50 織田信行の最後

「待て秀隆」


 織田信長は、弟・織田信行の居城、末森城へと向かう河尻秀隆に向かって、を投げて寄越した。


だ。末森城あちら権六柴田勝家にでも渡してやれ」


 秀隆は俊敏に手首をひるがえしてを受け取り、一度と笑ってから「御免」と、うまやの方へ足を向けた。



 末森城。

 河尻秀隆を出迎えた柴田勝家は、信長と信行の母・土田御前どたごぜんもとへと秀隆を案内した。

 秀隆は謝辞を述べながら勝家に何かを手渡し、目配せをした。


「……これはこれは。では同輩の林秀貞とありがたく頂戴いたそう」


 勝家は一礼して何処かへと去り、秀隆は土田御前と共に持仏堂へと向かった。

 向かった先の持仏堂で。


「土田御前さま。この持仏堂へは、たとえ御前さまといえども……」


 津々木蔵人が扉の前に端然と座していた。

 土田御前が眉根を寄せる。

 ため息をつく。

 ずっと、こんな様子らしい。

 だが、その土田御前の背後から。


「……誰がヌシに聞いておるか」


 河尻秀隆である。

 いわおのような雰囲気を身にまとった秀隆の、その重い一言は、それだけで場を支配した。


「……失礼ながら、そちらさまは」


 わずかながら蔵人の声が震える。

 だが秀隆はその問いには答えない。

 先の発言を繰り返す。


「聞こえんのか。誰がヌシに聞いておるか、と、言った」


 秀隆が一礼して土田御前の前に出る。

 蔵人も目配せして、少し離れたところにいる林弥七郎に合図する。

 弥七郎が弓の弦を、一度引いて、弾いた。


「……くだらん真似はよせ。それより、ヌシではなく、信行さまを出せ。わしは気が短い。早くせよ」


「ですから、信行さまは読経中。ご用件なら、この津々木蔵人がうけたまわ……」


「誰がヌシに聞いておるか!」


 持仏堂の中の信行にも聞こえんばかりの大声。

 空気がびりびりと震える。

 持仏堂の扉が少し開き、信行の顔が、ちらりとのぞく。

 蔵人が舌打ちして、弥七郎に「やれ」とつぶやいた。

 弥七郎が弓をかまえる。

 だがその鼻に。


「ん?」


 縄の焼けるにおい。

 これは……。

 弥七郎が、あたりを見回すと。

 持仏堂の向かいの一室の隙間から、煙。


「火縄」


 もしや。

 信長の配下には、橋本一巴はしもといっぱという鉄砲の名人がいると聞く。

 河尻秀隆は見せかけの使いであり、真の狙いは、橋本一巴による暗殺か。


「どうした? わしは気が短いと申したはずだ。はよういたせ。さっさとその中にいる信行さまを出せ! ほかならぬ信長さまが、病にてせっておる! 信行さまに会いたいとのおおせだ!」


 嘘だ、と口走る蔵人。

 だがその背後で、持仏堂の扉が開く。

 まずい、と蔵人が思うが、もう遅い。

 秀隆がと前に出ると、信行の体を引っ張り出していた。


「臣、河尻秀隆、信行さまのご尊顔を拝し、まことに光栄の極み」


「うっ、うむ」


 秀隆は、父・織田信秀の代からの家臣であるため、信行も秀隆のことは良く知っている。

 ここまでされては、もう逆らえないぐらいの剛腕であることも。

 蔵人が叫ぶ。


「待て! そこな河尻秀隆どのは、信行さまを火縄で始末せんと……」


「火縄?」


 そこで持仏堂の向かいの一室の扉が開いた。

 中から、火のついた火縄を持った勝家が出て来た。

 勝家の横では、秀貞が忍び笑いをしていた。


「火縄だな、たしかに……火縄だがな」


 それが信長が寄越したであった。

 ちなみに土田御前はこの手の信長の悪戯いたずらには慣れっこなので、もうため息しかつかなかった。

 がはは、と常ならぬ哄笑を上げる秀貞を最後尾にして、土田御前、秀隆、秀隆に首根っこをつかまれた信行、そして勝家が去って行く。

 残された蔵人はただ黙って、床を殴った。



 織田信行は悄然として清州城へとやって来た。

 さすがに覚悟を決めて、「ひとりで行ける」と河尻秀隆から手を離してもらい、自分で馬に乗り、駆けた。

 もはやこれで最後か。

 そう思って、駆けた。

 最後の騎行はあっという間に終わり、清州の城が見えて来て、誘われるままに、信行は信長の私室へと導かれた。


「久しいな……というか、そこまでではないか」


 信長は茶をてて待っていた。

 やはり、病というのはか。

 と息を吐いた信行は、信長の前に座った。

 横から、信長の妻の帰蝶が「どうぞ」と茶請けの菓子を出して来た。


「これはご丁寧に」


 帰蝶は、人質に捕まえられるぐらい近くにいた。

 だが信行は、そんな気分にはなれなかった。

 今はそれよりも、出された菓子を賞味し、点てられた茶を喫したい。

 そんな気分だった。

 思えば、いろいろとあった。

 父・信秀が死んで以来、こうしてまともに向き合うことなど無かった。

 稲生の戦いのあとの「おわび」も、土田御前や重臣たちの前での出来事だし、こうして信長夫妻のもてなしを受けるというのも、実は初めての経験である。


「ほれ」


 信長は意外にも丁寧な仕草で茶を寄越した。

 天目とおぼしき茶碗を手に取り、そっと飲む。


「……うまい」


 これが末期まつごの茶か、と思うと、信行は丹念に味わって飲んだ。

 飲み終わると、信長が目の前に座っていた。


「信行」


「はい」


「もうお前、二度もな」


「はい」


「しかし何故だ? 龍泉寺に城を築くなんぞ、あからさまに過ぎよう。何故そんなあからさまなことをする?」


 いかに津々木蔵人が専横を極めたとしても、築城のような大仕事の場合、信行の花押なり判なりが無いと進められない。

 つまり蔵人は持仏堂に籠る信行から、それらを得たことになる。


「……そうすれば露見すると思ったからでございます」


 信行は、信長包囲網を恐れた。

 その首謀者である今川義元を恐れた。

 本人以外は形の上の首謀者と知られている、斯波義銀ではなく。

 そして津々木蔵人はおそらく、今川義元とつながっている。


「私には、兄上のように肝が太うございませぬ。だからつい……蔵人の言うとおりに。そうすれば……もしや、私の責は免れるものかと思ったことは、否定いたしませぬ」


 持仏堂に引きこもるのは、蔵人自身の提案だから、彼から害されることはない。

 兄・信長にしても、「蔵人のせい」と思ってくれるかもしれない。

 そして自分は、龍泉寺城築城という暗号により、信長包囲網を信長に気づかせることができれば。


「うまいこと……蔵人の顔も立てつつ、私自身の身も守れる。そう、考えたのでございます」


 信行は正直に語った。

 窮境の中、龍泉寺城築城により信長に信長包囲網のことを伝えたということは、美談にできたかもしれない。

 でもそれも、保身のためだと告白した。

 もう、疲れたのだ。

 こうして政争や己の権勢の保持に汲々として。

 気づけば津々木蔵人のような寵臣に牛耳られて。

 だが、それも終わりだ。

 兄はきっと自分を処断する。

 そういう時においては、いくら何でも正直にありたい。

 思えば、茶席というのは実に良き場だ。

 こうして、己が芯をさらけ出すのに、これほど適した場があるか。


「信行」


 信長の甲高い声。

 小さい頃から、この声で怒鳴っては、庭で騒いでいた。

 信行はそれほど声が大きくないので、庭に出ず、本を読んでいた。

 信長はそれについて何も言わなかった。

 家臣たちの子ども――兄弟たちを見ると、大抵、そういう場合は弟の方がからかわれたりいじめられたりするが、信長はそれをせず、「お前も庭に行くか」と聞いてきた。

 「行かない」と答えると、「そうか」と言って、本を読むのを邪魔しないためか、遠くへ行った。


「信行」


 それがいつからこんなことになったのだろう。

 気づくと、隣の帰蝶が手を握ってくる。

 逃がさないためか。

 まあ、それも良い。

 兄が脇差を抜いた。


「最後だ」


 簡にして要を得る。

 そういう言葉。

 羨ましかった。

 万巻の書を読んでも、そういうことはできない。


 ……信行は迫り来る刃を、ただ空事そらごとのように、他人事のように、ぼうっと見つめていた。

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