87 嵐の中
吹きすさぶ嵐の中で。
荒れ狂う「石水混じり」の雨の下で。
「がっ」
「ぐわっ」
柵の残骸の前にいた今川の兵は、一瞬にしてその場に倒れ伏した。
「……つづけ!」
可成が十文字槍の穂先を振って、残り血を落としながら、今川軍の様子を推し量り、今が突入の機
すると木々の茂みに隠れ潜んでいた織田軍の将兵が、わっと叫んで飛び出して来た。
その先頭は。
「われこそは
利家が可成の隣にまで至り、そしてそのまま皆朱の槍を突き出した。
その槍の穂先は、騒ぎを聞きつけて来た今川軍の将の胸を貫通する。
「お……ぐっ」
「……この陣の将と見たり。可成どの!」
「うむ!」
可成は愛馬を躍らせて、逃げる今川兵を追い、先へと向かった。
この桶狭間山の、上にいるはずの、
*
聞くと、その「遠雷」のあとに、何か喚き声のようなものも聞こえる。
「いやそもそも――雷なのか?」
蔵人は何やら胸騒ぎがして、薬草を入れた
そういえば、あのような轟音、どこかで聞いたような。
蔵人の胸騒ぎは、現実性を帯びていく。
「いつ、どこで聞いた?」
自問の答えはすぐに出た。
それは、浮野の戦い。
そのいくさにおいて。
当時、蔵人に
その際、橋本一巴は驚異の弾丸を用いた。
その弾丸を、
「あの時の
焦燥する蔵人が駆けて行くと、ぶすぶすという、何かが燃えて、そして水がかかって起こる音が聞こえてくる。
「もしや、もしや」
言うと現実になる。
そういう、
今はまずい。
今は、そういうことになるのは、まずい。
今川義元の足は、相当以上に痛んでいる。
本人が言うには、立ち合いはできる、とのことだが怪しいものだ。
そんな状態の義元に、敵襲の報が入ったらどうするか。
義元の性格上、まず陣頭に立とうするだろう。
それはまずい。
「海路、熱田を制しつつあるというのに……あと少しなのに、万一のことがあっては」
前方に、今川軍の重鎮・
「突然、
「突然?」
蒲原氏徳はかつて、激戦たる安城合戦の大将を務めたほどの男である。その男が、あわてていた。
そして由比とは、
「本陣のかなり近くに……!」
「そうだ」
氏徳は「ちょうどいい」と言って、早く蔵人に、本陣に戻って義元にこのことを告げろと怒鳴った。
「ことは急を要する。連中、由比の陣の次は長谷川の陣、さらにその次は飯尾の陣と、打ち破っておる。今は
久野――
厭な予感がした。
連中、つまり織田軍以外の何物でもないが、この風雨を
由比の陣は突然の出来事ゆえ、それによって潰れ、もはや存在が明らかになった織田軍は、目の前の長谷川の陣へと猛襲し、そして……。
「次から次へと今川の陣を食い破り、やがて……義元さまの本陣へと!」
「そうだ」
氏徳は苦々しげに、それを首肯した。
「われら今川の臣、これより幾重もの壁となり、織田に立ちはだかる所存。それゆえ、義元どの出陣には及ばずとな!」
織田家は今、窮鼠と化している。
この一点、この一瞬に全てを賭けて挑んできている。
その勢い、天魔の如し。
それにより、今川軍には混乱を生じつつある。
それも、大混乱を
ここを攻めに出るは愚の骨頂であり、ゆえに今は敢えて守りに徹し、丸根にいる松平元康、そして鷲津にいる朝比奈泰朝の救援を待つ。
さきほど蔵人自身が言及した熱田の海路よりの攻めもある。
ここは受け流し、いなし、そしてやがて真綿で包むように織田を包んで揉み潰すのが得策。
「承知!」
蔵人は走った。
雨の中を。
敵、織田家は雨の中を攻めてきたが、これからはこの雨が、今川家の味方だ。
「この雨の中……義元さまを
そのためにも、おそらく意地を張るであろう今川義元を口説き、あるいは強引に輿に乗せてしまわねば。
豪雨と、今度は本物の雷もあり、蔵人は何度か立ち止まることを余儀なくされる。
そういう時に周囲を見ると、誰もが混乱している。
大兵力であるがゆえの、連携の煩雑さ。それが災いして、今や、今川軍は大混乱の渦中にあった。
むろん、織田の手の者が紛れ込んで、あることないことを口走っているせいでもあるが。
「美濃の斎藤家の兵も来ているぞ」
「ばか。美濃は一色だろ」
「いやいや、さっき近江の六角を名乗る奴らが。美濃は六角と同盟しているだろ」
「何い!?」
虚報だ。
ことの正否を確かめることができない以上、せめて自陣を守るのに務めたらいいのに、それどころか陣を動かす、大高城に行くという者まで出始め、もう今川軍の迷走は止められない。
「くそっ、何ということだ。少し前、少し前まで、今川は優勢だった。いや、今だって落ち着けば、時が経てば優勢になる。戻る。それが何だ」
流言飛語は、これあるを期して織田の謀臣・簗田政綱が埋伏していた間者たちによるものである。そして間者でない者も
……そして、そういう今川軍の中をひたすらに、ひたぶるに攻め進む群れがあった。
織田軍である。
「かかれ! かかれ! かかれ柴田、ここにあり! 今川は動揺しているぞ! かかるは今よ!」
柴田勝家が自ら槍を取ってかかる。突進する。
「つづけ! 柴田どのにつづけ!」
河尻秀隆と林秀貞が、勝家の左右から飛び出してくる。彼らの部隊もまた、躍り出す。
「征け! かかれ! のちの世に……語り草となるいくさはここぞ!」
これは織田信長の声だ。
信長もまた、自ら槍を取って、戦場を駆けめぐる。
その隣には帰蝶が、緋色の甲冑をまとってこう叫んでいた。
「われこそは斎藤利治! 美濃・斎藤道三入道が一子! 斎藤家の家督を継ぐ者なり! わが父・道三の仇、今川義元はどこぞ!」
「せや! わいは斎藤家
火縄銃はいかれてしまったため、帰蝶にもらった薙刀を振るう十兵衛が吠える。
こうして織田軍は全員一丸となって今川軍の陣を一枚、また一枚と剥がしていく。
そしてその織田軍の目は、簗田政綱と木綿藤吉だ。
「そっちじゃない! こっちだ!」
「こっち、こっち!」
政綱と木綿は目に徹しているため、戦闘はしない。
戦闘は飽くまで、この二人の周りにいる、毛利新介、毛利長秀、服部小平太の三人がおこなう。
そういう配置である。
「…………」
毛利新介は、いちいち自分が織田家
その性格が幸いし、織田軍の目である政綱と木綿は、織田軍の先頭集団であるにもかかわらず、あまり目立たず、かつ、襲われても即座に新介らに退けられ、目であることに集中することができた。
「もうちょっと高いところにいるはず!」
「あっ、前から敵兵! 左です、左の方から!」
左の方から――
織田軍はその一宮の軍にかち合ってしまう。
「おう、あれぞ
一宮宗是はかつて、武田信玄が信濃侵掠の際に、今川義元から援兵として派されたことのある猛将であり、織田軍としては、初めて歯ごたえのある敵に会敵したといえる。
「小癪なる織田めが! 義元さまの覇道を
宗是が凄む間にも、新介は無言で小平太と目で会話する。
合わせろ。
わかった。
「どれ! いざ尋常に勝負! この一宮宗是が直々に……うっ、うぬぅううう!」
宗是の左右に新介と小平太が飛び、その両側から槍で串刺しにする。
「……奇襲だ。尋常に勝負など、できるか」
新介はその捨て台詞と共に、「ふん」と力を込めて、槍を抜く。
小平太も同じく槍を抜き、そしてまた政綱と木綿に張り付いて、目を守らんと周囲を警戒するのだ。
*
津々木蔵人からの「織田、奇襲」の一報を聞き、今川義元は即座に行動に出ようとした。
「あいや、しばらく」
蔵人が無礼を承知で立ち上がって、義元の前に立ちふさがった。
「……何の真似だ」
「……いずこへ?」
何だそれか、と義元は気色ばんだ顔の緊張を解いた。
「案ずるでない……さすがに
「……さようですか」
やはり今川義元は、最適の選択をする。
よかった。
これなら、いける。
そう思った蔵人は、早速に義元を輿に乗せ、
「
義元は、こんな時にも輿舁きら周囲への気遣いを忘れない。
持ち上がった輿の上で、義元は痛む足をさすりつつ
丸根と鷲津への救援の使いを飛ばすためだ。
「このいくさ、持ちこたえれば勝てる。逃げ切れば勝てる。そのためには、元康と泰朝の兵が必要だ。わかるな」
使いを出すことを命じられた松井宗信は、それを首肯しながらも、義元にひとつ願いがあることを申し出た。
「何だ」
「義元さまの御乗馬の白馬を賜りたい」
「……それは」
義元は輿に乗り換えたものの、乗馬である白馬を置いていくことはなく、今この場にも連れて来ていた。
その白馬を賜りたいということは。
宗信が義元の影武者として務めたい、と言うに等しい。
松井宗信は、三河田原城攻めにて義元から「粉骨無比類」と称えられた勇将である。その宗信がそこまでの発言をすることにより、事態の深刻さが知れた。
「この宗信、手勢二百を率いて、敵の様子を見て参ったが……尋常ならず。すでに、由比、久野らを破り、そして次から次へと……今また一瞬にして一宮を打ち破った……生半可なことをしていたのでは」
そこで宗信は言葉を切った。
負ける、とは言いたくなかった。
だが、今の織田は危ない。
それはまるで手負いの獣のような。
そんな危険な勢いを感じる。
「美濃といい、海路と言い、追い詰めてしまったか……窮鼠を」
義元はそんなひとりごとめいたつぶやきを洩らした。
そういえば、あの河越夜戦の時も、窮鼠となった北条家が虎と
「
だが悪くない。
義元は笑った。
それは、己は「両上杉」とはちがうという思いと、こうまでなってもまだ最後には勝てるという自負からかもしれない。
「許す。よかろう。ただし勝て。勝ってあの白馬を、見事松井宗信の乗馬とせよ。これは褒美の前渡しぞ」
「ありがたき幸せ!」
宗信は勇躍して白馬に乗り、そのまま手勢の二百を引き連れて、織田軍のいる方へと駆け去って行った。
あとに残された義元はしばし瞑目して、宗信のために祈っていたが、やがて眼を開けて「出せ」と命じた。
今川義元、逃走。
その従う兵は、護衛役の
逃げ切れば勝てるがゆえの逃走であり、またそれを知る松井宗信の覚悟を無駄にしないための逃走でもあった。
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