37 長良川の戦い 後編

 それは、織田信長が大良おおらにて、「もうよかろう」と全軍の出立しゅったつを命じた時だった。


「……おかたさま、お戻り! お方さま、お戻りです!」


 斥候ものみに出ていた山口取手介が伝えると、その後ろから、森三左衛門可成もりさんざえもんよしなりが帰蝶を抱えながら、物凄い勢いで駆けてくるのが見えた。並走する蜂須賀小六や、木綿藤吉も見える。


三左さんざ!」


 信長が腕を出すと、可成は馬を止め、ひらりと飛び降りて、信長に帰蝶を渡した。


「道三さまの当て身により気を失っておりましたゆえ、ご無礼つかまつりました」


「……で、あるか」


 可成らに水を与えるように命ずると、信長は「濃、濃」と言って、帰蝶を起こした。

 帰蝶はとして目を覚ます。


「……父上、父上! ……えっ、信長さま!?」


「追い返されたようじゃな、やはり」


 それだけで、信長、そして帰蝶は事態を理解した。

 道三は決戦に挑むつもりだが、それは死中に活を求める戦い。

 そのような戦いに娘をつき合わせず、信長のもとに返したのだ。


「……信長さま」


「判っておる。今すぐ出陣じゃ」


 帰蝶は木綿が持ち帰った緋色の甲冑を身にまとった。

 可成、木綿、小六らも長駆の疲れを厭わず、立ち上がった。


 ところが、その瞬間に。

 彼らは急報を聞いた。


「申し上げます!」


 佐々孫介が、息せき切って、急使とおぼしき者を担いでやって来た。

 その急使は、織田木瓜おだもっこうの旗印を背負っていた。


「申し上げます! この者、尾張より、佐久間さまよりとのこと!」


「何と」


 佐久間信盛は、この時点で清州城で留守居役を命じられていた。

 その佐久間が急使を送って来たということは。


「岩倉織田家、襲来! 岩倉織田家の織田伊勢守信安、清州付近、下之郷へ焼き討ちとのこと!」


 ……今川義元のほくそ笑む姿が、目に見えるような気がした。



「……長屋甚右衛門ながやじんえもん、この柴田角内が討ち取ったり!」


 斎藤道三軍の角内が、一色義龍軍の甚右衛門に勝ったことを大音声で告げた。

 それを合図に、義龍も道三も突撃を命じた。


「かかれ! あれなる国盗りの叛賊・道三を討て!」


け! 成り上がりの一色、蹴散らしてやれ!」


 乱戦に次ぐ乱戦。

 その最中、ついに義龍は求める敵・道三をとらえた。

 勝った。

 義龍はそう思った。

 いかにマムシの道三とて、老体。

 この六尺五寸の巨体の義龍の一撃を食らえば、かなうまい。


「はっはー! 食らえ! この一色義龍さまの一撃を食らって、あの世へ行け!」


 義龍は喜色満面に槍を繰り出す。

 一方の道三は、あわてずにその槍をさばく。


「フン、義龍か……」


「どうした? うらやましいか? 成り上がりて、さまざまな家を乗っ取って下剋上して来た貴様だが、おれは生まれながらにして貴種よ! 父は土岐であり、母は一色よ! 貴様のように、斎藤だの山崎屋だの、片腹痛いわ!」


「……何故、土岐と名乗らん?」


「……あ?」


? そう聞いた」


 気がつくと道三の槍が、義龍の槍をとらえてからめて、引き寄せようとしている。

 その動き、あたかも、蛇の……マムシのごとし。


「……うっ、くっ、このっ」


「おおかた、のであろう。あるいは、の狙いか」


「う、嘘とは何だ、嘘とは」


 義龍の槍が震える。

 手から汗がにじみ出ている。


、というのがの狙いよ」


「何だと!?」


……では外聞が悪い……ゆえに、ゆえにこそよ。そうしておけば、深芳野みよしのの……であるを名乗っておけば、も、


「…………」


 義龍は顔を真っ赤にして沈黙している。

 道三はそれを「肯定」とみなした。

 そして憐れんだ。


「息子よ」


「い、今さら、そんな呼び方をするなっ」


「息子よ……も今川義元の入れ知恵か? だとしたら、もうよせ。自分で考えろ。わしが気に入らないなら、戦ってやる。だがそれなら、お前自身の知恵と力で戦ってみせよ……かつての、このわしがそうだったように」


「……黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れええええいっ」


 義龍は滅多やたらに槍を振り回した。

 恐慌状態の主に気づいたのか、義龍の兵が続々と集まって来る。


「討て! 奴を討て! 富貴ふうきは思うがままぞ!」


「それが答えか義龍、ならばお前は、織田の信長の門前に馬をつなぐようになろう!」


「早くあのじじいの饒舌じょうぜつて! 早くしろっ!」


 義龍のわめき声にこたえたのか、乱戦の中、長井忠左衛門道勝ながいちゅうざえもんみちかつ長井道利ながいみちとしの子)が飛び出て来て、道三に組み付いた。

 さしもの道三もこれにはたまらず、と崩れた。そこを小牧源太という兵がやって来て、道三のすねを斬った。


 一瞬動きを止めた道三。

 その首を。

 源太の刀が。


「……帰蝶!」


 斎藤道三、享年六十三歳。

 野望に彩られた人生であったが、最後には嫡子の野望の前に斃れた。

 そして下剋上の梟雄の最後の言葉は、愛する娘の名だったと言われるが、定かではない。

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