88 輿の行方
「……まだ、
永禄三年五月十九日。
尾張。
桶狭間。
もう、幾度めかの問いであろう、その問いは、誰ともなく発せられた。
織田軍は、今川軍の
こうしている間にも、時間が惜しい。
もうすぐ雨が止む。
視界が広がる。
ややもすると、丸根と鷲津の砦、そして大高城から援軍が来るかもしれない。
何より、熱田の町が占領されるかもしれない。
背中がひりひりとする焦燥感。
その焦りを感じ取ったのか、今川軍の宿将・蒲原氏徳は「かかれ」と突撃を命じた。
「敵は焦っておるぞ! 浮足立っておるぞ! 今ぞ! 今が好機! かか……」
「かかれはおれが言う! 貴様ではない!」
ここで柴田勝家が手勢を率いて
勝家のみにやらせるなと叫び、林秀貞も果敢に氏徳に飛びかかる。
「……ぐっ、貴様! 貴様ら! 離れ……」
「河尻秀隆、推参!」
勝家と秀貞の躰の隙間を縫うように、秀隆が槍を突き込む。
織田家の宿将三人がかりの攻撃に、さしもの猛将・蒲原氏徳も膝をつき、そしてそのまま絶命してしまった。
「蒲原氏徳、討ち取ったり!」
秀隆が叫ぶ。
だが首を取っている暇は無い。
そんな暇があったら――
「……まだ、
今川義元の本陣が。
常には鷹揚な河尻秀隆ですら、焦りを顔ににじませている。
ひとり、織田信長のみが、超然としている。
そういう風に帰蝶には見えたが、その信長の握った拳に、彼もまた焦り、かつ、恐れていることを知った。
そして帰蝶は思うのだ。
わけもなく。
「父上……どうかわが
――と。
*
津々木蔵人は、今川義元に暇乞いを告げた。
「おさらばです、伯父上」
「何と」
今川軍には、二万五千の兵がいたはずだが、それが、由比正信の陣が破られたことを皮切りに、動揺し、連携が切断し、個々に撃破されていく。
珍しいことではない。否、珍しいことではあるが、それがいくさというものである。
今、織田軍が目指しているものは、輿に乗る今川義元である。
それがために、寡兵という、絶対不利な状況にもかかわらず、戦いを挑んで来たのだ。
それがために、今川義元は、陣頭に立って逆襲を目論むという色気を見せず、敢えて逃げに徹しているのだ。
ゆえに。
「今は伯父上を逃がすことが、勝利への道。それに……わが父、今川氏豊を世話していただいた恩を返す時」
今、今川軍の勇将・松井宗信は健闘しているであろうが――この場に聞こえてくる喧騒や喚き声、そして悲鳴が聞こえてくる。
決死であり、必死の覚悟の織田軍に、押されているのだ。
このままでは、危うい。
というかもう、織田に破られているやも知れない。
津々木蔵人は考える。
「今、自分にできることは何か」
津々木蔵人は、織田信行を惑わせた佞臣として、織田家の面々につとに知られている。
かつ、こうして今川軍にいることから、今川義元の手先として認識されている。
「その私が、今、そのいくさの場に現れれば、織田の前に現われれば、どうなりましょう」
「……死ぬぞ」
義元は止めるなどという真似はしない。大丈夫たる者がやると言っているのだ。生半可な同情など、かえって非礼。
こうなっては、それを受け入れ、「やれ」と命ずるのが、将の務めである。
少なくとも、今川義元はそういう将であった。
「では征け。ただ、氏豊のことは気にするに及ばず。あれは
そして義元は輿を進めた。つづく四宮左近が一礼して駆け去って行く。
義元も左近も振り返らない。
情を残すことよりも、ここは逃げていくことが、蔵人に報いることだと知っているからだ。
「……おさらばです、伯父上」
この津々木蔵人の人生、それは決して平坦なものではなかったが、今川義元という伯父と、太原雪斎という師がいたおかげで、結構充実したものであったことは事実である。
存外、尾張に送り出してくれたのも、その「充実」のためだったかもしれない。
尾張那古野城を取り戻すためと言いながら、それへの専心、奮闘という「充実」を与えたかったのかもしれない。
「さて、行くか」
何気なく言った台詞だったが、「行きますか」と応じた者がいた。
そこには、松平家
「正成どの? お手前は松平家に、丸根砦に戻ったものとばかり……」
「それが」
正成が襲撃を知った時、まずはその戦場を目指した。だが、思った以上に今川軍が混乱しており、「このままではまずい」と感じ、今川義元の本陣を探し、今、至ったというわけである。
「……こういう混乱の
丸根の松平元康への使いは、他の者でもできる。
だが今、この戦場で有為な戦いができるのは、この服部正成である。
そういう、自負のこもった視線を受け、蔵人は「では輿はあちらに」と言おうとして、やめた。
正成は、さっきの蔵人と義元のやり取りを見ていたのだ。聞いていたのだ。
その上で、ここにいる。
つまり。
「……共に、戦って下さるのか? 正成どの」
「むろん」
蔵人は一礼し、そして正成と共に向かった。
松井宗信が激闘を繰り広げている、戦場へ。
*
「われこそは
白馬の上の松井宗信がそう怒号し、麾下二百の兵と一丸となって、織田軍へとぶつかっていった。
松井宗信は今川義元が今川家の家督を継いで以来、常に最前線で戦いつづけて来た宿将である。
その戦いぶりから「粉骨無比類」の感状を賜ったほどである。
今、その宿将が覚悟を決めて、主・義元に扮して突撃する。
あまりの
「この強さ。まさか、今川義元自ら……?」
林秀貞あたりは、まんまと宗信の目論見に嵌まったぐらい、それは強烈な攻撃であった。
「落ち着け」
織田信長はだが、一歩、踏み出す。
大地を揺るがすかのようなその一歩に、誰もが、落ち着く。
ひとり柴田勝家のみは、目をぬぐっていた。
「まことあれが義元なれば、輿に乗っておるはず。忘れたか、義元は、落馬して足を痛めていることを」
「あ」
義元が落馬したその現場を見ていた簗田政綱や木綿藤吉ですらも、松井宗信の迫真の攻めにたじろいでいたが、その一言で、われに返った。
「逆に言えば、それほどまでに……影武者を使うほどに、今川は切羽詰まっておる。つまり」
そこで信長は槍を一閃した。
松井宗信が信長に迫り、刀を振るってきたからである。
「……つまり、義元の本陣は近い! こやつらを突破すれば!」
「……させるか!」
宗信の決死の斬撃が、信長を襲う。
だが、信長の横合いから出た刀が、その斬撃を弾き返した。
「……くっ、何奴!」
「斎藤利治、推参!」
斎藤利治――帰蝶を見て、まさか
一閃。
二閃。
信長の槍と、宗信の刀が
「くっ……この……」
「……貴様、松井宗信だな。その白馬も義元から貰うたものと見た。義元から直接、な」
「詮索は……無用だッ」
宗信は叫ぶと共に、刀を強引に押し込んで来る。
だが信長は敢えて後方へと下がった。
宗信の体が前へと傾く。
そこを。
「斎藤家の臣、明智十兵衛ッ! 見知り置けッ!」
十兵衛の薙刀が、風を生む。
突風の如きそれは、宗信の体を袈裟斬りに斬った。
「がっ」
宗信は落下し、そのまま息絶える。
あとに残された白馬が、その宗信をいたわるように、宗信の顔を舐めていた。
「御免」
十兵衛が薙刀を振って、血を落とすと、その先に人影が。
松井宗信が倒れた、その背後の方に、人影が。
その人影にまず反応したのは、柴田勝家である。
「……貴様、津々木蔵人」
勝家の巨躯が動く。
かつての勝家の主君・織田信行を籠絡し、信行を信長と争わせ、信行を破滅させた張本人。
それが津々木蔵人。
勝家の認識はそれであり、
「
と。
*
「やはり貴様、今川の手の者であったか、津々木蔵人!」
勝家が凄むと、周囲の空気がびりびりと震える。
その震えに、敵味方とも動きが止まる。
「ちょうどいい」
勝家が一歩、踏み出す。
地面が震えたような気がした。
「信行さまの仇だ。ここで始末してくれる」
勝家の槍を持つ手、腕に力がこもる。
歩みが速くなる。
勢いをつけて走り出し、そのまま槍を突き込む。
勝家がそうしようとした時。
「待て勝家。油断すな!」
信長の声が勝家を打った。
勝家が急停止すると、蔵人の横合いの茂みの中で、何かが動くのが見えた。
「罠か」
姑息な。
佞臣にふさわしい計略だ。
小策士め。
勝家の
その勝家の背に、信長の声が響く。
「油断すなと言った。そこに隠れている奴、出て来い!」
信長が槍を茂みに投擲すると、その影が
その影に、簗田政綱は見覚えがあった。
「あれは……松平家
三河や遠江、駿河にて諜報活動にいそしんでいた政綱は、松平家の家臣すべての顔と名前を網羅している。
ましてや「一の武者」と名高い服部正成。
他の織田家臣にも、そう言われればと身構えるぐらいに、名は知られていた。
そしてその隙を見逃がす蔵人では無かった。
彼は動き出す。
太原雪斎から貰い受けた
「何が織田信行の仇だ、くだらない!」
「なっ、何だと!」
この声は林秀貞である。
秀貞からすれば、蔵人のおかげで、弟の
秀貞は蔵人に、通具と弥七郎の
だが、次に蔵人はとんでもないことを口にする。
「織田信行ごときが何だ。仇だと? ちがうな。お前ら織田が、おれの仇なのだ。聞け。わが父の名は今川氏豊。かつての那古野城の城主なり。すなわち……お前ら織田が、わが父から、那古野の城を奪ったのだ! この
「今川……氏豊?」
織田家の古くからの臣である林秀貞や、河尻秀隆らからすれば、それはたしかに聞き覚えのある名前だった。
信長の父・信秀が、連歌勝負にかこつけて、那古野の城に入りびたり、ある日、疲れたと称して城で夜を明かす。
だがその城の中を信秀が。
そして城の外から平手政秀が。
同時に攻めかかって、那古野の城を、見事奪取したという那古野合戦。
その敗者、今川氏豊の子が、津々木蔵人だというのか。
「
滅茶苦茶な論法だが、蔵人がそう言うと、真実味を帯びて聞こえる。
当惑する織田の将兵。
そしてその「当惑」こそが、蔵人の狙いだった。
時間を稼ぐこと。
少しでも。
さすれば、今川義元のこと、きっと持ち直して戦線を立て直し、逆襲に出る。
熱田も、海路からの攻めに陥落寸前だと聞く。
今少しだ。
そう思った時に、織田信長がぼそりと言った。
「そこな忠臣のやり
「ちゅ、忠臣!?」
蔵人は動揺した。
まさか、自分の告白に衝撃を受けぬとは。
自分の口舌に操られぬとは。
しかも。
「忠臣だと!?」
「忠臣ではないか。
「……うっ、ぐ」
下手に罵られるより、
まさか。
自分の行動を。言葉を。
見抜いて評価する者が、今川義元や太原雪斎以外にいようとは。
それも。
「織田信長……何でよりによって、貴様が。織田信秀の子の貴様が。今川氏豊の子の、おれの……」
だが信長はそれ以上、蔵人の言葉に耳を傾けなかった。
時間が惜しいのは事実だったからである。
「……が、これ以上は付き合えぬ。おそらく、そこな津々木蔵人と服部正成こそ、今川義元へ至る、最後の壁である。あとは、馬廻りの四宮左近のみと見た。新介!」
「応」
進み出たのは、毛利新介である。
服部正成が「待て」と言って立ちはだかる。
「進ませると思うてか?」
「進む」
織田家の一の武者、毛利新介と、松平家の一の武者、服部正成が対峙した。
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