90 決戦 前編

 織田信長はその目に今川軍を、今川義元を捉え駆けながらも、最後に指示を下すことは忘れなかった。


「よいか! に! に動くぞ! 首はいい! 余人の首など要らぬ! 取るは……今川義元の首ひとつ!」


 信長ははしる。

 帰蝶もはしる。

 これまで、多くの苦労を重ねて来た。

 時には、これでいいのかと迷うこともあった。

 だが今「それでいい」と言ってくれた。

 そんな気がした。

 それは織田軍の将兵も皆、同様で、特に柴田勝家などは、憧れた平手政秀にならい、こう叫ぶのだった。


「かかれえ!」


 ……と。



 今川義元は輿に乗っていたから、それが分かった。

 近づく敵の姿を。

 遅れて聞こえてくる、馬蹄の轟きを。

 そして「かかれ」と襲いかかって来るのを。


「迎え撃て!」


 義元は輿を二回叩いて、反転。

 事前に定めておいた合図である。

 さすがに海道一の弓取りであり、その反応は速かった。

 今川軍の残、三百の将兵もまた、反転して迎撃のかまえを取る。


「義元さま!」


 護衛役の四宮左近しのみやさこんが駆けよって来る。


「ここは先にお逃げ下さい。拙者の愛馬を差し上げまするので」


「馬には乗れぬ。知っていよう」


 義元の足は傷んでいる。

 とてもではないが、乗馬はかなわない。


「で、ですが、乗るだけでも。誰ぞに引っ張らせて……」


「くどい。さような真似をして、逃がしてくれる相手と思うか」


 見よ、と扇で織田軍を指し示す。

 織田木瓜おだもっこうの旗印が、早くも今川軍の先鋒に食い込んでいる。


「……その勢い、天魔の如し。ここは受けるの一手」


「しかし」


 そこで義元はふっと笑った。

 そして何も死に花を咲かせたいわけではないと言った。


「それにな、左近」


「何ですか」


「これは……好機ぞ。むしろ織田に勝つ好機でもある」


「な、何ゆえ」


 そこで義元は意味ありげに耳に片手のひらを当てた。

 すると聞こえてくる。


織田上総介信長おだかずさのすけのぶなが見参げんざん! 今川治部大輔いまがわじぶだゆう、いざ尋常に、尋常に勝負!」


 どうやら信長は、先陣を切って今川軍に襲いかかっているらしい。

 は、今川軍と織田軍の激突のその場から聞こえた。


「やはりな。これほどの、織田の小倅……否、言い直そう、織田信長それ自身が出てくるはず。さすがは……さすがは織田信秀の子ぞ。平手政秀の子ぞ」


 褒めているわりには、義元は人の悪い笑顔を浮かべる。

 左近は何故笑うのかと考え、そして思い至った。


「……まさか」


「そう、そのまさかじゃ」


 義元はと笑った。

 左近は、今さらながらに自身の主の恐ろしさを思い知った。


「頼むぞ左近。征け。そして


「……承知つかまつりました」


 この危機に遭ってなお、それを逆手にとって、勝ちをつかもうとする、その姿勢。その智嚢ちのう

 それに敬服して頭を下げ、左近は戦場に向かった。

 今川家いちの武者、四宮左近。

 敢えて彼を護衛役にしていたのは、に備えてである。

 それが海道一の弓取り、今川義元、最後の秘策。


 ……だがそれすらも、織田信長に読まれているとは、この時、義元と左近には、知るよしもなかった。



 今川軍三百騎は死兵と化した。

 死兵とはこの場合、死を覚悟した兵のことである。


「義元さまを守り参らせよ!」


「死守だ! 死守すれば! 松平か朝比奈が来る!」


 兵たちを支えるのは、今川義元さえ生き残れば、あとは何とかなるという思いである。

 義元さえ逃げ延びれば、松平元康や朝比奈泰朝の兵がかけつける。そして勝利する。

 自分たちの残された妻子のことなら、きっと義元が何とかしてくれる。

 それだけの兵からの信頼が、義元にはあった。


「さすがは海道一の弓取りよ。そしてその兵たちよ。一筋縄ではいかぬ……


 信長は自ら刀を振るって、今川三百騎の先鋒と斬り結んでいる。

 その脇には帰蝶が弓をかまえて、遠くから射かける敵を、逆に射返している。


「十兵衛! 次はどこからですか!」


「あっちや! もうちぃと右の方や!」


 明智十兵衛が、そので見て、帰蝶に指示する。

 十兵衛はふただまを撃った衝撃と、これまでの疲労で、もはや得物は持てない。

 だが、その最大の武器であるもって、帰蝶の弓射を支えていた。


「お方さまと十兵衛どのにのみ、やらせておらりょうか! かかれ!」


 柴田勝家が槍をしごいて突進する。つづく勝家の兵もおめき声を上げて、今川軍に突っ込んだ。

 これには今川軍もたまらず、後退を余儀なくされる。

 このまま押してやる、と勝家がさらに「かかれ」と叫ぼうとした時だった。


「……見事な攻めだ」


 場が冷え込む。

 空気が変わる。

 今川軍の中から、その兵が自ら避けるようにして、道を開けた。

 今川家いちの武者、四宮左近の道を。


「参る」


 四宮左近は余計なことは言わない。

 今川義元、最後の秘策――織田信長の首。

 それを悟られてはならないという思惑ではなく、四宮左近の流儀がであるからだ。

 余計なことは口にせず、ただひたすらに、ひたぶるに。

 狙った獲物を確実に仕留める。

 それが、四宮左近の流儀。

 それが、左近がいちの武者たる所以ゆえん


「いざ」


 左近がはしる。

 信長に向かって。

 その速さは、誰より速く。

 止められる者など、ありやしない。

 そう――思われた。


「お覚悟」


 左近の背にある素槍が閃く。

 背から前へ。

 素早く弧を描くそれは、信長の首筋に迫って。


「……何ッ」


 静止した。

 素槍が静止した。

 横合いから、鋭く突き出た、十文字槍によって。

 がぎいん、と。

 金属的な衝突音が、今になって、聞こえる。


「さすがは、今川のいちの武者」


 十文字槍の持ち主は、その槍を持つ手がまだ衝撃に震える中、強引に前へと突き出した。


「……くっ、まだ震える。大したもんだ、四宮左近」


「お前は」


 十文字槍を握る、自らの手をと噛みながら、その武者は名乗った。


「われこそは……森三左衛門可成もりさんざえもんよしなり。四宮左近、わが主の首が欲しくば、まずおれを倒せい!」


「貴公があの『攻めの三左さんざ』か、だが邪魔だ。そこをどけ」


 左近は好敵来たりと喜ぶ男ではない。そういう流儀ではない。

 この時もただ、森可成を障害物と認識し、排除をのみ、思った。


「フン、噂どおりの男だ……が、言われて素直に退しりぞく森三左ではないわ!」


 森可成は四宮左近のその流儀を好ましく思ったが、それととは、また別である。

 そして可成は、に、に左近と戦う。


「さあ、いざ尋常に勝負! 通りたければ、己が力で通るが良いわ!」


「……ではそうさせていただく」


 左近の正確無比な素槍が突きだされる。

 可成は十文字槍を器用に動かして、その突きを

 左近は特に残念がることもなく、二の突き、三の突きと繰り出してくる。

 その都度、可成の十文字槍が小刻みに動いて、突きを弾き飛ばす。


「……ぐっ、言うだけあって、今川の一の武者は、いちいち槍が!」


「厭ならそこをどけ」


「くっ……この……」


 四宮左近が徐々に森可成を押していく。

 この左近の戦いぶりに、今川軍も勢いづいて、柴田勝家らを押し返していく。

 林秀貞などは、そのあまりの激しさに、一時撤退をしたほどだ。

 だが信長は動かない。

 それは森可成を信頼しているということもあるが、があったからである。


「……妙だぞ」


 そのささやきは、今や余裕が生じて来た、今川軍の兵からのものだった。


「妙って、何だ」


 その兵の隣の兵が、槍を振るいながら聞き返す。


「だってお前……よく考えたら織田のいちの武者って、佐々孫介さっさまごすけだろ」


か。ありゃ死んだ」


 かつての織田家の一の武者、佐々孫介は稲生の戦いで死んだ。

 それを知らないのか、と言いたげな口ぶりだった。

 だが最初にささやいた兵は首をかしげた。


「じゃあ……今の織田のいちの武者って……誰だ?」


「誰って……」


 そこで会話は中断した。

 織田家の河尻秀隆が林秀貞に代わって、攻勢に出たからである。


 ……もしこの場に、津々木蔵人なり松平元康なりがいれば、先ほどの会話に違和感を感じたかもしれない。

 四宮左近。

 武神ともいうべきいちの武者だが、その武に徹するあまり、余計なことをしないという流儀のあまり、を捨象するきらいがあった。



「こちらです。お早く」


 事前に簗田政綱が今川軍に小者として埋伏させておいた手下が――老爺ろうやいざなう。

 木綿藤吉が老爺の出自を問うと、平手家の従僕で、平手政秀麾下の足軽だったという。

 それでは仇を取りたいか、と木綿が気を利かせると、老爺は首を振った。


「最初は仇を取りたいと思いましたが、不思議なもので――」


 今川義元は、それはそれはおおらかな人物で、老爺にもたまさかに酒を賜り、共に痛飲したという。


「もし仮に――平手さまより先に今川さまに出会でおうておりましたなら、わしはあなたさまがたに、刀を向けておりましょう」


 それだけの魅力をそなえている人物だったという。

 ですが、めぐり合わせがしゅうございましたな、と老爺は言った。

 その老爺が指し示す、桶狭間山の間道に、輿が見えた。


「何でも、足を痛めていると言って、寄りかかる大樹があった方が戦いやすいと」


 義元の凄まじいところは、このような状況においても、自ら戦うことを期して、かように動くことにある。

 それは――四宮左近が、命じたを獲って来るまでは生き延びようとする、獣としての本能か。

 あるいは――左近が心置きなく戦えるよう、という将としての気遣いか。


「よし。追おう」


 政綱が間道を見て、手ぶりで後方に控えた三人を呼んだ。

 その三人、すなわち、毛利新介、毛利長秀、そして服部小平太は、無言で政綱のそばにきて、やはり無言で間道の奥を見た。


「行くぞ」


 政綱がまず間道に入る。

 だがすぐ振り返って、老爺に言った。


「お前はここで待て。ここまででいい」


「それは」


「仮の主従とはいえ、思うところはあろう。ここまででいい」


 老爺は、ほっとしたような表情をしたが、誰もそれを咎めなかった。

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