94 夢のあと 中編


 世にいう「桶狭間の戦い」で、当事者である織田と今川以外で、最も影響を受けた者といえば、松平元康であろう。

 元康は大高城から三河へと舞い戻った。

 しかし、元康の予想通り、今川義元という巨星が照らしていてこその三河の平和だったが、それは早速に乱れていた。

 土豪や国人、果てはいくつかの寺までもが蜂起して、それぞれが、それぞれの自由に、松平勢を昼に夜にと襲った。

 これには元康も抗しきれず、彼は率いてきた軍勢と、松平家菩提寺である大樹寺という寺に、うのていで逃げ込んだ。

 逃げ込んだはいいものの、今度はその土豪や国人や寺どもが連合して一揆と化して、大樹寺を取り囲んでしまった。 


「もはや、これまでか」


 織田信長が見逃がすことを約したとはいえ、三河国内に入ってしまえば、織田の影響は及ばない。そこから先は、自力で何とかするしかない。

 こうして叛乱勢力が固まった以上、松平勢を糾合できれば、何とか勝ちを収められようが、今の元康は一人だ。

 何もできはしない。

 そう思われた。


「かくなる上は、致し方なし」


 元康は切腹の覚悟をした。

 そこで、近くにいた若い僧侶に、住職である登誉天室とうよてんしつを呼んでくれるよう頼んだ。


「元康どのは、死ぬ覚悟ですか」


「察していたのなら、話は早い。これより、先祖の墓の前で……」


「お待ち下さい」


 その若い僧侶は、驚くべきことに、懐中から百舌鳥もずを取り出した。

 そして何事かを懐紙に書き付けると、百舌鳥の足に結び、「それっ」と百舌鳥を飛び立たせた。


「ご、御坊ごぼうは何ごとぞ?」


「いやいや……」


 その若い僧侶(天海と名乗った)は、実は元康にぜひ会いたいという人物を、正確には元康の家臣の死を看取った人物を、元康と会わせるために、この大樹寺で待っていたという。


「であるのに、切腹されては、会わせることができませぬ」


 生きてあれば、良いこともあると申しますのに、と天海は笑った。

 元康はその笑顔に、天海もまた、切腹あるいはそれに匹敵する目に遭ったことがあると悟った。


「だが御坊、いくら切腹はやめると申しても」


「先ほど、百舌鳥を飛ばしました相手は……」


 天海はある意味、人の話を聞かない。

 もしかしたら、貴人の生まれだったのかもしれない。

 そう元康が考えていた時だった。


「元康さま!」


「おう、登誉天室さま」


 大樹寺の住職、登誉天室が場に飛び込んできた。


「て、寺の周りが」


「聞いておる。やはりこの元康が切腹して彼奴きゃつらを……」


「い、いえ、ちがいまする。寺の周りの一揆の者どもを、さらに兵が囲んでおりまする……こ、これは、元康どのの兵では?」


「何!」


 元康が寺を出ると、そこには一揆勢を相手に、五百人ばかりの兵が戦っていた。


「こ、これは……!」


「あ、元康さまだ! おーい、元康さまあ!」


 少しく少年らしさを感じさせるその呼び声は、先の桶狭間で初陣と元服をしたばかりの、本多平八郎忠勝のものである。

 忠勝は、愛槍・蜻蛉切とんぼぎりを振るいながら、隣の人物に、元康のことを教えた。


「あれなるはわが主、松平元康、健在でござる!」


「承知」


 その隣の人物もまた、手裏剣やつぶてなどを用いて一揆勢を攻撃した。

 そして、ついに忠勝らは一揆勢を撃退し、元康と合流を果たす。


「皆の衆、よくぞ……よくぞここに来てくれた。というか、よくここにいたのが分かったな」


「こちらの御仁ごじんのおかげでござる」


 忠勝はよほど嬉しかったのか、隣の人物の背をばんばんと叩いた。

 隣の人物も悪い気はしなかったらしく、はにかんだ笑顔を浮かべた。

 元康はその様子を見て、その人物を好もしく思った。


「そなた、名は」


「まずそれよりも、こちらをお納めください」


 その人物は懐中より紙に挟んだ何かを差し出した。


「服部正成どのの、ご遺髪になります」


「何と」


 服部正成は、あの桶狭間の戦いにおいて、元康が今川義元のために、特にと差し向けた、松平家いちの武者である。

 桶狭間の戦い以来、生死不明となり、行方知れずとなっていたが、やはり亡くなっていたのか。

 元康の驚愕を受けて、その人物は正成の死を「今川義元公を守るため、死力を尽くして戦われた結果」と説明した。


「……その戦いの相手は、織田家いちの武者、毛利新介でござる」


「……そうであったか」


 毛利新介といえば、他ならぬ今川義元の首を取った、剛の者と聞く。

 それを相手に死闘を演じたとなれば、致し方ないことであろう。


「では拙者はこれで」


「待て。おぬし、ひょっとして……津々木蔵人どのではないか」


 桶狭間の戦いという衝撃的な出来事により、つい忘れていたが、元康は思い出した。

 たしか、今川義元の甥で、尾張那古野氏、つまり今川氏豊の息子。

 尾張に潜入して、織田信行に取り入り、尾張をかき回していたが、義元の尾張入りの折りに、駿府へ舞い戻った。

 そして「あの」斯波義銀しばよしかねのおりをさせられていたが、義元が豁然大悟かつねんたいごしたことに伴い、そのお守りから解放され、あるいは謀臣として、あるいは武将として、今川の臣として動いていたはずだが……。


「……そうか。おぬし、正成と共に、織田信長に挑んだのか」


「……最初は、拙者のみでつもりでござった。ところが、正成どのが」


「共に、とでも抜かしたのであろう。あやつらしい」


 元康は懐かしむように、うなずいた。

 一方の蔵人は、やりきれないという風に首を振った。


「拙者は不心得者でございます。拙者など、正成どののなかばも役に立てませなんだ。正成どのがいたからこそ、織田家いちの武者、毛利新介の足止めができました。が、それも……」


「みなまで言うな」


「…………」


 蔵人としては、正成の最後の願いだった「ひと目、主の松平元康に会いたかった」という願いを、及ばずながら、遺髪だけでも果たそうと思って、これまで生きてきた。

 幸いにも、桶狭間の戦いの直後に、知人の僧侶に会うことができたのは僥倖だった。

 その僧侶は、大樹寺に伝手があったため、先行して松平元康の到着を待ってもらった。

 そして蔵人自身は、三河の各地を渡り歩き、元康と出会えないか探していたところ、ちょうど同じく元康を探していた本多忠勝と出くわしたわけである。

 忠勝が生真面目に、正成について蔵人に礼を述べている。

 その光景を見て、元康もまた礼を述べながら、聞いた。


「蔵人どの……そなた、行くはあるのか」


「ございません……父の墓にでも行って……」


 この時、寿桂尼により今川氏豊の喪を発せられていた。それは今川義元という巨星の死により目立たなかったが、少なくとも、蔵人はそれを聞き知っていた。

 おそらく、寿桂尼としては、行方知れずの孫の蔵人へ伝わることを予期して、喪を発したのであろう。


「元康どの。この者を召し抱えて下され」


 その声は背後から。

 たしか、先ほどの。

 元康が振り向く。

 蔵人が渋い顔をする。


「信行さま、ではない、天海どの、要らぬ気遣いを……」


「良いではないか。その服部正成どのを弔ったのは拙僧。この大樹寺との縁があったのも拙僧。そなた、その拙僧の言葉を聞けないとでも?」


「……出家する前とはえらいちがいですな、拙者を言葉で弄するとは」


「お互いさまよ」


 そう言って天海は、はははと笑った。

 そしてついでとばかりに蔵人に名を変えるように勧めた。


「津々木蔵人のままでは、尾張の隣国・三河にいるのでは、都合が悪かろう……そうだ、その正成どのが果たすべき働きを代わりに果たす、ということで、服部正成の名をもらったらどうだ」


 蔵人は仰天して目をく。


「滅多なことをおっしゃいますな。そんなの、あの世の正成どのが」


「いや、良いのではないか」


 これは元康だ。

 そして元康は言う。

 服部正成は伊賀から流れて来た身で、天涯孤独。

 跡を継ぐ者はいない。

 なら、いっそのこと、その名を……と。


「いや、そもそも、拙者、松平どのに仕えると決めたわけでは」


「かなうのではないか」


 天海が突如言う。


「何を」


 蔵人は天海に、織田信行の頃のがまるでない、と辟易していた。


、という願いが、かなうのではないか……と言うたのじゃ、蔵人」


「…………」


 詭弁だ。

 だが今、松平元康が窮地にあり、それは三河国内を始めとする、情報収集の不足によるものだというのは事実である。

 だから、一揆勢などに跳梁跋扈され、不意打ちを食らう。

 そこを、間者を使うことや諜報に長けた自分が助力すれば。


「蔵人どの、おぬしの義元どのの下での、用間ようかん(間者を用いること)の手腕、見事でござった。ぜひに……ぜひに、この元康に」


「…………」


 本多忠勝は、どうしたものかと元康と蔵人の双方へ目線を泳がせる。

 しかし、この、今は津々木蔵人なる者の手並み、鮮やかだったことは事実。

 だから頭を下げた。


「この平八郎もお願いいたす。貴殿の敵を知るや敏なること、それがしも学びとうござる。ぜひに、ぜひに」


 これには蔵人も虚をかれた。

 思えば、これまで太原雪斎や今川義元といった先人を追うばかりで、こうして「追われる」ことはなかった。

 悪い気はしなかった。

 どうせ、目的を失ってしまった人生だ。

 ならばもう「津々木蔵人」はやめにして、「服部正成」として生きてみるか。


 ――それで良いのだ、蔵人。


 そんな声が聞こえた気がした。

 それは、雪斎のようであり、義元のようであり……そして、聞いたことのない、父・氏豊の声のような気がした。


「……承知しました」


「おお」


 駆け寄ろうとする元康に、だが、蔵人は手を振った。


「ただし、いみなは服部正成どののもので良うござるが、さすがに通り名は拙者の考えた名にしていただきたい」


 元康が天海を見ると、天海はうんうんとうなずいた。


「まあ、さすがにまったく同じというのも、恐れ多いだろうし。何より、元康どのも先代の服部正成どのと区別がつくまい……よろしいのではござらんか」


「いや、私も異存はござらんが」


 忠勝がそこで無邪気に、何と名乗るのですか、と聞いた。


「……半蔵」


「半蔵」


 何ゆえ、と天海が問う。


「拙者、正成どの半ばも及ばなかった。されど、向後は半ばには及ばんと思う。ゆえに、半蔵」


「よかろう」


 元康は破顔し、よろしく頼むと、津々木蔵人改め、服部半蔵の肩を叩いた。



 さて。

 松平元康は、「巻き込まれた」という意味で、桶狭間の戦いから、最も影響を受けた。

 では、積極的に、というか、桶狭間の戦いに利して、最も激しく動いた戦国武将がいる。


「何?」


 その武将は、近侍から酒杯に酒を注がれながら、桶狭間の報を伝えに来た家臣から、再度「その結果」を問いただした。


「織田信長が、あの今川義元に、勝ったと申すか……」


 酒杯をあおる。

 その武将にとって、の話題は、何よりのさかなだ。

 その武将――主君が気を良くした様子を見て、家臣はおもねるように、まさか織田如き小身しょうしんが、今川のような大身たいしんを、と織田を嘲るように言った。

 その武将は秩序を重んじる。格式を軽んじない。

 それゆえにこその阿諛あゆである。

 が、家臣はその時、主君の胸中を見誤った。


「たわけ」


 その武将は酒杯から口を離し、えた。


というものだ! この……不心得者がッ!」


「ひ、ひいっ」


 お許しを、と叫ぶ家臣に酒杯を投げつけ、追い払い、その武将――長尾景虎ながおかげとら陣触じんぶれを告げた。


「……出るぞ! 海道一の弓取り、今川義元が死んだ今こそ好機! まずは関東だ!」


 あの海道一の弓取りが、三国同盟の中で一番厄介であった……と景虎はひとりごちた。

 だがその義元はすでに亡い。

 武田信玄と北条氏康を手玉に取り、それらを双頭の蛇と化して機能させる、一代の傑物は世を去った。


「……まずは関東。しかし」


 景虎はほくそ笑む。

 関東を攻めれば、あの甲斐の虎も、巣穴から出てくるだろうて。

 そこを叩く。叩き切れなくとも、その場合はまた関東を攻める。

 さすれば。


「この景虎がひとりで双頭の蛇と化し、信濃も関東も……食ろうてくれるわ!」



「……などということを、越後の景虎アイツは考えておろう」


「……まあな。あとは、上杉を継いで、関東管領になる、とかな」


 善得寺。

 武田信玄と北条氏康は、今川義元の冥福を祈る、と称してこの寺へ忍んで来ていた。

 かつては――生前の今川義元を交えて会盟し、あるいは謀議した寺だが、今は武田信玄と北条氏康の二人きりだ。

 本来なら、義元の跡を継いだ氏真がもてなすべき二人であるが、二人とも丁重に断った。

 信玄は、会って同盟のよしみを強調されたくなくて。

 氏康は、会うよりも、己の内政に外交に専念せよという意味で。


「……駿河も大変なのは分かる。分かるが、あの越後の龍を止めるのは至難の業。われら、武田うち北条お前でやるしかあるまい」


「前置きはいい。それより、とどめはどっちだ? おれか、お前か?」


 氏康としては、長尾の攻めの初手は関東と睨んでいる。

 この時期、関東は飢饉にあえいでいる。弱っている。弱いのを叩くのは、兵法の常道だ。


「関東を攻められているうちに、武田としては信濃を固めたいというのは分かるが……程度によるぞ」


「分かってる。まあ、長尾が関東から手を引く程度には。そのつもりだ。それよりも、逆に信濃を攻められたら……その時は、分かっておろうな」


「そりゃ、もちろん」


 武田と北条の間を取り持ち仕切る今川義元は今は亡いが、信玄も氏康も一流の戦国大名である。長尾景虎の動きを読み、二人で連携して、双頭の蛇と化そうとしていた。

 二つの頭を胴体――義元がいないのは不安はあったが、それでもこの二人の「双頭」は見事に機能し、小田原城の戦い、第四次川中島合戦、そして生野山の戦いという激戦を経て、越後の龍・長尾景虎(上杉政虎)を退けることに成功する。


 ……しかしこの武田・北条の戦いに今川も援護に動いたため、それにより三河への手当てができなくなり、それにより松平元康は今川を見限って、織田と同盟するようになる。


 世にいう、清州同盟である。

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