35 国譲り状
語り終えた斎藤道三は、娘の帰蝶の肩を叩き、「すまんな」と言った。
帰蝶は「いえ」と言って、その手をぎゅっと握った。
「それより、父上」
「何だ」
「これから、
道三は少し驚いた顔をした。だが、帰蝶の後ろに控える、明智十兵衛、木綿藤吉、
「……お前たち、だけではない。信長どのが察したか。であれば仕方ないな。そのとおりだ」
「父上、ならばわたしも共に戦います」
「……何を言っているんだ、お前は」
お前の役割は、わしと信長どのの
「戻りませぬ。それは……信長さまの許しを得ております」
「何と」
「それに……今となっては、斎藤の跡継ぎはわたしです。一色義龍にも、認めさせました」
「……そうであったな」
痛快痛快と言って、道三は少し考えて、そして筆を取った。
さらさらと筆が走り、紙の上に「
「わしの
「父上、では」
帰蝶が満面の笑みを浮かべ、道三に抱きつく。
道三は、「利治」と記された紙を帰蝶に渡しながら。
「あっ」
当て身。
帰蝶は失神した。
「ばかものめが。そんな甘いようでは、これからのいくさ、死中に活を求めるいくさには、連れて行けぬわ」
帰蝶の身を横たえると、道三は、立ち上がった可成らに詫びた。
「すまぬ……だがこの道三、娘の親として、やはりいくさには連れて行けぬ」
「…………」
可成らは何も言わなかったが、それでも道三の心情を認めたらしく、抗議することはなかった。
「それと、だ」
道三は太原雪斎と今川義元が美濃に出現したことを告げ、その裏に何か大いなる陰謀がある、と推測を述べた。
「……であれば、今川としては、当然、わしと義龍の揉めごとに介入するであろう信長どのについて、何らの策を施していないわけがない」
その時、判断を共にする帰蝶がいないと、具合が悪かろう。
道三はそう考えて、帰蝶を「強制的に」信長の
「…………」
また、何をか思ったのか、先ほどの「利政」という紙に、何ごとか書きつけると、帰蝶の懐にしまった。
*
道三は蜂須賀小六に命じた。
「帰蝶を織田に。そこな織田の家臣と合力して、必ず届けよ」
「うけたまわって
小六が陣内の
道三が目線で促すと、可成が「御免」と言って、帰蝶を抱え上げた。木綿が馬を連れてくると、可成は帰蝶を抱え上げたまま、馬に乗った。
「そなた……土岐家の臣であった森どのとお見受けする。土岐家の
馬上失礼すると断ってから、可成は答えた。
「このお方は面白い。生きているだけで、周りに元気をくれる。そういうお方を生かすためであり、仇だの何だのは、関わりございませぬ」
「……ありがたし」
道三が可成に一礼すると、懐中から書状を出し、それを木綿に渡した。
「これを信長どのに」
「必ずお渡しいたします」
「頼んだぞ。美濃をくれてやると書いてあるゆえ、失くすなよ」
「えっ」
木綿の仰天した顔に、道三はしてやったりと笑った。
「ははは……同じことを、信長どのと帰蝶にしてやれ。わしの代わりに、な」
道三のうしろで、十兵衛が「冗談きついで」と言って、彼もまた一礼した。
「お別れや、お
十兵衛はすでに、明智城に兵が向けられていることを聞かされていた。
それでも、帰蝶や木綿、可成たちとの別れを惜しみ、場に残っていたのだ。
「ほな、行きや。大殿は泣きそうやさかい、もう行ったれや」
「おい、十兵衛」
「では、御免!」
可成と木綿が改めて頭を下げ、馬首をめぐらす。
すでに馬上の人となっていた小六も頭を下げ、「こちらへ」と先導する。
その後ろ姿を、道三は涙でぼやける視界の中、見送った。
そして顔を拭きながら振り向く。
「十兵衛」
「何や」
十兵衛は愛馬に手仕草で合図して、呼び寄せている最中だった。
「わいのことなら、涙は不要。むしろ泣きたいのは、こっちや」
そんな十兵衛に、道三は一通の書状を渡した。
「何や、その懐に一体いくつ書状を持っとるんや」
「軽口はそこまでにしてくれぬか、雰囲気が出ぬ」
そういう道三も悪い気はしていないらしいが、彼は真面目な顔でつづけた。
「それな、その書状をのう……このいくさが終わったら、京の山崎屋に届けてくれぬか」
「おはるはん、でっか」
「そうよ。老骨の恋文、見るでないぞ」
「誰が! 軽口はそこまで言うたは、そっちやろが!」
「はは……頼んだぞ、では」
道三は別れを告げ、「出陣!」と大音声で叫んで、将兵を起こして回った。
……あとに残された十兵衛は、ふと気づいた。
「……やられた」
書状を京に届けるということは。
このいくさ、死なずに生き残れということ。
道三一流の、十兵衛への願いであった。
*
「
織田信長はほぼ全軍で清州城を
途中、増水した木曽川、飛騨川に悩まされたものの、幸いにも舟を調達できて、どうにか
「兵らも限界のようです」
前田利家、
「ではここにて陣を構える。休め!」
帰蝶が先行して鶴山に向かった。
あの斎藤道三のことだ、信長との挟み撃ちを狙うはずだ。
「だが、帰蝶が間に合ったかどうか……そもそも、いくさに間に合うかどうか……」
その保証はない。
それどころか、一色義龍(この頃には信長も義龍の情報をつかんでいた)に追われているかもしれない。
そして帰蝶が無事、道三の
「もしや義父上は、送り返してくるやもしれんな……
信長の道三の心情への読みは正しかったのだが、惜しむらくはこの瞬間はそれのみを考えていたため、それ以上のことは考えられなかった。
「…………」
いずれにせよ、将兵とそれを支える雑人や牛馬も疲れ切っている。
ここは休息の一手だ。
「何かして、気を
信長は鉄砲の手入れをすることにした。
この時、信長は最新式の鉄砲を揃えており、それをこのいくさに持って来ていた。
それだけ、信長のこのいくさに
先端に来るんだ布切れをつけた棒を手に取り、鉄砲の筒先から、筒の中へ。
だが、その棒がなかなか筒先から入ってくれない。
手が、手が震えているのだ。
「どうなされた、信長さま」
「……
信長麾下の鉄砲隊を率いる将にして、信長の鉄砲の師である。
一巴の妹は平手政秀の妻であり、つまり一巴は政秀の義兄である。
「焦りは禁物ですぞ……と言いたいところですが、焦る自分のほかに、落ち着く自分も持ちなされ」
「落ち着く自分」
「さよう。焦る自分もまた自分であり、落ち着く自分もまた自分。さすれば……おのずと向かうべき道が見えて来ましょう」
「で、あるか……」
師である一巴の言葉に価値を認めるものの、いささか自信無さげな信長に、一巴は微笑んだ。
「大丈夫でござる。ほれ、村木砦のアレ、三段撃ち、アレは見事でござった。アレは村木の砦を早々に落とさんと焦る自分と、しかし確実に落とそうと落ち着く自分が……信長さまの
「……で、あるか」
一度、目を閉じる。
そうだ……。
落ち着く自分がささやく。
筒先だけではなく、その周りも、もっと見てみてはどうか。
目を開ける。
今度は、筒先に棒が入った。
「やった!」
「お見事」
まるで遠当てに成功したかのように喜ぶ信長と、それを真面目に褒め称える一巴。
気がつくと、周りに将兵ら、雑人、牛馬まで集まっていた。
「殿、やりましたな」
「筒っぽにスポンと!」
「牛っこや馬っこも、びっくらこいてらぁ」
単純なことだが、できると嬉しい。
皆、敵地であり、危地であることを知っている。
何よりも信長がそれを自覚していることを知っている。
それゆえに緊張感であり疲労であったが、今、この信長の笑顔で、それが吹き飛んだ瞬間であった。
「……いや待て」
筒先だけではなく、周りも。
美濃だけではなく……。
「尾張も……もしや」
信長は佐々孫介を呼び、南の方を見て参れと命じた。
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