第十七部 運命の時

89 靄(もや)と霧の中で

 尾張。

 知多郡。

 桶狭間山中。


 松平家の一の武者と、織田家の一の武者が。

 服部正成と、毛利新介が。

 永遠とも思われる一瞬の中、対峙していた。

 折からの雨。

 吹きすさぶ風。

 その雨と風が一瞬、弱まった。

 視界が鮮明に。


 今。


 正成の刀と、新介の刀が舞った。

 周りの武者たちは、ただ見ることしかできない。

 弧を描く、正成の刀。

 直線に走る、新介の刀。

 両者にどれだけの差があったろう。

 明確な差など、ありはしない。

 刀と刀、正成と新介。

 その交錯が終わった瞬間、両者の位置は入れ替わっていた。


「…………」


 誰も、何も言えない。

 だが、ぐらりと崩れるその武者を見て。

 津々木蔵人が叫んだ。


「正成どの!」


 硬直した表情のまま倒れた正成に駆け寄る。

 蔵人は正成を抱きかかえた。


「正成どの……」


「不覚」


「何の、お見事でござった」


 もし自分が戦っていたとしたら、その半ばにも及ばなかったろう。

 それを蔵人が告げようとした時。


「……ひと目、わが主、松平元康に会いたかった」


「正成どの? 正成どの!」


 正成は目を閉じた。

 その体から、力が抜ける。

 蔵人はその感覚から、正成の死を悟り――嗚咽した。


「……御免」


 新介が一礼する。

 だが次の瞬間には、蔵人と正成の横をすり抜け、へと向かう。


「なっ……待……」


「許せ」


 織田信長は許しを乞うたが、馬を止めることはなく、むしろすがる蔵人を弾き飛ばした。

 その衝撃により、蔵人は地に倒れ伏した。

 つづく織田軍の将兵も、情け容赦なくへと向かった。


「待……」


 気がつくと、柴田勝家や林秀貞すらも、自分に目もくれずに背中を見せて、駆け去って行く。

 何という容赦のなさ。

 だが一方で、蔵人には分かっていた。

 死闘を演じた相手だからこそ。

 忠臣と尊んだ相手だからこそ。

 それを乗り越えた今、勝者の特権を行使するのだ。

 中途半端な情けを見せたところで、何になろう。

 それは……服部正成と津々木蔵人への、冒瀆ぼうとくではないか。

 そう……蔵人には、思えた。


「…………」


 もやと霧の中へと織田軍が消えていく。

 もはや追うことはできない。

 尾行することはできない。

 蔵人は立った。

 立とうとした。


つう……」


 どうやら、弾き飛ばされた時に、足を打ったらしい。

 それはしくも、今川義元の足の負傷と同じ個所。

 だが蔵人は足を引きずりながら、正成の遺骸の元へ。

 そしてその遺骸を掻き抱くのだ。


「死のふは一定いちじょう、しのび草には何をしよぞ、 一定かたりをこすのよ……」


 思わず口ずさむのはその唄である。

 師である太原雪斎や、育ての親である今川義元が教えてくれた、唄。

 それは……今の服部正成にこそ、ふさわしい気がした。



 桶狭間の山中で。

 簗田政綱と木綿藤吉は焦っていた。

 話がちがう。

 いや、ちがっているのは、自分たちだ。


「今川義元、まさかここまで逃げに徹するとは」


「さすがに海道一の弓取り、と言ったところでしょうか」


 義元の居た本陣には至った。

 だが、もぬけの殻だった。

 織田軍の奇襲。

 今川軍の混乱。

 それを見抜き、義元は逃げに出たのだ。

 味方の将兵を見捨てるそれは、卑劣であり卑怯であろう。

 しかし、そのそしりを受けてでも。

 義元は、逃げを選んだ。

 その逃げた先にある、逆襲の機会を睨んで。

 だからこそ木綿は「さすが」と言ったのだ。


「だが褒めている暇は無い。探すぞ」


「むろん」


 雨は止みつつあるが、代わりにもやと霧が出ている。


「くそっ、隠れて攻めている時には良いが、追う時には邪魔だな!」


 前田利家が口走った。


「政綱、木綿」


 信長は冷静だった。

 彼は地面に残された足跡を見ていた。


「ここから沓掛へは、どっちだ」


 それは質問ではない。

 確認である。

 信長は義元の思考をたどり、沓掛城へ戻って立て直す、と判じた。

 そして足跡から、そのあかしを得た。


「こちらです」


 政綱はそう答えながらも、足を動かし始めた。

 ここで義元を討たねば、織田は終わりだ。

 その焦燥感が、常に冷静な彼らしくもなく、足に出ていた。



 熱田。

 熱田神宮の神人じにんが伝えて来たとおり、海より、服部党の服部友貞は、熱田の湊に向かって火矢を放ち、熱田を大混乱におとしいれていた。


「ふっはっは! 見よ見よ、あのあわてよう! おう、てめえら、そろそろおかに上がるぞ!」


「へい!」


 手下が服部党の船に合図を送る。

 それをしり目に、友貞は空を見た。

 黒い。

 雲が多い。

 雨が来る。

 船乗りである友貞には、それが肌の感覚として、分かった。

 分かったがゆえに「おかに上がる」と言ったのだ。


「うかうかすると時化しけになる! 早くしろ!」


「……かしら


「何だ」


 いつもは景気よく返事するはずの手下が、何やら不安げな表情をしている。

 重ねて友貞が「何だ」と言うと、手下は迷いながらも、答えた。


「……その、船のでっかい群れが」


「ああん? 北条と今川のことか? まさか、動いたのか!?」


 時化を理由に、北条水軍が動き出したのか。

 だとするとまずい。

 海の一番槍と乱取り。

 それに……熱田のを侵される。

 そういうことを素早く友貞が計算しているのを見て、手下は「あの、かしら、ちがいますぜ」と洩らした。


「ちがうたぁ、何だ。ちがうたぁ」


かしら、あっしだって北条なら、北条って言いまさぁ」


「何だ、もったいぶるな。何が言いたい?」


「……アレを」


 手下が、西の方向に指を差す。

 もう荒れ始めている海だ、視界は良好ではない。

 だが、友貞は歴戦の海賊だ。

 そのような揺れ動く海の中でも。


「なっ、何だアレは」


「……でしょう?」


 友貞と手下が望む、西の方には。

 まるで、北条水軍と見まごうばかりの大船団が。

 服部党こちらへ向かって来る姿が見えた。



 桶狭間山のあたりは起伏に富み、木々もあり、それらが混然一体となって、行く者を惑わせることがある。

 今がそれだ。

 しかも今は、雨は上がりつつあるものの、もやと霧が出ていた。


「……くそっ、どこだ!」


 前田利家はこの日何度目かの、その愚痴を洩らした。

 そしてまた、何度目かの木綿藤吉の小突きを食らい、「静かにしろ」と目で言われるのだ。


 ……今、織田信長率いる寡兵の織田軍は、今川義元の大軍を奇襲にて大混乱におとしいれ、義元を討たんと探している最中であった。


 ところが、その義元がいない。

 どうやら、逃げたらしい。

 逃げるべき時に逃げるは、名将の名将たる所以ゆえんである。


「……沓掛城の方だ、それは間違いない」


 簗田政綱が、仕事の最中は寡黙な彼らしくもなく、そう口走った。

 今川義元は名将だ。

 なら、逃げる先も最短で、最善のはず。

 それは沓掛城にほかならない。


「…………」


 そう推理した信長当人は沈黙している。

 沈黙して馬を進めているが、その握られた拳から、焦燥感が知れた。

 少なくとも、隣を行く、帰蝶から。


「信長さま……」


 霧が立ち込める。

 視界がふさがれる。

 微細だが、雨はまだ残っている。

 それが甲冑を叩いて、うるさい。

 寒い。

 もう中嶋砦を出て、幾時経ったことだろう。

 このまま、永遠にこの靄と霧の中をさ迷いつづけるのではないか。

 輿に至ることもなく、砦に帰ることもなく。


「まさか」


 そんな埒もない空想が、帰蝶の心をとらえる。

 肩に手を置かれる。

 信長だ。

 不安を感じ取ってくれたのだろうか。

 それとも、の不安を分かってくれという……。


「……信長さま」


 そう呟いていた。

 嗚呼。

 自分たちは、こうしてさ迷いながら、ずっと歩いてきた気がする。

 何のために?

 生きるためだ。

 どうして生きる?

 それは……。


「死のふは、一定いちじょう……」


 その唄を唄うは、信長か、自分か。

 そう思う帰蝶の前に、と動く――這いずる影が。


「蛇? いえ――マムシ?」


 這いずる蝮は、ずるずると「ある方向」へと這いずっていく。


「ま、まさか……」


 白い影が浮かんだ。

 靄と霧の中、白い影が浮かんだ。


「ち、父上……」


 白い影はと笑い、よく来たな、ここまで――と言った。

 言った気がした。

 そして白い影の横には、もうひとつの白い影が。


「親父殿? 親父殿か! まさか……」


 これは信長の言葉だ。

 もうひとつの白い影は、あと少しぞ、行け――と指差した。

 そして、も。

 が待ってる、すぐそこだ――と。


「行きましょう」


「うむ」


 信長と帰蝶、そして彼らの見たに、織田軍の将兵は皆、息を呑んだ。

 彼らは無言でうなずき合うと、指し示された方へと進んだ。

 もはや視界は乳白色の霧の中だ。

 何も見えやしない。

 だが、進むべき方向は分かった。

 何かに呼ばれているような気がしたからだ。

 やがて雨が上がったのか、雲間から日が射してきて。

 視界が開け。

 そこに。

 最後の白い影が――


「爺!」


「平手さま!」


「平手の親爺オヤジ!」


 最後の白い影は、何も言わなかったが、信長の肩をぽんぽんと叩いた。


「爺……」


 最後の白い影は、やはり無言で振り向く。

 見ろ、ということらしい。

 信長が、帰蝶が、そして織田軍の将兵が見る。

 見ると、すでに雲間から射す日は、次第に次第に光を広げている。

 光に包まれた尾張の山野。

 その山野を。

 うごめくように、ずるずると動く、人の群れ。

 群れの中には――


輿こしだ! 輿こしがあるぞ!」


 簗田政綱が、狂喜して叫ぶ。

 木綿藤吉も、たしかにたしかにとうなずいている。


「爺、よくぞ……」


 そこで信長が振り返ると、もうすでに白い影は消えていた。

 ただ、唄は聞こえた。


 ――死のふは一定いちじょう、しのび草には何をしよぞ、 一定かたりをこすのよ


 その意味は「人は死ぬ。けれども、その人生をしのぶ語り草として何をす? したそれこそ、語られるだろうよ」という意味の唄である。


「爺……親父殿……」


「父上……」


 信長は泣いていた。

 帰蝶も泣いていた。

 語り草とすのは今と、教えてくれたのだ。

 ならば今こそ。


「よいか……よいか! 狙うは義元の首ひとつ!」


 そこで信長は涙をぬぐった。

 ぬぐって、振り切るように、叫んだ。


「つづけ!」


 信長は馬を駆った。帰蝶も駆った。

 つづく織田軍の将兵もまた、駆った。

 一軍というよりも。

 ひとつの生き物と化して。

 織田軍は今川軍――今川義元に襲いかかった。


 ……この日、この国の天地が、引っくり返る。


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