び声が聞こえた。死する間際に発する断末に発する犬の苦しむ声が確かに聞えた。


 どうだ。いま・・聞えただろう。連れ立つ二人に尋ねた。

 確かに・・犬が致命傷を負った雄叫びが聞えたと証言した。

 与三郎らは身震いをした。これは大変だ。母親が言うように熊かイノシシと出くわしたとしたら、獣がこの境内に襲い込んだとしたならば、ここにいる祭見物客に危害が及ばないとは限らない。与三郎は見物客に悟られぬよう急ぎ十数名の手勢を集めるように指示をする。与三郎は世話役の市蔵を呼び寄せ彼を警護の責任者とした。警備を任命された市蔵は境内の外の要所に見張りを立て、万が一に備えること。見物客らにはいま少しの間伏せておく、指示するまで伏せて置かねば境内が混乱する。もし熊であれば観客らの発する歓声に恐れをなし熊は退散すると考えると知らしめた。市蔵の采配を支持する与三郎である。さらに与三郎は猟師二名を手配し一名を探索に同行させ、一名の猟師は市蔵に合流し、万が一を想定し氏神さまの境内を守ること。探索は猟師の一名が到着次第出発する。そして与三郎は自分も探索に同行すると決意を伝えた。緊迫した空気が皆に伝わった。


 境内では子供歌舞伎がいよいよ佳境に入り、程なく終演を迎えるどよめく歓声が聞こえる頃だと与三郎は思っていた。子供歌舞伎が終演すれば子供らは帰り、休憩を挟んで大人の歌舞伎が奉納される。その終演する時刻は明け方近くだ。詳細の分からぬも喫緊の今、子供らを危険に遭わすわけにはゆかぬ。子供ら皆がてんでんバラバラに逃げ惑っては危険だ。万が一を避けなければならない。何としてでも村民を守るのだと世話役一同は腹を据えた。そして、関係者全ての者は事に遭遇した場合の心積りをしておくようにと与三郎は指示をした。


 ほどなく連絡を受けた猟師の吉造と幸治の二人が猟銃を携えてきた。吉造が境内に残り、幸治が探索に同行することになった。十数名ほどの手勢を組み情報を基に探索を開始した。現場までの距離はさほど遠くない。足音立てず目を凝らし進んだ。犬の鳴き声はすでに聞こえず静かさが漂う。が数日前に熊が出没した経緯があるのだ。微妙な恐怖心を抱えながら身を引き締める。よいか鎮守様辺りまで来る前に熊を追い払うのだ。祭り見物客が加害されぬ前に追い払うのだと与三郎は叱咤激励した。世話役の与三郎は猟師を携えて雑木林の近くまできたときだ。先行く一人が道を遮る異様な物体を見つけた。


 おい。なにか、この先の様子がおかしいぞ。何かある。人かも知れない。異変を感じた先行く者が叫ぶと同時に小走りに駆け寄った。

 お~い、十分気を付けろ、突然、熊が襲ってくるかも知れぬと与三郎が促した。得体の知れぬ物体の近くまで寄ると恐る恐る遠目に視た。

 人だ!どこの誰だかわからないが人だ。

 うわずった奇声に探索の一行は緊迫した空気に包まれた。間髪入れず二三人が小走る。先の世話役が倒れている男の顔を確かめた。


 大変だ。喜一郎さんだ。村長さんところの喜一郎さんが倒れている。

 世話役らはその叫び声を聞くと皆が同時にひるんだ。とても信じられぬ。村長の息子が倒れているという意外な現実を目の当たりにし全員が立ちすくんだ。襲ったのは熊か・・と誰もがそう思った。


 世話役たちは何故喜一郎がこの様な羽目に遭ったのだろうかと推測していた。一人の世話役が言った。

 襲ったのは熊か。よいか傷口を・・よぅく視るんだ。

 遺体を調べる若い世話役が答える。いや、熊ではなさそうだ。刃物でやられているぞ。間髪空けず答えた。確か、喜一郎さんは源蔵さんとこの娘、おせいさんと一緒だったはずだ。おせいさんは何処だ。一緒にいたはずだ。

 その話を聞く与三郎は言った。一太郎さんよ。お前さんは村長さんにことの様子を知らせてきてくれないか。残る皆でおせいさんを探そう。と指示をした。


 与三郎の指示を受けた一太郎は、俺が村長さんの所へ行って来る、わかったと言い残すと一目散に駆け出してゆく。

 世話役たちは提灯をかざしおせいを探し始めた。暫くすると、ここに、ひょっとこの面が落ちているぞ。

 おーい。ここに犬が、犬が血を流して倒れているぞ。この犬は、源蔵さんのとこの三太だ。

 大変だぁ。こっちに、源蔵さんが・・・倒れているぞ。

 次々にむごい惨状の様子が明らかになるにつれ世話役たちは皆、身体を震わせている。喜一郎、源蔵、更に犬の三太の遺骸が発見された。いったい何事が起こったというのだ。村の平穏を乱す惨状に脅えた。

 残酷無比な惨状を晒す事件はかつて聞いたことが無い。近隣の村々でもこれ程の悲惨な事件などなかった。途方もない現実を目の当たりにして皆が目に見えぬ恐怖に脅えきってしまう。


 源蔵の遺体を囲み立ちすくむ世話役に与三郎が言う。

 な!なんと、なんと酷い事をやらかすのだ。まだ、そこいら辺りにいるかも知れん。とっ捕まえなきゃならん。それと、おせいさんも探せ。

 それを合図に二人一組になって捜索し始めた。

 与三郎は横たわる源蔵を調べていた。なにか手掛かりとなるものがあるのではないかと考えるからである。遺骸の脇腹と背中にある創傷は鋭い刃物による傷であった。むごい殺し方をするものだと与三郎は目をそらした。確か喜一郎さんの創傷も同じく刃物による傷だった。


 喜一郎の遺骸に近づいたその時だ。異様な物音に与三郎は首を傾けた。たしか、今、うなり声が聞えた。女の声らしきうなり声が聞えた、見当をつけた方角へ一人近づき行く。道端の駆け下がる方に提灯をかざした。すると人らしき気配が漂う、提灯をかざし、じぃっと眼を凝らした。恐怖を覚える高鳴る鼓動を感じつつ見定めると与三郎の呼吸が詰まった。


 道脇の窪みを覗くと同時に唸り声を上げた与三郎の目に映る光景は無残だった。横たわる人影を覗き見るとは胸元と下半身が露出し、あられもない姿で横たわる人影に与三郎は目を逸らした。もしやおせいさんがと目を凝らした。仰向けに倒れる女の姿を確認した与三郎は応援を求めず、おせいの名を小声で呼びかけた。


 おせいさんかい。

 お前さんは・・・おせいさんかい・・・


 呼びかける与三郎、提灯の灯りを頼りに転び落ちぬよう駆け下がりを降りた。灯りに曝される光景に与三郎は眼を剥いた。酷い、何と酷い姿なのだ。着物は泥紛れだ。さらに裂けた着物の間から肌が露出し身体の至る所に血が滲んでいるではないか。横たわる女の姿をまともに直視できない状況だった。息を呑み込み小声でおせいの名を呼び続ける。おせいさん、お前さんは、おせいさんかい。


 少しずつ声を大にして呼びかけた。眼に映る女の顔は直視できないほどに腫上っている。か弱く胸元が上下する動きが確認できる。与三郎の胸中に一瞬の安堵が過った。呼吸がある・・良かった命はある。与三郎はおせいだと確信をした。

 幸運にもおせいは殺されてはいなかった。与三郎はおせいを抱きかかえ斜面を上り、喜一郎の遺骸から離れた所へ置いた。


 急ぎ応援を求めなかったのは、痛々しいおせいの姿を皆に晒し見せたくなかったのだ。与三郎はおせいに自分が羽織る袢纏をかけた。年若い女の痛ましい姿を誰にも見せまいと着物の裾を合わせ己が羽織る半纏で娘の上半身を覆うと皆を呼んだ。

 お~い。おせいさんがいたぞ。この土手の下にいた。


 大声で見つけたと合図した。合図を聞きつけた世話役らが戻ってきた。彼らはおせいの腫上る顔面を見ると言葉を失った。与三郎も信じられぬ有様に全身が凍りつく思いをしていた。あまりにも酷い、悲惨だ。なんということだ。これは人のすることかと身震いをした。与三郎は近くにいた十治郎を呼び寄せると指示をした。


 十治郎さん。市蔵さんに伝えてくれ。此度の事は熊騒動ではなく我らと同じ人間が犯した犯罪だった。誰が殺ったのか解らぬが人殺しだった。刃物を持った不審者がこの辺りにうろつくかも知れぬ、奴も相当な手負いの筈だ。境内の警護は気を抜くなと指示した。


 程なく一太郎が村長と女房を連れてきた。女房は横たわる喜一郎の遺骸を一瞥するとおせいさんは何処、おせいさんは何処に・・無事なのかと叫んだ。おせいを見つけると駆け寄り抱きかかえ言葉をかけた。


 あんたが、おせいさん! あんたが生きていて・・・良かった。

 抱きかかえる手はおせいの背をやさしく温かくさすっていた。村長の女房の目に涙が流れていた。村長も、女房にも自分の息子の喜一郎が殺されていると知らされている。なのに他人であるおせいを先に気遣う村長の女房に与三郎、世話役たちは感動していた。そして、与三郎に促されて道端に横たわる息子の喜一郎に歩み寄り一目見やるとその場に泣き崩れ意識を失い倒れてしまった。


 喜一郎の兄らが追っかけ来た。兄らが喜一郎の無残な遺骸を視ると絶句した。だが村長は気丈だった。村長はことの有様を理解すべく与三郎を呼びよせ、事態の詳細な報告を訊いた。村長は頷くだけだった。


 なぁ。地蔵よ。こういう訳だ。この先の話は残るが、これまでの話をどう思うか。この様な非道な犯罪をしでかしたのが権太という男だ。権太という男をどうおもうか、地蔵よ、どう思うか。



 風の神の語る話を聴き終えた地蔵は言葉を失った。

 権太が犯した数々の行為に怒りを覚えた。恋い慕う喜一郎を殺した後に将来を誓い合う女を犯し、駆けつけた女の父親と犬をも殺した。地蔵は怒りを覚えた。いったい権太とはどういう人物なのだ。犯罪に走る権太の心理を探り、この男の根源を探り当てねばなるまいと思った。


 地蔵は考える。人間は集団社会を構築し知能の発達を以って生活道具を作った。そして領土を守るために、狩猟のために武器を作った。知能の発達は衣食住を安定させた。社会を営む上で最も重要なことは慈愛を以って他者に接するこころを構築することであるが順風満帆に事は運ばなかった。社会に馴染まず自分勝手な理を以って行動する者の出現がある。彼らは社会の恩恵を受けながら我欲を貫き、他者の利益を排斥し己の利益のみを追求する自己顕示欲の強い者の出現である。その者らは社会の平穏を乱すのであるから始末が悪い。


 欲望という欲の原点を突き詰めれば食欲、睡眠欲、性欲という三大欲に集約できる。世にはびこる犯罪者の原点はこれら三大欲から派生する何れかに該当し起因すると考えられる。


 見落としてはならないことがある、それは三大欲望が即座に悪事に発展するとは言い切れないという事である。食わねば死す。眠らねば精神障害を引き起こしやがて死す。性の交わり無くて生命継承は途絶える。人類以外の種の継承保存を視れば相手を選ぶ決定権はメス側にあり、メスが交尾を拒否すればオスは諦める。これが動物社会での暗黙の掟だ。


 ではなぜ権太は掟をいとも簡単に破るのだ。人間どもは動物が備えぬ理性を育んだ社会を構築している。因って人間社会は三大欲望から派生する数々の欲望という欲を理性にて制し平穏を保つ。ではなぜ、権太はそれに従わないのだ。社会の掟を破り破廉恥な行為をする権太の様な男がなぜ現れるのだ。地蔵は考える。独りよがりな快楽を得たいが為に権太は独りよがりな享楽に堕ちたのか。であるならば獣にも劣る破廉恥な行為であり決して許せぬと怒りを覚える地蔵だった。


 よいか地蔵よ。女の腹に宿る子供の父親は権太なのだ。権太の資質を受け継ぐ子供が女の腹に宿るのだ。もし男児だとすれば社会を乱す行為を受け継ぐだろう。女児だとしても男を誘惑する女になるのは目に見える。淫乱の血を受け継ぐ女は社会を乱す。だからわたしは苦痛を感じぬ今だからこそ葬ろうとした。



 風の神よ。お前さんの話は良く解った。わかったが聞くがよい風の神よ。

 如何に権太の血を受け継ぐ子供を宿したとしても、娘はあの娘は両親から世の習いを躾けられた娘だ。やって良いこと悪いことの判断をしっかり躾けられた娘なのだよ。そのおせいが育てるのであるから何ら問題はないとわたしは思うのだ。いいか、風の神よ。その証拠を見抜けぬとはお前さんは愚か者だ。


 わしが愚かだと。何を言うか地蔵。

 良いか風の神よ。しっかり聞けよ。あのおせいをじっくり視るのだよ。多くの女は恋する男を殺され、その上父親と犬をも殺した男の子供など生み育てようとはしないはずだ。

 ではなぜ、あの娘は、おせいはそのような男の子供であっても産み育てると決心したのかを考えても見ろ。ここが大事なところだ。おせいは命を尊ぶからだ。幼い頃に命を尊ぶこころを教えられている。物の価値を見極めるこころを育んだおせいとて悩みぬいただろうと思う。自分を犯した男の子供を宿したと知ったとき、身を裂かれるほど悩み抜いたと想像する。


 おせいという女のこころを検証するのだよ。なぁ風の神よ。考えるのだよ。望まぬ命とて命という命の尊さに変わりはない。人として継承した尊い命である、限りのある一度限りのいのちだ。一旦失った命を再び授かろうと願うも叶わぬ。今一度いう。絶大な神力を有する風の神とて叶えられぬ一度限りの尊い命なのだ。犯罪者の血を受け継ぐ命であっても尊い命に変わりはないのだ。まして・・胎児は何ら罪を犯していないではないか。


 命の大事を知るおせいは、たとえ極悪人の子供とて慈愛を以って躾をすることだろう。躾を間違えなければ他人様に恨まれる人間にならぬと考えているからである。違うか・・風の神よ。おせいという娘は確たる確信あるからこそ産もうとしている。風の神よ、それが解らぬか。愚か者メが・・おせいは自らの命を楯にして胎児の命を守っていたのだ。風の神よ。分からぬのか。

 もうひとつ訊き尋ねたいことがある。風の神よ。 こころを 砕いて考えてくれまいか!


 なんだ。何のことだ。

 如何にあくどい事をしたとしてもだ、何故お前が断罪した。あの男はいずれ役人に捕らわれ、定めた法の下で裁かれるだろうに。なぜに人間でないお前が裁き、死に値すると断罪を下したのだ。


 なるほど。そのことか。地蔵よ。地蔵良く聞けよ、

 幾度でもいうが、あの権太という男は己の性欲を満たすために先ず喜一郎を殺したのだ。これは、先に話した通りであるから地蔵、分かるだろう。権太という男は欲しい物を奪い取るという我欲を貫き通した末の犯行だった。此度の事は異常で貪欲な性欲を遂行した。性の欲望を自制出来ぬほど、貪欲な性欲がこころの内に渦巻いている男だ。性行為の快楽を一旦知った上での我欲の矯正は不可能である。矯正しきれないのだ。それはあの男が受け継いだ遺伝資質にその因が有ると推測する。男の愚行思考の源泉を暴けば己の利益のみを追求することにあった。己の利を求めるは他者の利を容赦なく切り捨てる貪欲な思考に始まる。その行為を遂げるためには決して容赦などしない非道ぶりなのだ。喩えをあげれば、握り飯を食う者の手から握飯を分捕り喰うほどだ。この男の言動、その全てに社会を乱す心が宿る。それは非社会的で自分勝手な価値観を持つに起因する。この男にとって社会通念等と言う約束事を尊ぶこころなど皆無なのだ。


 男が非社会的な心を持つのは躾の失敗か、或は遺伝的欠陥にあると推測する。先天的欠陥、つまり、受け継ぐ資質が因とすれば、既に大人である権太への矯正は難しい。幼いころの躾でのみ効果がある。がその躾の失敗だとしてもだ、すでに大人であるから手遅れなのだ。徹底的に社会通念を教育したとしても、誤った固定観念は凝り固まっており他者の意見など聞く耳を持たない。矯正するにはすでに遅い。であるから悪癖を矯正しても、それはうわべだけの体裁に終わる。矯正を施したとしてもそれは目先の矯正となるだろう。


 その様な者を世に放てば事有るごとに再び悪癖のこころが疼き出し、隠していた我欲が再び露呈するだろう。あれ程の大それた事件をしでかした男だ。人間の心を持たない者へ、こころの矯正とは不可能に近い。いや、断じて言う、不可能だ、権太への矯正は絶望である。


 わたしは、あの男から奴のこころを聞き質した。男の過去を洗いざらい検証した。検証すればするほど本性が見えてきた。本性を精査すれば人間性らしさがなかった。人間らしさとは他者との協調を尊ぶ心だと思うが地蔵、どう思うか。


 権太は己の欲望を満たすために手段を選ばない。他者が手に持つものでさえ分捕る。すべて自身に利益をもたらすことを最優先する。欲望を満たすために人間性を以って制することができない破壊した価値観と腐敗した資質に起因するのだ。であると考えるから矯正はできない。矯正するには遅すぎるのだよ、地蔵。地蔵こそ心を砕いて聞くがよい。


 女が願う将来の夫となる男を殺害した後に男が愛する女を孕ませ、娘の父親と犬の命までをも奪い去った男を私は看過できない。許せないことだ。故にわたしはあの男に対し死を与えたのだ。断罪をしたのだよ、地蔵よ、死を以って清算させたのだ、まだ解らぬのか。


 聞けば聞くほど冷静を失う驚愕する話であった。人の世にこのようなことがあるのか、聞く耳を覆いたくなる話に地蔵のこころは震えた。風の神の証言は現実に起こった事実なのである。権太とはどの様な生い立ちを経て現在に至ったのか、そこが解らぬ。権太の生い立ちを知ることは重要なことである。すると風の神の証言には肝心な部分が抜けている。


 風の神よ。教えてくれまいか、権太の生い立ちを・・

 権太の生い立ちを、余すことなく語ってくれまいか・・

 眼下の残雪はすでに消え去っていた。風の神の神力に封じられた春が季に合わせるごとく蘇っていた。暖風は眼下の集落を包んでいた。されば、あの娘は凍えることなく無事にふもとへと辿り着けるだろう。心配なのは胎児、何事もなく育ってくれと地蔵は願っている。


 待てども・・返答はなかった・・どうした、風の神よ、なぜに応えてくれぬのか!

 風の神よ~ 権太の生い立ちを・・語ってくれまいか・・


 先の風の神は胎児を闇のままに葬ることを決行しつつあった。風の神は胎児への処遇に至る訳を語るもなぜか地蔵は腑に落ちぬ思いが生じるのだ。恐らく権太とて自分の子種がおせいに宿るとは思いも寄らぬ事であったとも推測する。いや、この推測は違う、この考え方は違う。このような推測は部外者が被害者の心情を察せぬまま言い放つ無責任な憶測に当たる。


 権太は独りよがりな快楽の享受を得る目的を果たした結果受胎に至ったのである。であるから風の神に因る権太への処遇は心情的に理解できる。だからと言って風の神の手による胎児への処遇は間違っていると地蔵は考えるのであった。胎児への処遇は誤っていると地蔵は確信していた。おせいという娘は風の神の誤った神力に翻弄されていたと地蔵は考えていた。


 われとて性行為は種の継承・保存を目的とする行為であることは承知している。性行為とは神聖な行為であり夫婦間のみ許されると承知している。夫婦は生涯を共にし、他人の子種を宿すまい、己の子種を他人には宿さぬと人間は倫理を発達させ定めているではないか。その掟を権太は我欲という暴力で犯した。結果おせいは妊娠してしまった。処罰せねばなるまい。強姦による妊娠という現実をどのように処すればよいか。堕胎か否かだ。じっくり時間をかけて考えるだけの時間はない、ないが命の処遇という重き決断すべき人物とは、おせい当事者に委ねるしかない。周囲の者は先々の、先々の多くの苦難あることを助言するのみだろう。風の神にはその決断を下す資格はないのだ。


 不遇の子供を産み育てることに多くの課題が生じる。思うにおせいは腹をさすりながら幾日も悩み苦悩していたはずだ。本人はもとより、母親のお里も非人道的な現実に堪え切れなかったはず。だがおせいは命とは尊いものであると考えていた。それは、命を、個の命を受け継ぎ独立すると考えれば別人格であると。親の人格と子供の人格とは別人格なのである。であるから犯罪者の人格とその子供の人格とを同一視し接してはならない。なぜならば喩え悪癖という資質を受け継いだとしても、自我が芽生えぬ前に、社会性の大切を躾ければよいのだとおせいは考えていたと見られる。その根底には命を宿す人命とは尊いものであるという考えを父母から教えられていたからだ。であればおせいは宿る子を産み育てたいと母に告白する筈だ。


 おせいと喜一郎はその時々気付いたことを事あるごとに語り合っていたと風の神が語っていた。子供の顔立ちや体つきが親に酷似している。女の子であれば仕草、語調、後ろ姿が母親に似る。女の子の声質が母親とそっくりで聞き間違うことがある。母娘とはそれほどまでに似るものかとおせいは喜一郎に尋ねていたという。

 喜一郎は空を見詰めながら考え込んだ。空を仰ぎみる沈黙の時が流れる。沈黙を経た後に答えた。


 命の伝承は生殖によって人間の姿かたちを伝承すべく資質が伝承されるから両親と酷似すると思う。遺伝とは先祖さまの資質をも隔世遺伝として受け継ぐこともあるから両親のご先祖さまの誰のこころを受け継ぐものかわたしには解からない。ともかく受け継いだ資質の全てが幼いころに即反映するとは限らない。それらはある時期に伝承されていない才能が突然芽生えることもあると考えられる。逆に好ましくない資質も何らかのきっかけを以て出現する。しかし、人間として人格形成の基礎となる資質を育む時期を考えるに、幼い頃に両親がもたらす躾が最も有力だと思う。物心が芽生えるまでの時期は母親との接触が多い故、母親から受ける影響は大でその内容次第だと思う。


 生活環境や社会的境遇から影響をされてそれら固有な感性が育つ。子供は周囲の人々との交流をもって多くを学びつつ影響を受けてこころが折れ挫折することもあるだろう。われらはそれらの苦難を乗り越えて成長すると喜一郎は答えていた。人格形成の適した時期とは幼年期だと思うと喜一郎は答えていたという。


 おせいは喜一郎から沢山の事を学んでいた。此度、願わぬ児を身籠ったと知ったとき、おせいは育てることに躊躇していなかったと思う。

 お腹の子は忌まわしい権太の血を受け継ぐが、私の血も受け継ぐ。資質に因る容姿がどちらに似るかはわからないし、どちらが強く出るかわからない。

 生まれ来る子供の風貌は親にそっくりな者が存在するし、ものの考え方も親と同じような思考を発揮する者がいることも知っている。でも、しかし、わたしの血も混ざるのだから・・わたしのこころを受け継ぐ可能性はあるのだ。であればわたしが全力を以って他者に対する優しいこころを育てる。それで良い。わたしが優しい心を宿す子に育てるのだ。


 このわたしが・・他人のこころを労わる感性を躾け育てればよいのだ。温和で芯の強い子供に育ってくれれば良いのだとおせいは決断していたのだろう。

 喜一郎が言うこころの在り処は母親となるわたしとの生活の中から受け継げば良いのだと・・そしてこれから出会う人々に多大な影響を受けるが善悪の判断ができる子になっていればよいのだ。要は物心が芽生える前に両親が社会に通じるしつけをし終えることが大事なんだと喜一郎がおせいに話していたではないか。


 そして、わたしが愛した喜一郎が遺した言葉を男親として活用し育てればよいのだ。この子にも躾を受ける権利はあるのだ。必ずやるのだ。とおせいは信念を強めた。だから、私は社会の中でこの子を必要とされる人間に育てたい。宿る命を闇の中に葬ることは出来ないのだとおせいは考えていただろうと地蔵は考えている。今この場でその結果を確かめる手段はないが、いずれそれは判る。凶とでるか吉とでるかは先の事だ、いずれ判るだろう。


 なぁ。風の神よ。あの女の、おせいの切なる想いを実らせまいか。我々は見守るだけでよいのだよ。

 風の神は地蔵に投げかけられ言葉を咀嚼し精査しているのだろうか、応えてこない。


 地蔵は風の神の考えを待つことにした。

 沈黙という時空が静かに流れゆく・・

 ふと眼下の山里を眺めると集落の景色は一変していた。遠くに見える民家の屋根を覆う雪は解けている。つい先まで野山一面を冬の残る春景色であった光景の中にせせらぎの音が鮮明に響き広がる。風の神は強靭な神力を解いてくれたのか・・ ありがたい・・・


 地蔵はこころを集中させて瞑想している。娘は権太に女の仕合せを奪われた。その悲運を地蔵は哀れんでいた。想えば、好きあっていた喜一郎との逢瀬は三年余の月日だった。互いに逢えば胸を焦がし合い、逢えぬ時にも互いに想いうかべてはときめきに浸っていただろうに・・

 喜一郎とおせいとの仕合わせな青春を一瞬にして閉じられてしまった。肌さえ触れ合えぬまま一瞬にして命を奪われてしまった。おせいは喜一郎に惜しみなくわが身を委ねる日の訪れを心待ちにしていた筈である。残念でならない。


 風の神から解放されたこの後、喜一郎との出会いで得た知識は大なる糧となることであろう。それは月満ちれば一児の母となるからである。また、おせいは多くのことを父母から学んでいた。これより後、おせいは苦難の道を、多くの経験を積まねばならない。母のやさしさ父の厳格を基礎にして女一人で生き抜かねばならない運命を背負ったのである。

 地蔵は風の神の神意を聴くべく待っている。


 完


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路傍の花と地蔵 ほうがん しゅん @sarasapaipaipai

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