78 輿乗(よじょう)の敵 後編

 今川義元が、輿に乗った。

 その恐るべき野望と共に。


「…………」


 空気が震える。

 何処どこからか、黒雲が近づいているような気がする。

 泥中、織田信長の謀臣・簗田政綱やなだまさつなはすべて見ていた。聞いていた。

 一刻も早く、このことを主・信長に伝えるべきだったが、彼は待った。耐えた。

 今や力は山を抜き、気は世をおおわんばかりの今川義元とその将兵の気配が尋常ではない。

 地に転げ落ちた斯波義銀を引きずるようにして今川軍が沓掛城に入城し、そして一刻ほど過ぎるのを待った。


「……そろそろ、いいか」


 今川義元の覇気にてられたといっても、過言ではない。

 そういうした眩暈めまいを感じながらも、政綱は、立った。

 時、まさに永禄三年五月十八日。

 世にいう、「桶狭間の戦い」の前日である。



 清州城。

 城主の間。

 織田信長と帰蝶は、ある珍客の再々来を迎えていた。


「いやあ、みやこでは散々やったわ」


 明智十兵衛である。

 十兵衛は政秀寺での軍議に前後して京へ発ち、幕府の枢要な地位にいる細川与一郎藤孝を相手に、幕府による織田家と今川家の和睦調停を依頼していた。


「何しろ今川が尾張攻めについては、斯波家を救うためとか、今川那古野氏(氏豊のこと)の復仇とか何とかいろいろ言うてきよって、公方さまが何言うても頑としてねつけてきよる」


「それでも、公方さまが言うには言って下さったのですね」


「せやでおひいさま、せやけど最近、公方さまも三好いう大名に押されとってな、もうそれどころやない言うこっちゃ」


 当時、畿内では三好長慶が幅を利かせており、三好政権は全盛期を迎えていたといわれる。


「……でもな、与一郎が言うには、例の輿がんなら、話は変わってきそうらしいんや」


 元々、将軍の権威復活のために奔走している足利義輝である。そして今、尾張を実効支配しているのは織田家だというのも、上洛して謁見したおかげで、十二分に承知している。

 つまり、実効支配している大名の方を推す方が、があるということぐらいは承知しているということである。


「……で、あるか」


 信長はうなずく。

 これは早いところ、輿すなわち斯波義銀を見つけ、討たねばと思っているところへ、とんでもない情報が飛び込んで来た。


「信長さま、信長さまッ」


 馬廻りの服部小平太が、息せき切って城主の間に飛び込んで来る。

 その小平太が担いでいるのは、毛利長秀である。


「いかがした」


 斯波義銀の庶弟・毛利長秀。

 輿の上に座ってやって来る義銀を見つけるために沓掛城近辺に潜ませていた。

 輿という符丁で呼ばれる義銀を見つけたというのなら、これほどまでに焦って、それも抱え上げられないと城主の間にまで来られないとは、いかなることか。


「……わいは、席を外しまひょか」


「……いや」


 ここに至っては、十兵衛に秘することなど、何もない。

 むしろありったけの情報を持って、いざという時は京へ行ってもらいたいと思っているぐらいだ。

 だが、今は毛利長秀だ。


「長秀、いかがした」


「水が要りますか。持ってきましょうか」


 信長と帰蝶に話しかけられ、長秀は半眼となっていた目を見開いた。


「……失礼つかまつった。それがし、簗田政綱さまよりと先行して舞い戻った次第」


 そして長秀は説明する。

 義元の落馬を。

 義銀の嘲笑を。

 輿の主の入れ替わりを。


「義元が……輿に……乗った……」


「輿の上の敵……否、輿に乗った敵は……今や、今川、義元……」


 信長と帰蝶はそこで絶句した。

 話を聞いていると、当初想定していた輿上よじょうの敵・斯波義銀はおそらく沓掛城の中に放り込まれてしまった。

 そしてその義銀の輿に、今川義元が乗った。

 その輿乗よじょうの敵・今川義元はに変貌した。


「上洛して幕府を滅ぼす……大きく、出たな」


「されど……何かの迷いを捨て、吹っ切れたのでしょう、その様子だと」


「だとすると厄介だな」


 信長としては、今川義元は斯波義銀を旗印に、ゆっくりと軍を進め、持久戦で尾張の諸城をひとつずつひとつずつ下していくものかと思っていた。

 だが義元は変わった。変貌した。

 ちまちまと尾張を侵食していく方法など、今さら、採るまい。

 あるのはただ制圧前進……そう、孫子いわく、侵掠しんりゃくすること火の如し、だ。


「区々たる攻め入りを期待して……こちらも粘る戦いをしようと思うていたが、事情が、変わった」


 これからは、義元は最適、最善、そして最短の方法で尾張を攻略してくるであろう。

 清洲城に籠城しているようでは、駄目だ。

 籠城とは、援軍があってこそのものであり、今の織田には、そういう援軍は無い。

 かろうじて武田が蠢動するのを期待するぐらいだ。


「……それに気づいてしまったか、くそっ」


「いえ」


 帰蝶はむしろ、義元はそれに気づいていたが、斯波義銀にために、あえてやらなかったのだ、と捉えた。


「斯波義銀という重荷があったからこそ、輿が上にあったからこそ、今川義元はそれに合わせて軍を進めるつもりでした……が」


「今やその義元が輿に乗った……というわけやな」


 十兵衛がうなずく。

 そして信長は地図を広げ、今後の今川軍の侵攻路を予測する。


「まずは大高。この城を救うことが、そもそもの目的であった。だから、奴らは大高城を攻める」


「攻めているところを狙う気ィか?」


 十兵衛は鉄砲をかまえる真似をする。

 大高城を攻めているその後背を撃ってやれと言っているのだ。

 だが信長はかぶりを振った。


「二つの点でそれは無理だ。一つは、まず今は雨の季節であること。鉄砲で戦うには向かない。一発だけ威嚇射撃するならともかく。二つ目、おそらく大高城攻めは、あいつに任される……松平元康に」


 信長は元康と、少年時代に一、二回だけだが会ったことがある。

 その時の印象から考えると、今は油断ならぬ青年になっていよう。


「露払いというか……まずは三河の精兵に、勇将たる松平元康に。そしてができたところで、御大将おんたいしょうのお出ましだな」


 信長の目線が、大高城、それを囲む鷲津砦、丸根砦へと行き来する。

 大高城救援こそは、今回の尾張入りの目的として標榜されている。

 まずはそこを押さえるだろう。

 大高城の次は鷲津と丸根。

 鷲津と丸根もまた、松平元康、そして今川軍の最精鋭も投入して、攻めさせる。

 そしてその段階に至って、おそらく今川義元は――「今」の今川義元は輿を進める。兵を進める。大高城に入る。

 その段階――つまり、大高城のをして、尾張に攻め入るという段階に。


「……ん?」


 そこで気づく。

 松平元康ら先鋒――今川軍の最精鋭は、最前線たる鷲津・丸根に。

 そして大高城を目指す今川義元の周りには、いわば予備の兵、あるいは荷駄の兵が残る。

 あのあたりの地形は入り組んでいる。大軍を展開するに適さない。

 将兵は細分化される。

 そのうちの一部隊に。

 今川義元が。


「いや待て」


 自分はいったい何を考えている。

 信長は思考を制御しようとしたが、ままならない。

 一度考えた「可能性」は細部まで、最後まで検討しないと気が済まない。

 そんな性分である。

 そんな育て織田信秀と……教え平手政秀を受けた。


「……………」


「……信長さま、そんな怖い顔をして、どうしました?」


 帰蝶が心配げな表情をして、信長の前傾した顔を窺う。


「……だ。だが」


 賭け。

 その言葉で思い出すのは、あの長良川の戦いの前、この清洲城城主の間における会話である。


――義父上ちちうえ……道三どのは、賭け事が好きか?


 そう信長は言った。

 まさか。


「の、信長さま、まさか」


「いや、賭けに過ぎる。あまりにも。家臣や兵たちにまで、これに乗せるのは……」


 帰蝶にそう言いつつも、信長の脳裏をぎるのは、あの言葉である。


――人間、策なんてものは大体が思いつくものだ……だが、問題はだ。ともいうがね。


「しかし……今、今だ」


 何が今なのか。

 それは語っている信長にも、よく分からない。

 だが、今あれば。

 そういう感覚が、あった。


「申し上げます」


 近侍が、新たなる来客を告げる。


「柴田勝家さま、末森城より火急にお知らせしたき儀これありとて……」


 近侍が言い終わらないうちに、勝家当人が城主の間に現れる。走って。


「の、信長さま」


「何だ」


 気づけば、いつの間にか人が集まっている。

 毛利長秀の帰城で、「さてこそ」と思う人たちが、三々五々と集まって来たらしい。

 そして今、柴田勝家という、押しも押されぬ重臣の登場で、その流れは加速する。


「聞こう」


 小者や侍女たちまで来ている城主の間で、だが勝家は隠すことなく、告げた。


「海の方にて……知多の水野信元どのより知らせがありましたが、海西郡の服部友貞の船団が東へ向かい」


 知多の水野信元は織田家についている織田方である。

 ただし、海の戦いには応じないように依頼してある。

 ただでさえ、織田方の海の守りは薄い。

 貴重な水軍を持つ水野には無理をせず、よほどのことが無い限り、守りに徹するように頼んであるはずだった。


「……東に向かい、大船団と合流したとのよし


「さらなる!?」


 これは城主の間にいつの間にか来ていた林秀貞である。

 秀貞は、また那古野城の城代に戻っており、勝家のこの話は初耳である。


「……手前、柴田勝家が自ら馬を飛ばして見て参った。その船団の旗印を見て参った」


 同時に、水野信元には、「よほどのこと」であるが、やはり兵力を温存するよう、諭したという。

 その船団の旗印を見たがゆえに。

 信長は問う。


「して、その旗印は」


「三つ鱗」


 おお、と場がどよめく。

 三つ鱗、それは北条家の家紋である。今川家、武田家と三国同盟を結んでいる、北条家の。


「……盟約に基づき、わざわざ小田原から出て来たか、北条水軍」


 城主の間のあちらこちらで、もう駄目だ、とか、終わりだ、という悲鳴が洩れる。

 元々、織田家は水軍についてはあまり力を入れていない。というか、海西郡の服部友貞の服部党のせいで、海への進出が防がれていた。

 ただ、服部党の所詮は国人で、陸側から牽制すれば、今まで何とかなった。

 だが、今度は。


「陸側からにも……本拠地は小田原。しかも大船団。今までのやり方では、効かぬ」


 厳しい現実を押し付けられていた。

 焦燥感。

 緊迫感。

 絶望感。

 そういうものが、今、城主の間を満たしていた。

 が。


「信長さま……何を笑っておいでですか?」


「……おれは笑っているのか、濃?」


 自分でも、気づかなかった。

 だが今、分かった。

 何が今だったのか。

 だ。

 だったのだ。

 阿鼻叫喚ともいうべき悲歎にくれる、織田家の者たち。

 だ。

 皆……やらねばやられるという状況に追いまくられた、ということを痛感している。

 今なら。


「死のふは一定いちじょう、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ……か」


「信長さま……」


 信長は北条氏康に感謝した。

 その贈られた言葉に対してではない。

 今、この場に、尾張の海に、伊勢湾に、出現しようとしてくれたことに感謝した。

 海を封じられ、海から攻められる。

 そういう、真綿で首を締めるようなぎりぎりさ。

 それを与えてくれたことに、感謝した。

 むろん、氏康にそんなつもりはないし、信長もそれは百も承知だ。

 だが、感謝した。

 今、背水の陣ともいうべきこの状況になったことに、感謝した。

 これなら。


「長秀」


 信長に、そして毛利長秀に注目が集まる。


「……かくなる上は、致し方なし。簗田政綱、木綿藤吉、前田利家、毛利新介は、まだ沓掛の城の近くにいるな」


「はっ。信長さまの指示を待つにくはなしとのことで……利家さまは清州に帰ろうとしておりましたが、政綱さまと、それに木綿が強く残るべきだと唱えられましたので」


「……で、あるか」


 さすがに家臣たちだ。

 何がどうなるかは分からないが、とにかく残った方がいいだろうという判断であろう。

 さすがにその嗅覚は優れたものだ。


「……では改めて命ずる。毛利長秀、沓掛の城へと戻れ。見張れ。輿のの敵でなく、輿に敵を」


「……それは」


 それだけで、たとえば柴田勝家には、信長が何を狙っているか分かった。

 帰蝶が「長良川ですね」と言うと、十兵衛がうなずく。

 長良川の戦いにおいて、斎藤道三は数の不利を覆すために、ある策を採った。

 すなわち、敵将の首を取る、という策を。

 通常なら、今川義元の首を取るなど、不可能に等しい。

 針の穴を通すほどのわずかな可能性に賭けるには、将兵の覚悟が必要だ。

 もう後がないという、不退転の覚悟を。

 今、服部党と北条水軍の登場という危地に陥った織田家だが、逆にそれは、たとえ不利であろうとも、逆転の目があれば、それに賭けるという雰囲気を生んだ。


「でも」


 帰蝶が懸念するのは今川義元の「変貌」である。


「何やら人を超越した観のある今川義元。これを打ち破ることなど……かなうのでしょうか」


 もし戦場で遭遇したとしても、魔人の如き義元と、相対することなど、できるだろうか。


「できる」


 信長は断言した。

 なぜなら。


「おれはな、濃……その今川義元よりも、もっと怖い奴を知っている。平手の爺は……もっと怖いぞ。ここで下手に日和ひよったりしたら、あの世で何と言われるか……親父殿織田信秀にしてもそうだ。濃、お前の父はどうだ?」


「それは」


 たしかに亡き父・斎藤道三に「め」と笑われそうだ。

 それは怖い。


「そうでした」


 それに。

 何だか、面白くなってきたと思うのは、その父のだろうか、と帰蝶は思った。

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