第四章

 圭吾は教室の机に座っていた。内壁は古く、席数が多いためか中学校より狭苦しく感じる。黒板には「千歳祭ちとせさい」と書かれている。千歳祭とは高校の文化祭である。この日は文化祭当日だった。

「みんな、聞いて!」

 文化祭のクラスTシャツを着た、女子二人が教壇に立っている。一人は、黒縁眼鏡の学級委員長。もう一人、その隣に居たのは寧音だった。セミロングだった髪は、内巻きカールのショートヘアになり、腕と脚はほっそりと痩せている。十七歳になった彼女は、ますます美しく変貌していた。

「クラス劇のお金が無くなっちゃったのよ、五千円。みんな探してくれない?」

 委員長の言葉に、クラスメイトは驚きの声を上げた。

 文化祭では、三年生が演劇を披露するのが毎年の恒例だった。脚本を作り、衣装や小道具を自作する。足りない材料はクラスでお金を集めて購入した。今回紛失したのは集金の余り、打ち上げに使う費用である。集金の管理は寧音が任されていた。

 圭吾は教壇に立つ幼馴染の様子を伺った。表情は暗く、責任を感じているようだった。

「寧音さん、辛そうだね」

 隣の席に座っていた乙無が話しかけてくる。乙無は高校でも同じクラスだった。彼は高校でも陸上部で、五千メートル走で県大会優勝を果たしていた。

「とにかく、劇が始まるまでに見つけなくちゃ」

 委員長の号令を受けて、捜索が始まった。教室はもちろん、廊下や隣の教室、体育館。心当たりのある場所を隈なく探す。

 圭吾は教室を出た。廊下を歩きながら、五千円が落ちていないか目を光らせる。

 記憶が正しければ、五千円は見つからなかった。一部の生徒は寧音に白い目を向けた。彼女は涙を流して何度も謝罪した。紛失事件が尾を引いたのか、劇はぎこちないものとなり、ぐだぐだの三文芝居のまま終劇した。結果は言うまでもない。クラス劇は苦い思い出となった。

 文化祭がどうなろうと圭吾の知ったことではなかった。ただ、寧音の悲しげな顔を見るのは忍びなかった。どうにかして彼女を救いたかった。

 気がつくと彼は音楽室の前に立っていた。流石に無いだろうと思ったが、念には念を、彼は扉を開けた。

 音楽室には最低限の物しかなく、広々としていた。壁は質素な木板で、机も椅子もない。南側にグランドピアノが置かれていて、その傍らに、老眼鏡を掛けた一人の女性が座っている。圭吾はその女性に見覚えがあった。

「登喜江先生」

「あら、圭吾さん。久しぶりね。全然レッスンに来ないものだから、誰だか分からなかったわ」

 穏やかさの中に、刺すような厳しさのある言い回し。腰は一段と曲がり、白髪もすっかり増えていたが、登喜江先生は健在だった。

「お久しぶりです。レッスンには行きたいのですが、受験勉強が忙しくて」

「それもそうね。ピアノばかりしているわけにはいかないもの。あの個性的なゴルトベルクを聴けないのは残念だけれど」

 先生は寂しげに言った。

 受験勉強というのはつまらない言い訳だった。受験が差し迫っていたのは事実だが、本当の理由はそこではない。彼のピアノへの情熱は既に冷めていた。自らに才能がないことをとっくに悟っていた。

「先生はどうして文化祭に?」

 圭吾は当たり障りのない質問をした。

「甥っ子がね、今年入学したのよ。知ってる? あなたと寧音さんの後輩なのだけど」

「いえ、存じ上げません」

「甥っ子の顔を見がてら文化祭に来たの。あわよくば、あなたたちに会えないかなと思ってね」

 先生は皺の目立つ瞼でウィンクをした。六十歳を越えてそんな芸当ができるのだから、若い頃はさぞかし寵愛を受けたに違いなかった。

「そういえば、中学の卒業式では、彼女が伴奏をやったらしいわね」

 先生はふと思い出したかのように言った。

「懐かしい話ですね。僕が彼女に譲ったんです」

「譲った? あらどうして?」

「合唱なんて興味がないからですよ。ピアノの技術も彼女の方が上ですし。彼女に輝いて欲しかったんです。彼女が光になれるなら、陰で構わない。僕はもう演奏者じゃなくて応援する側の人間なんですよ」

 圭吾は正直な気持ちを告白した。先生には嘘は通じない。ありのままを話してしまおうと思った。

「圭吾さんは寧音さんのことが好きなんですね」

 登喜江先生は老獪な目で圭吾を見つめた。

「でもね、その気持ちは彼女には伝わっていないんじゃないかしら」突然、先生の顔から微笑みが消えた。「先生が若い頃にも、圭吾さんのような男の人がいたわ。あなたのためだ、と言って自己犠牲をする人がね。だけど、された側からすれば溜まったものじゃないわ。勝手に犠牲になって、恩を着せられて。少しは私の気持ちを考えてほしいと思ったものよ」

 圭吾は老女の昔話を聞きながら、真顔になった。お説教気質なところも相変わらずだった。

「つまらない話をしてしまったわ。さあ、文化祭を楽しんでください。Time is money. 青春はあっという間ですよ」

 登喜江先生は目を細めて笑った。圭吾は「失礼します」と言って音楽室を出た。

 圭吾は先生の言葉の意味を考えながら、廊下を歩いた。しかし、考えても無駄なことだった。

 犠牲にならずして、どうして好きを伝えられるのか。圭吾は登喜江先生の忠告を棄却した。そして、音楽室にいる間、頭の片隅で膨らませていたアイデアを実行することにした。彼の財布には、ちょうど五千円札が入っている。圭吾は教室へ戻ると、誰にも気づかれないようにそっと寧音の机にお札を忍び込ませた。

 十分後、「お金が見つかった」と寧音の喜ぶ声が聞こえた。クラス中が安堵に包まれる。クラスメイトはこれで劇に集中できると嬉しそうだった。

 圭吾は名乗り出なかった。勝手に恩を着せられるのが迷惑なら、徹底的に陰になるしかない。正解は分からなかったが、彼には他の方法が思いつかなかった。

 やがて劇本番の時間になった。役者陣は衣装に着替えて、舞台へ向かう。圭吾の担当は照明係だった。体育館に照明設備があり、舞台中、役者にスポットライトを浴びせるのが仕事だった。

 圭吾はキャットウォークで、照明の準備を始めた。すると、そこへ寧音が現れた。照明係は圭吾と乙無がやることになっていたので、彼女がここにいるのは不自然だった。

「乙無くんは急遽タイムキーパーになったの」

 寧音はそう言って彼の隣に座った。

 思わぬ幸運に圭吾の胸が高鳴る。その直後、体育館の明かりが落ち、舞台が始まる。二人は急いで照明を構えた。

 劇の内容は、はっきり言って荒唐無稽だった。三組の高校生カップルが夏休みに深夜の学校へ忍び込むというホラーラブコメディで、タイトルは「ミッドナイト・サマー・スクール」。日本語に訳すと「真夜中の夏の学校」。シェイクスピア『夏の夜の夢』の低劣なパロディだった。

「六月に真夏が舞台の劇をやるって変だよな」

 圭吾はぼそっと呟いた。

「そう? 別に変だと思わないけど。みんな一生懸命だし」

「そうだけどさ、照明が熱くてたまらないよ。やっぱり舞台を春にして、文化祭も四月の終わりにした方が良かったよ」

 他愛もない話題だと分かっていたが、彼女の気を引こうと必死だった。

「しょうがないじゃない。文化祭は六月って決まっているんだから」

 寧音はTシャツの袖を捲った。辺りが暗いので、白く細い腕はよく見えなかった。

 役者が舞台に出ると、圭吾は光を浴びせた。時折、主役が舞台から飛び出して観客席の間の通路を駆け抜けるので、照明も動かさなければならない。役者のスピードが速いので、動きに合わせるのが大変だった。

 演技は揃いも揃ってぎこちなかった。セリフは棒読み、声は小さくて聞こえない。何回も噛む脇役もいた。全身全霊で演技しているのが余計に痛々しくて、目も当てられなかった。結局、集金が見つかろうが、三文芝居に変わりはなかった。

「そういえば、登喜江先生が文化祭に来てたよ」

 圭吾は劇の邪魔にならぬよう小声で言った。

「そうなの。私は会えなかったな」

「最近、ピアノ教室行ってる?」

「模試が忙しくて行ってないよ」

「そっか。でも受験が終わったら、行くといいよ。コンクールで結果出してたんだしさ」

「そうね」

 寧音はそっけなく返事をした。会話がなかなか弾まず、圭吾は焦った。無論、彼女に悪意はないと分かっていた。小学生の頃のように、無邪気に二人だけの世界に入りたい。ただ、それだけだった。

「ねえ圭吾」

 寧音が囁くように言う。

「なに?」

「五千円札、私の机に入れたの圭吾でしょ」

「どうしてそう思うの?」

「一人千円ずつお金を集めたから、失くした五千円は千円札が五枚なの。だけど、机には五千円札が入っていた。誰かがそっと立て替えたに違いないの」

 圭吾は己自身を笑った。考えてみればその通りだった。五千円札が出てくるわけがない。十七歳ならまだしも、二十七歳の圭吾が初歩的な誤りを犯したのだから、救いようがなかった。

「でも、それだけじゃ誰がやったかなんて分からないはずだ」

「そんなことするの圭吾しかいないでしょ」

 寧音はふふっと笑った。薄暗くてはっきり見えなかったが、彼女は美しく微笑んでいた。

 そのとき、観客席から拍手が聞こえた。劇はフィナーレを迎えていた。圭吾は慌てて、照明を強く照らした。焦って操作をしたので、最大出力になる。

「きゃっ」

 寧音は眩しさのあまり、圭吾の身体へ倒れ込んだ。彼女の首元から清汗剤の匂いが漂う。心地良いラベンダーの香り。幸福が鼻腔を通って、身体の中へ入ってきた。

 光と多幸感に包まれた。満ち足りた気分の圭吾は、真白に染まった視界の中で意識を失くした。




 目覚めると、駅構内にはまったく人気がなかった。プラットフォームに吹く風の音が、遠くから聞こえてくる。静寂だった。電気時計は正午を指している。発着する列車が一つもない時刻だった。

 圭吾はヒビの入った腕時計を見た。11時50分を指している。腕時計の遅れは、五分から十分に広がっていた。

 ストリートピアノには誰もいなかった。ゴルトベルクを弾いていた大学生はおらず、楽譜だけが開かれたまま残されている。微音しか聞こえない世界で、ピアノは静かに次の奏者を待っているようだった。

 世界が一変している。それも、今までより大きな変化だった。圭吾はこの事態を、"時の神さま"に解説して欲しかった。

 圭吾はベンチの背にもたれ、ぼんやりと周辺を眺める。待てども、スラックスを履いた女子高生は一向に現れなかった。

 他に誰か知り合いがいれば、と思った矢先、一人の女性の姿が見えた。彼女は歩きながらスマホをいじっている。圭吾と同年代くらいの細身の女性。彼はその顔に懐かしさと、つい今まで一緒にいた親しみを同時に感じた。

「寧音!」

 圭吾は大声で彼女を呼び止めた。

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