第三章
「圭吾、起きろって」
少年の低い声が聞こえて、圭吾は目を覚ました。
彼は机の上で寝ていた。前方には黒板があり、室内には三十ほどの机が整然と並べられている。ここは中学の教室だった。
「具合悪いのか?」
眼前には、短髪で陽に焼けた少年が、心配そうな顔をしている。中学三年のときに同じクラスだった
「ううん、ちょっと寝てただけ」
圭吾はわざとらしく欠伸をした。
「次の授業、音楽だから早く行こう」
教室を見渡すと、二人以外に人気はなかった。筆箱と教科書片手に廊下へ出る。
「伴奏、誰になるかな?」
乙無は四階の音楽室へ向かいながら言った。
「伴奏?」
「とぼけてるの? 卒業式でやる合唱だよ。寧音さんと圭吾、どっちが伴奏やるのかで、みんな噂しているよ」
圭吾は「ああ」と気の抜けた声を出した。
結論から言えば、卒業式で伴奏を務めたのは圭吾だった。音楽教師から指名があり、クラス全員の承認を経て彼が選ばれた。
ただ、思春期特有の自意識に目覚めていた圭吾にとって、卒業式の合唱はくだらない戯れ事に過ぎなかった。今まで自堕落に過ごしてきた同級生が、突然掌を返して真剣に歌い、感情的に涙を流す。彼はそのような感動的な光景にしばしば閉口した。
「伴奏なんて面倒だな」
「どうしてさ。一生に一度の中学の卒業式だよ。絶対、思い出に残るよ。おれ圭吾にやってほしいと思ってるし」
「ありがとう」
熱量の高い乙無の口振りに、圭吾は思わず苦笑する。
このとき、圭吾と寧音の序列に変化が起きていた。中学に上がると、彼の演奏はますます独善的になった。スタッカートを効かせに効かせて、暴走する。しばしば楽譜を蔑ろにする"前衛的"な演奏は、審査員から軒並み低評をくらった。圭吾は自由を認めない彼らの無理解を嘆いた。
転落する圭吾とは対照的に、寧音が結果を出し始めた。譜面に忠実で、正確さを心がける彼女の演奏がコンクールで評価された。二人の立場は、いつのまにか逆転していた。
そういった状況下で、圭吾が卒業式の伴奏に選ばれたのは青天の霹靂だった。しかし、伴奏など何の慰めにもならない。むしろ屈辱だった。本番当日、彼は適当に演奏した。雑に弾いても、学校の人間は気づかない。卒業式が終わって、体育館が感動に包まれる中、圭吾だけはシニカルな面持ちで周囲を眺めた。
音楽室に入ると、生徒が二列で並んでおり、音楽教師が指揮台の上に乗っている。
「二人とも、授業が始まってますよ」
女性教師が顔をしかめる。圭吾と乙無は持ち場へ向かった。すると、一人の女子と目が合った。ソプラノ組の前列にいた寧音が、大きな黒い瞳で圭吾を捉えている。背丈は彼と同じくらいに伸び、ポニーテールだった髪型は解かれて、セミロングになっている。子供らしさを残しつつも、外見は着実に乙女へと成長していた。
圭吾は俯いたまま、テノールの位置につく。赤くなった顔を彼女に見られたくなかった。
「では練習を始めますが、その前に伴奏を誰にするか決めようと思います」
教師がそう言うと、クラスメイトはちらちらと互いに視線を送った。圭吾と寧音のどちらが選ばれるのか。
「先生は圭吾くんが適任だと思うのだけど、どうかな?」
クラス全員が圭吾に注目した。寧音は選ばれなかったせいか、表情が暗い。一部の女子は寧音を推していたので不服そうだったが、それ以外の生徒は概ね賛成だった。
このとき、圭吾の脳裏にある妙案が浮かんだ。寧音の好感度を上げ、なおかつ戯れ事をやらずに済む一石二鳥のアイデア。
「先生」
圭吾は迷いなく手を挙げる。
「何でしょうか」
「伴奏は寧音さんが良いと思います」
音楽室がざわついた。生徒たちはみな驚いているが、一番困惑しているのは寧音だった。
「良いんですか? きみだってピアノを弾くのでしょう」
「はい。正直言って、伴奏なんかやる気になれません。僕が好きなのはバッハやモーツァルトです。みんな一つになろう、世界へ羽ばたこうみたいな、子供っぽい曲は全然弾きたくありません。みんなだって、嫌々弾く人間に伴奏を任せたくないでしょう? それに合唱曲なら、僕より寧音さんの方が適任ですよ」
先ほどまでの騒々しさが一転して、教室は静かになった。クラスメイトの冷ややかな視線を感じる。クラスは卒業式に向けて一致団結していた。なのに、この男は熱のこもった雰囲気に水を差した。男子も女子も、ひそひそと圭吾の陰口を言い始めた。
圭吾が悪人になると、相対的に寧音の評価が上昇した。もはや議論の余地はない。
「じゃあ、そういうことなら寧音さん。伴奏をお願いできますか」
寧音は「はい」と頷き、依頼を引き受けた。
伴奏者はものの一分で決まった。寧音はよれよれになった楽譜を開き、ピアノの前に座る。発声が済むと、合唱練習が始まった。
授業が終わり、廊下を歩いていると声を掛けられた。呼んだのは寧音だった。
「圭吾」
「なに?」
「なんで、あんなこと言ったの?」
「別に。さっきも言ったけど、ただやりたくなかっただけさ。卒業式なんて面倒くさいし。それに......」
「それに?」
「寧音、最近調子良いじゃん。この間のコンクールも優勝してたし。おれみたいな伸び代が無い奴より、努力してる寧音の方が相応しいんだよ」
圭吾は気障な口調で言った。本当はもっと上手い言い回しがあるはずだった。誠実でストレートな方法が。しかし、彼には正攻法というものがまるで分からなかった。こういうやり方でしか、彼女に好意を伝えられなかった。
寧音は訝しげにこちらを見つめたまま、黙っている。表情は決して嬉しそうではなく、むしろ曇りがかっている。何か無言の抗議をしているようにさえ映った。
なぜ彼女がそんな顔をするのか、圭吾には皆目検討がつかなかった。何かまずいことを言ってしまったのか。居た堪れなくなり、窓の外へ視線を逃した。校庭では、下級生が持久走のタイム測定をしている。西日がグラウンドに降り注いでおり、長距離を走るのは辛そうだった。
空を見上げると、日光が網膜に差し込んだ。すぐに手で覆ったが、光の速さに追いつくはずもなく、真白に染まった視界の中で、彼の意識は遠のいていった。
視界が正常に回復すると、圭吾は再び駅のベンチに座っていた。寧音が見せた、あの微妙な表情とは何だったのか。結局知れずじまいだった。しかし、圭吾は手応えを感じていた。あらゆる自己犠牲は愛の形式に他ならない。寧音は必ず知る、伴奏を譲ったのはただの謙遜ではなく、好意の表れであると。圭吾は確信していた。
電気時計が目に入る。11時45分。圭吾の腕時計は11時40分を指している。四分遅れだった腕時計は、さらに五分遅れとなっていた。
ピアノの演奏も一段と酷くなった。大学生は楽譜を見ながら弾いているが、一小節に一回はタッチを誤った。運指はもたつき、テンポは常に不安定。アリアがこのざまなので、変奏曲は言わずもがな悲惨そのもの、不協和音の嵐だった。
圭吾は青年が心配だった。体調が悪いのだろうか。そうでなければ、ここまで急速に下手になるわけがない。しかし、彼はいたって健康そうだった。元気よく、一生懸命に演奏している。ただ技量が急速に拙劣になっているだけなのである。通行人もほとんど彼の前で立ち止まらず、わずかに三人四人の奇特な見物客がいるばかりだった。
不思議な現象の連続に小首を傾げていると、例の如く、スラックスの女子高生が隣に座ってきた。自称"時の神さま"は、下手な演奏にも拍手を送った。
「やっぱりおかしいです。あの大学生、どんどん下手になっていますよ」
圭吾は彼女に現象の理由を説明してほしかった。
「そうかな。頑張って弾いていると思うが。一生懸命に演奏する姿は、人の心を打つというものだよ。まあ私は人ではないがな」
少女はとぼけた様子で言った。圭吾には、それがはぐらかしているように聞こえた。
「過去から戻ってくるたびに、変化が起きている感覚がします。タイムトラベルには世界を変える力があるのではないでしょうか」
「やけに嬉しそうだな。まさか、また過去から何か持って帰って来てるのではあるまいね」
「そんなことしてないですよ。僕はただタイムトラベルが凄い能力だと驚いているんです。過去に行き、以前とは別の行動を取り、未来を変える。自らの選択で、別の世界線を創造できる。まさに神の力ですよ」
熱量高く語る圭吾に、彼女は眉を顰めた。
「何か勘違いしてないか?」少女は顔を近づけてきた。「過去に戻るのは、自分自身を見つめ直すためだ。人は時として生きる意味を見失う。毎日ただ働いて家に帰る日々を送っていると、なおさらそう感じる。しかし、人生は時計の針とは違う。ただ同じ場所を行ったり来たりしているわけじゃないんだ。前に進んでいる感覚がなくても、見えてくる景色は少しずつ変わっている。タイムトラベルはそれを肌感覚で知ってもらうためのもので、SF小説のギミックみたいに使うものではないよ」
「分かっていますよ。僕はただ、好きな女の子に振り向いてもらえるように、少しだけ自分の行動を変えただけです。落ちるはずだった五円玉を拾ったり、合唱の伴奏を譲ってあげたり。そんな程度です。決して悪用なんかしていません。ほんのちょっとでいいから、彼女が僕を好きになってくれればと思っているだけです」
圭吾は思いの丈を言った。自分の考えをここまで他人に話したのは初めてだった。
彼女は何も言わなかった。彼の主張に釈然としない様子だった。引っかかる部分があったのだろうが、しばらく考えた後に「好きにするがいいさ」と言い、掌を差し出した。
「あと何回できるんですか?」
「これで最後だ。悔いのないようにな」
最後のタイムトラベル。圭吾は彼女の手に触れた。これで寧音との運命が決まる。目を閉じて過去へ行くのを待つ。拙いピアノの演奏はまだ続いていたが、数秒もしないうちに音は聞こえなくなった。
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