第五章

 女性はびくっと肩を震わせ、こちらを振り向く。涼やかな白のサンダルに、ベージュのタイトスカート。トップスは紺色のパフスリーブで、胸元が大胆に開いている。

「圭吾?」

 寧音は驚いた表情をしていた。茶に染まったポニーテールが風になびく。さくらんぼのヘアゴムは流石に無かったが、ピアノ教室での光景が回帰するかのような感動があった。

「久しぶり。元気にしてた?」

「ええ、まあ。圭吾も元気にしてた?」

「ぼちぼちだよ。何とか社会人やってる感じ。ピアノはもう止めちゃったけどね」

「ああピアノね。私も大学に入ってから一回も触ってないな」

 会話は単なる雑談だったが、この何でもない一秒一秒が幸福そのものだった。

 ただ、再会の感動を味わう圭吾とは裏腹に、寧音はよそよそしい、気まずそうな顔をしている。久々に会って緊張しているのか。しかし、会おうと誘ってきたのは彼女の方だった。

「それにしても、こんなところで会うなんて凄い偶然ね」

 圭吾は耳を疑った。

「偶然だなんて、面白いことを言うね。今日のお昼に駅で待ち合わせしようと言ったのは寧音の方じゃないか」

「え、何それ。そんな約束知らない」

「何言ってるんだよ」

 圭吾はスマホを取り出して、彼女とのやり取りを確認した。しかし、いくら遡っても、彼女から「会おう」と言ったメッセージは見つけられなかった。

 過去が書き換えられている。タイムトラベルの影響だった。過去へ行き、異なる選択を取ったことで、再会の約束は消去された。

 寧音が怪訝そうな顔で見つめている。何か言葉を発しなければ、彼女はどこかへ去ってしまう。

「せっかくあそこにピアノがあるんだし、一曲弾いてくれない? 久々に寧音の演奏が聴きたい」

「いや、さっきも言ったけどさ、ピアノもう辞めたんだよ。全然人前で弾けるレベルじゃないの」

「それでも寧音の演奏が聴きたいんだ。ちょっとだけでも駄目か?」

 圭吾は食い下がった。苦し紛れの言葉だったが、どうにかして彼女を引き留めたかった。

「そんなこと言われても......それに、もう行かないとだし」

 その時、二人きりの世界に三人目の人物が現れた。トイレの方角から男が「寧音」と呼んだ。背の高い男は、美しいランニング・フォームで二人の元へ駆け寄ってくる。

「お待たせ」

「遅かったじゃない」

「悪い悪い。あれ、圭吾いるじゃん。久しぶり」

 圭吾は間近で見てようやく、その男が乙無であると分かった。短髪はセンターパートになり、日焼けした肌はほんのり色白になっている。

「乙無久しぶり。こんなところで会うなんて奇遇だね」

「ほんとびっくりしたよ。これから寧音の実家へ挨拶に行こうと思った矢先に......」

 寧音は乙無の言葉を遮るように「ちょっと」と声を発した。

「えっ圭吾に言ってないの?」

 寧音はこくりと頷いた。下を向いて圭吾と目線を合わせようとしない。

 乙無は咳払いすると、「実は、おれたち結婚するんだ」と言った。

 圭吾は瞠目した。言葉が出ない。比喩ではなく、心臓が一瞬止まったのを感じた。

「高校の頃から付き合ってたんだ。足掛け十年くらいかな」

 寧音と乙無。学生時代から二人が恋愛関係にあるなど考えもしなかった。付き合って十年なので、クラス劇をやっているときにはすでに関係があったことになる。

「そうなんだ、全然知らなかった。へえ、おめでとう。いやあ、めでたい。お似合いの二人だよ。結婚式はいつやるの? 招待してくれよな。そうか、今から親御さんへ挨拶かなんだ。呼び止めて、悪かったよ」

 圭吾は早口で捲し立てた。

 プラットフォームから人々が雪崩れ込んできた。東京駅発の新幹線が到着したのである。彼らは通路の真ん中に立っている三人を避けるようにして歩いていく。

「また連絡するわ」

 乙無は微笑みながら言った。

 圭吾は引きつった顔を浮かべる寧音を見て、彼女が遠くへ行ってしまったことを悟った。恒星と恒星との間。眼前にいるはずの彼女は、いつのまにか無限遠へ離れていた。

 寧音と乙無は改札口へ去っていく。二人は視界から消える直前、手を繋いだ。愛し合う恋人たちのごく自然な所作だった。

 圭吾は呆然と立ち尽くした。時折、改札口へ急ぐサラリーマンの肩にぶつかる。小川に鎮座する巨石のように、彼の存在は人流の妨げだった。

 過去へ行き、彼女のために努力したのはまったくの無意味だった。すべては圭吾の自己満足に過ぎなかった。圭吾は虚ろな目で、周囲を見渡す。これからどこへ行けばよいのか、右も左も分からなかった。

 そのとき、何かが落ちる音が聞こえた。微小な金属音の反響。目を凝らすと、五円玉が雑踏の合間を転がっている。誰かが慌てて落としたのだろうか。五円玉はタイルの床をあてもなく転がり、ストリートピアノの脚に衝突した。

 圭吾は五円玉を拾い上げる。思い返せば、最初のタイムトラベルで拾ったのも五円玉だった。落とし主は現れない。神の悪戯か、彼は導かれようにピアノの椅子へ座った。

 楽譜は、弾けと命じるようにアリアのページを開いている。蓋を上げると、鍵盤の白い滑面が見える。圭吾は息を吸った。

 第一小節、右手の旋律を意識しつつ、左手で低音主題を奏でる。この意義深い、静かな、低音主題こそが、アリアだけではなく、変奏曲全編を貫く、一本の細い線であり、それらを分かち難く結びつける、引力である。変奏曲は、各々が独立した惑星であり、相互に距離を取りながらも、離れ離れになることのない、一つの系を成している。その中心には、アリアという太陽が、光を与えている。第二小節、繰り返される主題を、注意深く捉える。今にも消え入りそうな音形を、演奏者は、救い出さなければならない。が、第三小節、低音部が、手から零れ落ちる。指の関節が硬直して、上手く音を出せない。長年のブランクが、ピアノから逃げてきた報いが、ここにきて表出した。音が崩れ、引力が衰え、星々の光が、失われた。羞恥が、後悔が、諦念が、崩壊が、圭吾の身を支配する。笑い声。稚拙な、ぎこちない演奏を蔑む、嘲りが聞こえた。きっと通行人が、笑っているに違いなかった。嘲笑のスポットライトが、圭吾を逃さない、陰になるのを許さない。笑われるのを恐れて、笑う側の席に、座っていたはずだったのに。やはりピアノなど、弾くべきではなかった......速いテンポを、維持できず、減速して、楽譜を見つめる、そして、あれほど嫌悪していた、譜面通りの演奏を試みた。久しく見ていなかった、音の配列、深遠な対位法。楽譜を通じて、これまでの己自身を、身に巣食う自己犠牲の神話を、見つめ直す。自己犠牲は、単なる自己愛ではないか? ただ自分の理想を、彼女に、投影させていただけではないか? 譜列の間から、二つの陰が、茫然と浮かび上がる。それは健康的な、明朗な、慎ましやかな男女の姿、──寧音と乙無であり、二人は圭吾の前方を、軽やかな様子で、歩いている。走っても、走っても、彼らはまだ、遠い地平線上にいる。仮に、追いついたとしても、追い越したことにはならない。一周も二周も、差をつけられており、同じ空間にいながら、二人は、まったく異なる次元に存在した。圭吾は、まっすぐ走り続ける。遅れを取り戻すために、未来へ向かうために。小手先の裏技は、付け焼き刃の前衛は、どこにも連れていってくれない。彼の全精神は、遠回りの末に、ようやく、人生の真理の一端に触れた。寧音と乙無は、今ゴールテープを切る。二人には、これから祝福が待っている。が、圭吾は、ゴールラインを越えても、まだ走らなければならない。周回遅れのランナーには、まだ道のりが残されていた。彼はもう、脚を止めないつもりだった。"ここ"であって、"ここ"ではないどこかへ続く、長い道程を、乗り越えようとする意志が、芽生えていた。第三十二小節、脆弱な、しかし健気に震える、最後の低音主題を、重なる旋律でもって、抱擁する。いつか訪れる、次のアリアを心待ちにしつつ、残響が消えるまで、彼は目を瞑った。

 パチパチと、まばらな拍手が鳴った。ピアノの前には二、三人ではあるが、聴衆が立っている。彼らは耳を傾けていた。みな笑顔であるが、そこに負の感情はない。拙くとも、精一杯の演奏を祝福しているようだった。

 圭吾は奥にあるベンチを見やった。ロングヘアで、灰色のスラックスパンツを履いた、背の高い女子高生が立っている。彼女は微笑みながら、拍手している。その隣には、よれた白シャツに、傷だらけの革靴を履いた二十代の会社員が、釈然としない様子で、こちらに視線を向けていた。

 時刻は12時35分。腕時計は12時32分を指している。異常は元に戻っていた。無論、三分遅れていることに変わりはなかったが、修理はもう少し先でも良いと彼は思った。

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周回遅れのタイムトラベラー 楠木次郎 @Jiro_2020

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