36 長良川の戦い 前編

 帰蝶を抱えた森可成もりよしなり木綿藤吉もめんとうきち蜂須賀小六はちすかころくが一路、織田信長の軍を目指して疾走している頃。

 斎藤道三より京・山崎屋への書状を携えた明智十兵衛あけちじゅうべえが、明智の城に駆けつけるべく、疾駆している頃。

 道三は長良川北岸への移動を完了し、南岸に陣を構える一色義龍いっしきよしたつと対峙した。

 あまりにも迅速な移動に、かえって道三の年来の家臣である柴田角内ですら、「もう少々、お待ちになられては」と進言したくらいである。


「不要だ」


 道三はにべもなかった。


「さようなことをおっしゃられずに……尾張の織田さまが援軍を……」


「だからだ」


「だから、とは」


「角内よ、長い付き合いのお前だから言うが、今、織田の信長どのを待っていて時間を費やしては、かえって信長どのが進退窮まることになる。わしにはそう思えるのだ」


「…………」


「あの今川義元のこと、きっと何かを策している。尾張に何かが起こる。それでは遅い。今、この時。この時こそ。それに信長どのが間に合わなければ、是非もなし。だから……」


 角内はあとで思った。

 この時の道三は冴えわたっていた、と。

 そして覚悟を決めていた、とも。


「だから……われらだけで決めようぞ、この。何、われらだけで勝てばよいのよ」



 斎藤道三の進軍のそのあまりの速さに、一色義龍もまた

 しかし、義龍の兵が一万七千五百に比して、道三は二千七百である。

 その事実が、義龍におごりを与える。


「フン、所詮しょせんは寡兵よ。小勢よ。竹腰道鎮たけごしどうちん!」


「はっ!」


「五千の兵を預ける! 先陣を命ずる! 彼奴きゃつの首を取れ!」


「先陣、うけたまわってそうろう


 道鎮は麾下五千の兵に円陣を組ませ、そのまま長良川を渡った。


「敵・道三は二千七百! こちらは五千! 倍する兵で押さば勝つ! 押せよ者ども!」


 一方、迎え撃つ道三は「こらえよ」とはやる兵を抑えて、敢えて道鎮の渡河を待った。


「ああいう敵はな」


 道三はかたわらに控えた柴田角内に言った。


「ああいう敵はな……やらせるだけやらして……川を渡らせたところを討つのが最上よ」


 そのとき、道三はむかし、川を渡ってくる大軍を撃破した戦友の名を思い出したのか、「のう、多治比どの」とつぶやいた。

 角内としてはわけがわからないが、古くからの家来としては、おごそかに沈黙を守った。

 そうこうするうちに、道鎮が渡河を終えて、道三に襲いかかって来た。


「国盗りの奸雄! 覚悟!」


「……角内」


「はい」


 道鎮の素槍を、角内の金棒が弾く。


「うぬっ」


「……おおかた、義龍にでも、わしの首を取れと言われたか? そこが浅はかだな」


 道三の背後の茂みから、わらわらと将兵が飛び出してくる。


「……こっ、これは」


が! 狙いが分かっていれば、こういうこともできるわ!」


 いつの間にか道三も槍を取ってかまえている。

 道三の槍。

 それは、遠い間合いの一文銭の穴を狙って穿うがてるという、驚異の武芸である。


「……参れ!」


「……く、くそっ、こうなったら、囲め、囲めえっ」


 道鎮もまた、将兵を呼び寄せて、道三を囲もうとする。

 だが、道三の方が素早かった。


「かかれッ! こやつは浮足立っておるッ! 討てッ! 討てッ! 討てえッ!」


 道三自らが、槍をしごいて道鎮に突撃する。

 それを見た角内らも、喊声かんせいを上げて突撃する。


「……ひっ! むっ、迎え撃て、迎え撃て!」


 いつの間にか攻守が逆転している。

 このあたりの呼吸は、さすがに歴戦の猛者、斎藤道三である。

 道三の突撃はすさまじく、竹腰道鎮の兵の円陣を真一文字に切り裂いて、逃げる道鎮に追いすがり、その首を上げることに成功した。



「五千の兵が……二千七百の兵に……敗れるだと!?」


 一色義龍は動揺した。

 こんなことは、今川義元の言葉には無い。

 大兵力にてし潰せば、勝てる。

 義元は、そう言った。

 だからこそ、西美濃三人衆をはじめとする、大名小名らを集めた。国人土豪に声をかけた。


「……くそっ、なんだこれは。ちがうぞ。義元どのの言葉に無いッ」


 指の爪を噛む義龍を見て、安藤守就あんどうもりなりあたりは、やはり仕える相手を間違えたか、と思ったぐらいだった。

 だが義龍は改めて義元の言葉を反芻はんすうする。


「……いや、大兵力にてし潰す。これよ、これをまだやり切っておらぬ」


 義龍は軍配を掲げ、全軍を進めるよう命じた。


「全軍、渡河せよ! 五千などと出し惜しみしたのが間違いだった! 全軍をもって、彼奴きゃつを討つ!」


 竹腰道鎮の五千は敗れたが、まだ一万二千余の兵力が控えている。

 義龍は自ら陣頭に立ち、その全軍を渡河させた。

 渡河を終えると、すぐに襲いかかろうとする道三軍を警戒したのか、義龍はひとりの武者を進み出させた。

 武者は叫んだ。


「われこそは一色義龍が臣、長屋甚右衛門ながやじんえもん! の作法により、一騎打ちを所望しょもう!」


「……義龍め、味な真似を」


 道三は「時間稼ぎか」とつぶやき、「それも、今川義元の入れ知恵か」と微苦笑した。

 そして隣に立つ柴田角内に言った。


「角内」


「はっ」


「今、わしの軍でいちの武者はおぬしじゃ。一騎打ちを命ずる」


「安んじてお任せあれ」


 角内が金棒をひとつ振って、馬を進める。


「われこそは柴田角内! 斎藤家いちの武者なり!」


「応!」


 甚右衛門と角内が近づき、一度だけと刀と金棒を軽く打ち合う。


「参る!」


「来い!」


 ……長良川の戦いが、最高潮を迎える。

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