77 輿乗(よじょう)の敵 中編

 今川義元、落馬。


 この光景が見たくて、斯波義銀しばよしかね輿こしを急がせていた。

 それなら最初から義元と共に行けばというところだが、それだと津々木蔵人つづきくらんどの焦る顔が見られない。

 今川軍尾張衆世話役、津々木蔵人。

 義元の身内の者であるという噂だが、少なくとも、義元を敬愛していることはたしかだ。

 だからこそ義銀は、敢えて蔵人が単騎駆けつけるのを抑えるため、敢えて出発を遅らせたのだ。


「くっくく……どいつもこいつも予をめおってからに……一泡吹かせてくれるわ」


 義銀は、自分が蔵人に誘われて百舌鳥狩もずがりに行っている間に、自分を抜きにして酒宴を張るという今川軍の将兵の狼藉(義銀としては)に腹を立てていた。


「予を……誰だと思っておる」


 尾張の国主、尾張守護たる斯波義銀。

 その象徴として、特権として、尾張国内では輿に乗れるは、斯波家の者のみと定められている。

 そして今、ここはもう、尾張。

 あれに見えるは沓掛城であり、ここは尾張なのだ。

 ならば。


「そこのけ、そこのけ! 予は尾張国主、尾張守護、斯波義銀なるぞ! この輿が目に入らぬか!」


 今頃落馬して痛撃に地に伏しているであろう義元を、輿の上から見下ろしてやる。

 そして今横で必死になっている蔵人――おそらくこいつもになって百舌鳥狩などという仲間外れをしてくれた蔵人――の、顔が青くなる様を見てやるのだ。



 落馬の光景を見ていた梁田政綱は、だがとも動かなかった。

 それでも、忍び小屋の戸が少し開き、事前に決めていたとおりに、木綿藤吉と前田利家が動いていることは知れた。

 まず、木綿が動き出す。


「…………」


 毛利新介と毛利長秀のいる方の、小屋へ。

 今川義元が落馬したことは衝撃だが、その義元が来ているということは、位の上では同格の斯波義銀がやって来てもおかしくない。


「ありゃあ、稲っこサ、伸び伸びしてっなア」


 くわを片手に、木綿はいかにも近隣の農民という雰囲気で、ふらふらと歩いていく。

 今川軍の方は、義元落馬による動揺で、それに気づくことはなかった。



 一方で、前田利家は顔に炭を塗りたくって、それから小屋の屋根に作られた隠し窓へと登る。

 黒ければ、窓の陰と同化するから、炭を塗った。

 利家が外を覗く。


「……何やら急いでくる一団がある。その中にが。もしや」


 利家の目に、その「四角い何か」が、だがその上に座る何者かの指示によって、速度を落とすのが見えた。

 四角い何か――輿の隣にいる者は、「早く」と怒鳴っているように見えるが、輿の上の者は耳をふさいで、いかにも聞こえぬという身振りをしていた。


「面妖だな……あ」


 それでも輿は近づいてきて、利家の目にも、誰が誰だか、はっきりと見えるようになる。


「輿の横の奴は、津々木蔵人だな。あいつ、あんなところにいたのか」


 織田家中では行方知れずとなっていた蔵人だが、やはり今川軍に加わっていたか。

 しかしそんな蔵人の身のふりなど、気にならない。

 それは――輿の上に鎮座する人物の顔が、見えたから。


「斯波、義銀……」


 ついに来たか。

 利家は隠し窓から、葉を一枚落とした。

 泥田の中にいる梁田政綱が、正確には政綱の口に繋がっている稲わらが、と動いた。



 毛利長秀は、斯波義銀の弟である。

 だが、正室の子ではなく、いわゆる庶子である。

 その点から、義銀からめられていた。

 ゆえに、義銀が織田信長の手によって尾張守護となっても、養父である毛利十郎が優れた武士であったこともあり、斯波家の者であると名乗り出ることはなかった。

 それが幸いし、義銀が尾張から追放されたときも何の影響も受けず、今に至っている。

 しかし、その義銀が今川家という「御輿」に乗って、やって来る。


は、由々しきことぞ」


 斯波家の旧臣である太田又助にそれを告げられ、そううめいた。

 それは毛利長秀の扱いだけではない。

 尾張という国が、あのような分からず屋の兄が支配するという暗澹たる未来予想図が見えたからである。


「それだけは、防がねば」


 一も二もなく信長への協力を願い出て、養父・毛利十郎の近親で、勇将・佐々孫介亡きあとの織田家いちの武者・毛利新介と共に、毛利長秀はここにいる。

 ここ――沓掛城付近、忍び小屋に。

 その小屋の戸をたたく者がいる。

 とん、とん。

 かねてから決められていた、たたき方。

 だが開けることはしない。

 長秀は、やなり利家のように炭を顔に塗りたくる。

 新介がうなずいて、長秀を肩に乗せる。

 長身の新介に乗せられると、屋根の隠し窓までは易く手が届く。


「見よ」


 新介は、それだけ言った。

 寡黙な武士である。

 長秀は、隠し窓を開けた。

 もうその時には、輿の上の斯波義銀が、落馬した今川義元を見下ろしていた。


「見えた」


か」


 新介のその言葉に、長秀は新介のいちの武者たる所以ゆえんを知った。

 新介は、長秀の面識だけでなく、何かあかしはないのかと聞いているからだ。


「……輿の紋が、足利二つひきに、兄である」


「そうか」


 斯波家は足利尾張家と称せられる。つまり、足利の分家の扱いであり、家紋も足利家の「足利二つ引」を使っていた。

 そういう証があるのかと確かめる。

 毛利新介は、そういう確実さを重んじる。

 だからこそ、織田家の一の武者であった。



 場は、凍り付いていた。

 沓掛城付近の街道で。

 落馬した今川義元を見て。

 輿の上の斯波義銀が、こう言い放ったからである。


「……何とも、みっともない醜態ざまじゃのう」


 ――と。

 斯波義銀にならんで走って来た津々木蔵人は、息を整えながら、とにもかくにも、義銀をこの場から離れさせようと、輿舁こしかきのひとりの肩をつかんだ。

 しかし。

 義銀はこれからの会話で、蔵人が声を出せないうちに。

 決定的な一言を、義元に言ってしまう。


「……やっぱり、アレじゃのう。名門・今川家に名を連ねていても、アレじゃのう。馬脚をあらわす、という奴じゃのう」


「……何が言いたい」


 それは、義元の肩を担いで立ち上がった松平元康が震え上がるくらい、気迫に満ちた一言だった。

 義元の白馬を押さえた四宮左近しのみやさこんも同じく震えつつ、しかし彼は「まさか」と口走った。

 だが、義銀はむしろ、義元の素の感情を、化けの皮を剥がしてさらけ出してやったという嗜虐的な満足感を感じていた。


「何が言いたいだと? 知っておるぞ、。おぬし……母は遊び。あるいは、端女はしため……取るに足らない女が、おぬしの先代の今川氏親どのを誘惑して、作った子が、おぬしじゃ、義元」


 ぬるりと。

 そういう表現が似合うくらいは。

 義銀の言葉は。

 場にねっとりと粘ついた空気をもたらし、場にいる者たちを圧倒的に包み込んだ。

 むろん、義銀のもたらしたものではない。

 今川義元のもたらしたものである。


「……知っておったか」


 松平元康は後年、どれほどの戦場においても、あれほどの恐怖を感じたことは無かったと述懐した。

 それは津々木蔵人も同様だった。

 四宮左近も同様だった。

 言ってはならぬことを、ついに。

 このような、開けた場で。


 今川義元。

 一説によると――京から来た食客のむすめを母とするといわれる。

 それゆえに弟の今川氏豊のように、城主に据えられることもなく、やはり側室の子である兄・今川良真と同様に寺に入れられていた。

 それが。

 花倉の乱という、今川家の家督争いに勝利した。

 そして。

 父・氏親の正室、寿桂尼の「養子」となって、当主となったという。


「……くっくく、わが斯波家は今川家にいた。それゆえに……それゆえに、には耳聡みみざといのよ」


 義銀としては、こうして足利名門・斯波家のであることを誇示して、この機に義元よりも、完全に優位に立ってやろうという気分であろう。

 だが。


「それが……どうした?」


 義銀は、とんでもないを目覚めさせてしまった。


「えっ」


「それが……どうしたと聞いておる、斯波しば……義銀よしかねぇえッ!」


「ひっ……ひっ」


 義元がえた。

 元康は、義元が自分の肩から離れ、足を引きずって歩いていくのを、ただ見守ることしかできなかった。

 義元が、輿に向かって歩いていくのを。


「……そうよ」


 義元の手が、輿をつかむ。


「よっ、寄るな」


「斯波義銀。貴様の言うとおり、予は……オレは、京から来た食客のむすめを母としている。それゆえに、オレの母が遊び女だの端女だの……、と言われておること……充分、承知しておる……だが、それが何だ?」


 義元の手に力がこもり、ぶるぶる震える。

 輿も。


「逆に言えば、から生まれた男に支配されている今川家は何だ? いや、から生まれた男にお飾りにされている貴様は何だ? いやいや……から生まれた男を、にする、この世は、何だ? くだらぬではないか……くだらぬではないか……のう?」


 のう、と言われても、誰も返事ができない。

 そして義元も誰にも返事を期待していなかったらしく、言葉をつづける。


「……斯波義銀、貴様はくだらぬ奴だ。オレのように自力で当主の座を勝ち取るでもなく、ただ輿の上に座っただけ……だがそのくだらぬ貴様でも、今、ひとつ、役に立つことがあるぞ」


 義元の手が、腕が、下がっていく。

 それに押されるようにして、輿も、下へ。

 とうとう地に押しつけられる輿。


「下りろ」


「え」


「輿から下りろと言ったのだ、斯波義銀。下りろ」


「え……ひっ」


 義元のもう一つの手が義銀の首根っこをつかみ、引っ張り上げる。


「貴様の輿はオレがもらう。尾張国主の特権? くだらぬではないか……だが、これからはオレが国主だ。そして尾張も手中にし、そのあと、あの美濃の一色義龍とかいう役立たずを叩き潰し、近江をにし……京へ至る。至ったは、この世の主となってやろう……」


 義元はたしかに怒った。

 、その怒りにより、自身の真の野望に気づいた。

 思えば、天下への野心を口にすることもあったが、それはあくまでも言葉の上でのだった。

 はかりごとを愉しむのは、自分のどうしようもないさがだ。

 、それだけのことだと思っていた。

 結果として、京に上って将軍を補佐して、管領代なり何なりになることはあろうと思っていた。

 、ちがうのだ。

 食客のむすめを母として生まれて、己に何ほどのことができるだろう。

 最初は、そう思った。

 偶然にも師となった太原雪斎は己のそういう心を見抜いた。


――どうしたいのか。


――師よ。オレオレの思うままに。


――そうか。悟りもあろう……。


 師は持てる限りのものをくれた。

 いくさのこと。

 はかりごとのこと。

 すべてを。

 だが、満たされなかった。

 そうこうするうちに、弟の氏豊が、織田信秀により城を盗られた。

 これだ、と思った。

 こういう、こういうことをしたいのだ、オレは。

 そう思い、己を鍛え、成長し、やがて今川家を盗った。

 盗った次は、当時、最強ともいえる隣国、北条氏綱に挑んだ。

 強かった。

 、いつかはと思い……氏綱は死んだが、息子の氏康と戦った。

 強かった。

 、所定の目的は達成し、武田も交えて三国同盟を結盟し、ひとまずの結果を得た。

 虚しくなった。

 そう、虚しいのだ。

 こんなことをするために、オレは生まれたのではない。

 いつまでオレは「」と言いつづけるのだ……。

 そう思いつつも、はかりごとにと興じ、国主としての務めを果たした。

 そうこうするうちに、尾張の織田信秀が死んだ。

 そうだ。織田だ。

 織田と戦えば、この心のうちのもやもやが。飢えが。

 晴れるやも知れぬと思い、弟の仇ということもあって、これまでやってきた。

 そして。

 今。


豁然かつねん……大悟たいごじゃ、師よ。オレは……悟ったぞッ! ついに……悟ったぞッ! オレは……オレはッ」


 豁然大悟とは仏教の言葉で、迷いを開き、悟りを得ることを意味する。

 そして今川義元の豁然大悟とは。


オレはッ! このくだらぬ足利の世を壊すッ! こぼつッ! そしてオレによる……新しい世を開いてくれるッ! 抵抗する奴は……徹底的に叩いてくれるわッ」


 足利幕府など、破壊の対象に過ぎない。

 足利の名門・今川家の庶子として生まれ、海道一の弓取りにまで成った今川義元は、ついに己のうちに眠る、そのに気づいた。


 ……こうして、義元は、輿に乗った。

 もう、義元を止めるものはいない。


 それこそ、天か魔か。

 義元以上のでないと……。

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