34 追憶
鶴山。
斎藤道三はその夜、何かの予感を感じて眠れなかった。
「年を取ると、どうにも……こういうのがある」
そこで
「
「大殿はその頃、法蓮坊と名乗られていたのでは」
「そうよ、坊主なのに罪なことよ……ところが、もう一人、そいつに惚れたのも坊主だった」
「そうですか」
「そんな顔するな。わしだけが破戒僧ではなかった、と言いたいのではない。いいか、おはるは……そういう女だった。ひたむきに仏道に打ち込む、智者すらをも、
ところがおはる自体は少しも
「……それで、どうされたんですか」
「
「……大殿は?」
「わしか」
道三はそこで照れたような仕草をした。
「わしは……坊主をやめた。
「何と」
「知っておろう……わしが一文銭の穴を通して油を
それから道三はするすると商人として大成し、おはるを
雪斎はおはるについては何も言わなかったが、ただ「それからどうするのだ」とだけ聞いた。
その問いは道三に衝撃を与えた。
おれは、商人になりたかったのか。
それとも……。
道三の中のそれは、
おれは、何者なんだ。
おれは、何になりたいんだ。
おれは……。
「……で、こうして美濃の国主になりおおせたわけですな」
道三の胸中を察したのか、小六は話をまとめた。
道三は「今は国主を追われる身ぞ」と笑った。
恐れ入った
「京におる」
「…………」
「だが、あやつは、わしにとんでもないものを託していった」
「とんでもないものですか」
「ああ。わしはやめろと言ったのだが……それでもいい、わしのためだと言って……だがわしはあの子を……」
聞こえないふりをしよう、寝たふりをしようと小六が思ったその時だった。
「……恐れ入ります! 尾張、織田さまより! 使いが!」
鶴山の陣の門番が甲冑をかちゃかちゃと言わせながら、道三と小六の前で片膝をついた。
「来たか。通せ」
道三は居住まいを正し、小六は脇に下がって控えた。
すると、緋色の甲冑を脱ぎ散らかしながら帰蝶がやって来て、文字通り、道三の胸の中に飛び込んで来た。
「父上! 父上父上! 父上……」
「おいおい……」
まるで童女に戻ったかのように泣きじゃくる帰蝶。
道三は彼らしくもなくおろおろとし、小六は知らぬふりをした。
そうこうするうちに、明智十兵衛、木綿藤吉、森可成も参上し、帰蝶も泣き止んだ。
「父上、まずは一色義龍の動向を」
「……うむ」
帰蝶は冷静に、義龍と遭遇したことと、その地点から推測して、長良川南岸を目指しているらしいと語った。
それを聞いた道三は、ならば長良川北岸に陣を移すと告げた。
「さすれば……尾張より駆けつける織田の信長どのと、挟み撃ちができるのう」
道三は意味ありげにもう一度、挟み撃ち、と言い、そして帰蝶に「義龍と何があった」と聞いた。
「……自分の父は
それから帰蝶は義龍に「お前が一色なら、斎藤は
「やるではないか、帰蝶よ」
「……それと」
帰蝶は一瞬ためらうような表情をしたが、やがて決然として言った。
「義龍はこう言いました。わたしが……父上と商人の女の間の子だ、と」
「…………」
小六が気を
だが道三も帰蝶もそれを謝絶した。
今、ここにいる者たちは生死を共にする者ばかり。
明智十兵衛は薄々知っていた様子らしく、彼らしくもなく無表情であるが、おおむね皆、神妙な表情をしていた。
「……よかろう」
道三はうなずいた。
*
「簡単なことだ。察しておろうが……わしはかつて、京、山崎屋という油商人に入り婿で入っていた。その時は山崎屋庄五郎という名でのう……山崎屋の娘のおはるという女を
「その、おはるさまがわたしの」
「そうじゃ帰蝶、お前の本当の母はおはるよ。明智から来た、わしの正室・小見の方ではない」
おはるは、美濃で国盗りを遂げた道三の
おはるはその子を道三に託した。
道三は「要らぬ」と言った。国主の娘など、政略結婚の道具に過ぎない。不幸になる、と。
おはるは「それでもあなたの子です」と答えた。そばに置いて欲しい、と。
「それが……あなたのためと思って」
おはるはそう語ったという。
結局、道三がおはるを捨てた負い目もあり、小見の方も「女の子が欲しかった」と言ったので、道三は帰蝶を受け入れた。
このことは、小見の方の実家の明智家でも、ごく一部しか知らない秘事であり、道三の側でも、知っているのは「弟」である長井道利ぐらいであろう。
そのうちに道三は、この利発であり気立ての優しい娘の父親となれたことを次第に感謝するようになっていた。
「これが……おはるの言いたかったことか」
それは、乱世の中、権謀術数渦巻く日々に
それでもいつかは嫁に出さなくてはならぬ、それならばせめて良い家柄の家へと思っているところへ、ちょうど織田信秀との戦いに終止符を打ち、信秀の擁する美濃守護・土岐頼純に娘を嫁がせて和睦を結ぶことになった。
「これでいい、これでいいんだと己に言い聞かせた」
同じ美濃国内であり、その美濃では最高の家柄である。そして道三は仮にも美濃の守護代である。
「下にも置かぬ。粗略にはできぬ。これなら……と思っていたら」
土岐頼純は死んだ。婚儀から一年と
当時、道三の謀殺を疑われていたが、実際は、道三は何もしなかった。
そして帰蝶は、頼純から人質として扱われ、ずっと一室に閉じ込められていたと聞いて、うめいた。
「もう……下手に嫁がせるのはやめよう。何だったら、寺にでも入れよう。そう思っていた」
そこへ、平手政秀なる男がやって来た。
政秀がまずおこなったことは、詫びである。
政秀の主・信秀本人が来るべきところであるが、あいにく信秀は合戦の最中であった。
次いで、政秀が言ってきたことは、信秀の嫡男・三郎信長との婚姻話である。
「何を言ってるんだ、こいつは。そう思った」
だが政秀は、自分が手塩にかけて育てた信長なら、帰蝶姫にふさわしいと言い張った。そして、それを頑としてはねのける道三が根負けするぐらい、粘りに粘った。
「……ある時、ふと、その政秀の目を見ると、似ている。おはるの目に、似ている」
こういう目をする人間が、そこまで言うのなら、もう一度だけ、嫁がせてみるか。
そう思った道三は、帰蝶を送り出した。
送り出した先で。
信長と帰蝶の出会いを見て。
「義龍をはじめとして、ろくに子を育てられなかったわしだが……それでも、この子は育てられたんだな、と思った」
それは道三の心の一隅の灯火となり、今日まで彼を支えつづけた。
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