95 夢のあと 後編

 あれから。

 織田信長は、美濃を手中にした。

 かつての斎藤道三の居城、稲葉山城を落とし、美濃を手中にした。

 道三の嫡子だった男、一色義龍は桶狭間の戦いの翌年に亡くなり、その時は義龍の嫡子である龍興たつおきが美濃の国主であったが、慢心はなはだしく、また家臣の統率に失敗し、そこを信長に付け込まれて、結局は美濃から追い出される羽目となった。

 なお、その美濃攻略戦において、今孔明・竹中半兵衛や斎藤利治、そして木綿藤吉が重要な役割を果たしたのは、言うまでもない。



 射干玉ぬばたまの夜の中。

 かがり火が輝いている。

 ホウホウ、というかけ声が響いている。

 ここは美濃みの、長良川。

 真夏の夜、かがり火をたいて、という水鳥を使って、川の中を泳ぐあゆを捕まえる、伝統の漁――鵜飼うかいの真っ最中だ。

 鵜飼いの鵜を使う漁師たちを、鵜使いという。

 その鵜使いたちのかけ声が、ホウホウというかけ声。

 それを聞いて鵜は落ち着いたのか、おもむろに水中に沈みこんだ。


「おお」


 信長が叫んだ。

 鵜は水中に飛び込んだかと思うとすぐに上がって来て、鵜使いが鵜の喉から鮎を出させる。

 獲れた鮎は、石焼きにして運ばれてきた。


「うん。旨い」


「美味ですな。これは」


 信長の隣には、松平元康改め徳川家康が座して、石焼きの鮎に舌鼓を打っていた。

 この時、信長と家康は、互いの娘と息子の婚約を結んでおり、同盟者である上に、親族であるともいえた。


「しかしわざわざ織田のお方さまに焼いていただくとは」


 家康が振り向くと、帰蝶は手を振って応えた。そしてまた下を向いて、次から次へと鵜使いが運んでくる鮎を焼いている。


「……ありがたいことですな」


 そういえば今川義元も、いわしを獲って来ては、たまに塩焼きにして家康に馳走してくれたことを、ふと思い出した。


「…………」


「……こうしてこの場で鵜使い、否、今度、鵜匠という呼び名を与えて召し抱えようと思うが、その鵜匠の漁を見ると、その時、隣にいた人のことを思い出してしまうと言うてな」


「思い出してしまう」


 家康が反芻すると、信長が斎藤道三のことだ、と補足した。


義父上ちちうえとこの鵜匠の漁を見て鮎を食べて、それでこの信長のもとに嫁ぐ話が出てきた、と」


「……さようでござるか、娘、としての最後の父との夕餉ゆうげでござるか」


「そんなとこだろう……」


 信長が酒を注ぐと、家康は恐縮しながら飲んだ。

 ぷはあ、と息をつく家康を見ながら、信長は呟いた。


「思えばその時より始まった」


「それは」


 家康は目をしばたたかせる。

 同盟相手、親族とはいえ、気が抜けない。

 美濃を制した信長は、今や、戦国大名の雄として、一頭地を抜いた存在だ。


「それは……時、でござるか」


輿乗よじょうの敵」


 信長はそこで酒杯を傾ける。

 家康は輿乗の敵という言葉を思い浮かべ、漢字を当てて、その意味を知る。


「…………」


「そうよ、家康どの。そなたの一個前の海道一の弓取りよ」


 今、徳川家康は海道に覇を唱え、「海道一の弓取り」の異名をものにしたが、その前の「海道一の弓取り」とは――今川義元である。


「義元、いえ、失礼」


「失礼ではない。予もまた今川義元という一個の傑物に、敬意を表しておる」


 信長が佩刀をちらりと見せる。

 銘、義元左文字よしもとさもんじ

 あの桶狭間の死闘で、義元が振るった名刀そのものである。

 なお、信長は左文字を短くし、さらに「義元討捕刻彼所持刀」と金象嵌銘を入れされている。


じゃ……あれほどの敵、なかなかいるものではない」


 その敵に勝った記念しるしということか。

 家康はそう思った。

 信長は話しつづける。


「その輿乗の敵との物語、予と帰蝶の、敵との物語……家康どの、聞いてはくれぬか」


「うかがいましょう」


 見ると周りには、木下藤吉郎秀吉(木綿藤吉)、森可成もりよしなり、前田利家、柴田勝家、林秀貞、河尻秀隆、蜂須賀小六らの諸将が勢ぞろいしている。

 皆、その話を聞きたいらしい。

 輿乗の敵の話を。


「遅うなったわ。えろうすんまへん」


 固唾を飲んで信長の語るのを待っていると、横合いから帰蝶と一緒に鮎を持って来た男がいた。


「十兵衛どの。一体、今まで、どこへ」


「どこて」


 明智十兵衛は頭を掻いた。

 あの桶狭間の戦いのあと、十兵衛は「旅に出たくなった」と言って、尾張を去った。

 信長に仕えるだの、斎藤家いちの武者だの、散々言っておいての旅立ちだが、十兵衛に言わせると、旅にでも出ないと、自分もまたおおをしたくてしたくてたまらなくなる、とのことである。


「しばらく旅に出て、昂る頭を冷やしてくるわ」


 そうはいたものの、熱田から堺へと帰る千宗易せんのそうえきに随行していたあたりに、信長と帰蝶の意志が感じられる。

 そしてちょうどこの――長良川の鵜飼いの宴に間に合うあたりにも。


「……ま、堺のあとは、京や。おはん、元気にしとったで」


「まあ」


 山崎屋おは、結局、京にいることを選んだ。

 何でも、山崎屋庄五郎――斎藤道三との出会いの地であり、共に商いにいそしんだ地であり、そして太原雪斎という碩学せきがくと知り合った地でもあるから、と。


「……ま、そっから先は、まだ内緒や。許したってぇな」


 十兵衛は片目をつぶると、いそいそと鮎を運んでいく。

 運んでいった先では、木下藤吉郎が待ちかまえていて、さっさと十兵衛から鮎を受け取る。

 かっさらうように。


「……なんやねん、ワレ」


「何でも、よかろ。よ、よ」


 藤吉郎は抜け目なく、主賓の家康のところへ「おかわりでござる」と鮎を運んでいく。

 家康は一礼してそれを受け取ると、実は待ちきれなかったのか、もしゃもしゃと食べ始めた。

 それを見ていた柴田勝家などは「おい。こっちはどうした」と怒鳴るが、そこは藤吉郎の弟・小一郎が出て来て、「兄が失礼いたした」と頭を下げつつ、鮎を持って行く。

 そこまで来ると、もはや主客の別なく、われ先にと帰蝶のところへと鮎を貰いに行く者が続出した。

 ちなみに、一番に帰蝶の前に来たのが、織田信長であったことは言うまでもない。



 ……夜はけ、なみいる群臣らもその場で寝入り、家康も迎えに来た服部半蔵と共に、宿所へと戻っていった。

 半蔵は信長に対して意味ありげな視線を向けていたが、十兵衛に「早よ帰れ」と言われ、藤吉郎には憐憫を込めた目で見られ、最後に家康にたしなめられて、一礼して踵を返した。


「やれやれ」


 、しつこい奴よと信長は扇をひらひらとさせた。

 

「……それだけ、今川義元さまへの想いが強うございましたのでしょう」


 帰蝶が隣に座った。

 気づくと、ふたりきりだ。

 信長は、少し聞きたいことがあると断りを入れた。


「……に、に座ると、思い出してしまう、というのは嘘であろう」


「わかりましたか」


 帰蝶は笑った。

 それはそうか、と。

 何しろ、他ならぬ信長自身が語った。

 輿乗の敵の物語を。

 その物語において、まずもって語られるのは織田信秀であり、平手政秀であり、そして斎藤道三である。


「本当は……怖かったのです」


 信長の目線が「何が」と言っている。


「こうして……この座に座ると、その隣の方がうなってしまうのではないか、と思うと……怖いのです」


 斎藤道三は帰蝶を織田家に送り出した。その後も帰蝶との交流はつづいたが、最終的には非業の死に斃れた。

 だから帰蝶は思うのだ。

 もしこの場に、帰蝶の隣に最愛の人がいて、座ったとしたら――と。


「それは、そうだな」


 信長はため息をつく。

 帰蝶の心配はもっともだ。

 この乱世、いつ斃れるか分からない。


一度生ひとたびしょうを得て、滅せぬ者の、あるべきか、か……」


 信長が好む幸若舞「敦盛」の一節である。

 隣を見ると、帰蝶が震えているようだった。

 信長は、そんな帰蝶の肩を抱いた。


「濃」


「信長さま」


 ふたりきり。

 とするような抱擁である。


「濃」


「はい」


「……その時、義父上ちちうえはもしや、こう唄われたのではないか?」


 信長は唄った。

 その唄を。


「あ……」


 ――死のふは一定いちじょう しのび草には何をしよぞ 一定かたりをこすのよ


「濃」


「はい」


「人は皆死ぬ。だからこそ……だからこそ、語り草となるべき何かを、したい。そう思うのではないか」


「怖がることはいい。人間として、それは自然じねんのこと。しかし」


 精一杯生きること。

 せいまっとうすること。


「……たとい、語り草とならなくとも、予は……いや、おれはそうしたい。濃、お前はどうだ?」


「わたしは……」


 帰蝶が言おうとすると、信長は立ち上がり、手を伸ばした。


「何かをそうとしても、道半ばで斃れるかもしれない。あるいは、したとしても天魔の王と呼ばれるかもしれない。それでも、濃よ」


「皆までおっしゃいますな」


 帰蝶は、信長の手を握った。

 強く。

 そして立つ。

 信長の隣に。


「わたしも、共に……共に、しましょうぞ。たとい、語り草とならなくとも。たとい、道半ばで斃れるとしても。天魔の王と呼ばれても」


 ……天に、夜天に、星々が輝いていた。

 その星々のに、見守っている誰かが、いるような気がした。

 そしてその誰か――一人ではない、何人かが、唄っているような気がした。


 ……この物語は、その唄で終わろうと思う。

 ここまでこの物語を見守ってくれていたあなたに。

 その唄を唄って。






 ――死のふは一定いちじょう しのび草には何をしよぞ 一定かたりをこすのよ






輿乗よじょうの敵 ~ 新史 桶狭間 ~』   【完】

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