第二章

 圭吾が目を開けると、懐かしい雑然とした光景が広がっていた。茶色いロココ調の本棚と木製枠の姿見。床には古ぼけた楽譜が散らかっていて、ペルシャ絨毯の赤い花模様が隠れている。壁に掛けられているのは、クロード・ロランの『アシスとガラテア』だった。そして部屋の中心には、一台のグランドピアノがまばゆい光沢を放っている。

 ここは圭吾が通っていたピアノ教室だった。大昔にウィーンへ留学していた老婦人が自宅で教室を開いており、生徒はこの一室でレッスンを受ける。圭吾と寧音は彼女の教え子だった。

 圭吾は姿見の前に立った。背が縮んでいて、一五〇センチ程しかない。紺色の短パンに白のポロシャツ。左胸の名札には氏名がマジックで書かれている。紛れもない、小学五年生の彼だった。

 本当に過去へ戻ってきたのか、と圭吾は皺も髭もない顔面をまじまじと見つめていると、ガチャリと扉が開いた。一人の少女が部屋の中へ入ってくる。背丈は圭吾と同じくらいで、チェック柄のフリルのワンピースを身に纏い、ポニーテールの髪をさくらんぼのヘアゴムでまとめている。まだ十一歳の寧音だった。

「圭吾!」

 寧音は圭吾を見つけると、すぐさま駆け寄ってきた。距離感がおかしいのか、鼻先が触れ合う寸前まで近づいてくる。

「そんなに近づくなよ」

「あー圭吾照れてる。かわいいなあ」

 寧音は頬に笑窪を浮かべた。当時の寧音は、何かにつけ圭吾を揶揄った。彼はそんな意地悪く、しかし愛らしく笑う彼女を厄介に思いつつも、好きだった。照れ臭くて言えなかったが、大人になっても彼女と一緒にピアノを弾くのが夢だった。

「ねえ圭吾、いつものあれ聴かせてよ」

 圭吾は彼女に頼まれ、ピアノに座った。足がペダルに届くよう椅子の高さを調整し、鍵盤蓋を上げる。弾くのは『ゴルトベルク変奏曲』だった。

 最初の一音からためらいもなく、圭吾は鍵盤を叩く。何度も練習して暗譜したアリア。他の変奏曲はまだ弾けなかったが、アリアだけは絶対の自信があった。

 寧音は嬉しそうに、ピアノの音色に酔いしれている。圭吾はもっと彼女を喜ばせようと、一層、速いテンポで弾く。十秒を五秒へ、五秒を四秒へ、四秒を三秒へ。時の流れを加速させる。速ければ速いほど心地良かった。

 問題は、圭吾の技術が加速するテンポに追いついていないことだった。ミスタッチをしたり音を飛ばしたり。しまいには弾きやすいからと、譜面を無視して違う音を叩いた。そして、ミスを悟られないように鼻歌で誤魔化した。高速のテンポも鼻歌も、これらすべてグレン・グールドの真似だった。一九五五年の録音を聴いて以来、このカナダ人ピアニストは圭吾のアイドルだった。

 二人きりのコンサートが大詰めを迎えようとしたとき、再び部屋の扉が開いた。

「随分と楽しそうですね」

 圭吾と寧音は驚き、声のした方向を見た。白髪の縮毛に、琥珀色の老眼鏡を掛けた婦人が立っている。彼女がピアノ教室の講師を務める登喜江ときえ先生だった。

「圭吾さん、熱心なのはよろしいですが、自分勝手に弾き過ぎです。全然違う音が聞こえましたよ。もっと楽譜をお読みになって」

「でも、先生前に言ってたじゃん、バッハの楽譜は自由だって。ああしろ、こうしろと弾く人に命令することなんて一つも書いていないって」

「ええ、言いました。でも、楽譜を無視していいとも書いていません。もちろん、グールドの真似をしろともね。あと今日の課題はバッハではなくモーツァルトです。いい加減、課題曲の楽譜を出してくれませんか?」

 圭吾は神妙な顔で引き下がった。

「寧音さんもちゃんと予習してきましたか? 一緒になって遊んでいては駄目ですよ」

「はーい」

 寧音は舌をぺろっと出した。大人に叱られても、反省する素振りを見せない度胸が彼女にはあった。

「二人ともコンクールの成績が良かったから、少し気が抜けていませんか」

 圭吾は直近のコンクールで金賞を取った。銀賞は寧音である。

「Time is money. 一刻も時間を無駄にしてはいけません。大人になってしまうのはあっという間なんですから」

 「Time is money.」は登喜江先生の口癖だった。先生は、基本的に優しく生徒に接するが、叱るときは威厳を持って叱る人だった。

「ではレッスンを始めましょう。圭吾さん、楽譜を開いて」

 登喜江先生は曲がった背中に手を添え、圭吾の側に近づいた。

 この日のレッスンは夜の七時まで行われた。放課後のレッスンは疲れるが、コンクール前は九時や十時、下手をすれば夜半を過ぎるので、それに比べれば七時はまだ浅い時刻だった。

「次の生徒さんがいらっしゃるから、親御さんが来るまで静かに待っていなさいね」

 先生はそう言って廊下の椅子に座らせたが、二人は我慢できずに先生の家を出た。

 初夏なので陽は落ちきっていないが、外は暗かった。圭吾と寧音は門灯の下で親の車を待った。

「ねえ圭吾、明日はなんの日だと思う?」

 寧音は背中で腕を組んで、何かを求めるように言った。いつもの揶揄い上手な様子と違って、しおらしい雰囲気があった。

 圭吾はこの先の展開をはっきりと記憶している。明日は寧音の誕生日だった。彼女はそれに気づいて欲しくて、しかし口には出せず、躊躇していると、財布から五円玉を落としてしまう。五円玉は路面を転がっていき、側溝の隙間へ姿を消す。悲しい表情を浮かべる彼女に圭吾は何も言えないまま、迎えの車が来てしまう。

 圭吾は大人になってから、寧音が誕生日を二人で過ごしたかったのだと気づいた。もう取り返しはつかないが、あのとき彼女が望む言葉を掛けていればと後悔した。

 今まさに、後悔を取り返すチャンスが巡ってきた。何を言うべきかは分かりきっている。しかし、圭吾は言い出せずにいた。この期に及んで、まだ勇気が出なかったのである。意識は二十七歳でも肉体は十一歳のせいか、羞恥心が全身を巡りやすかった。

 そうこうしているうちに、寧音はポケットに手を入れ、薄桃色の財布から小銭を取り出そうとした。

 すると、五円玉が一枚、彼女の手から落ちた。寧音は、あっと声を上げた。チャリンと地面に接触する音が鳴る。小銭はアスファルト舗装の上を勢いよく転がり、側溝へ落ちようとしていた。

 咄嗟に身体が動いた。圭吾の腕は五円玉に向かって伸びてゆく。ヘッドスライディングの要領で、身を投げ出した。

 圭吾は少しの間、立ち上がれなかった。顎と肘をぶつけて、擦りむいている。それでも、痛みを堪えて起きると、手中に収めた五円玉を差し出した。

「五円のために、こんな......」

 こんなことまでする必要ないのに、と寧音は思っただろう。現に圭吾の膝から血が流れている。しかし、傷を負ってでも、たかが五円を助ける理由が彼にはあった。

「明日、寧音の誕生日だろ」

 圭吾は勇気を振り絞って言った。緊張して、声が少しうわずった。

 寧音は最初驚いたが、徐々に事態を理解し、表情が明るくなる。瞳が輝き、視線がまっすぐ向けられる。いつもの揶揄い上手な彼女に戻った。

「ほんと馬鹿。そんなこと言うために、地面にダイブしたの?」

 寧音は覗き込むようにして笑った。

「別にいいだろ。とにかく、おめでとう」

「それは明日うちに来てから言うんだよ、お馬鹿さん」

「え?」

 圭吾は思わず聞き返した。

「明日、お昼に誕生日パーティーやるから、来てよ」

 圭吾は飛び上がりそうな気持ちを抑え、「うん」と返事をした。答えが返ってくると、寧音は嬉しそうに笑った。照明のせいか、彼女の頬は仄かに赤らんで見えた。

 寧音の迎えの車が来た。ワゴン車のライトが二人を照らすと、視界が眩しくなり、何も見えなくなった。




 気がつくと、圭吾は駅のベンチに座っていた。構内を人が行き交い、ストリートピアノの音色が聞こえる。身体は二十七歳に戻っている。彼は自分の服装を確認した。よれた白シャツに、傷だらけの革靴。元の世界へ戻ってきていた。

 右の掌を開くと五円玉があった。どうやら寧音に渡す前に現在の世界へ戻ってきてしまったらしい。あの後、彼女の家へ行ったのだろうか、誕生日をお祝いできたのだろうか。気になって仕方なかったが、確認する術はなかった。

 腕時計は11時33分を指している。つまり、正確な時刻は11時36分──と思って、天井にぶら下がっている電気時計を見ると11時37分だった。四分遅れ。腕時計の故障はさらに酷くなっていた。

「タイムトラベルはいかがだったかな?」

 背後から少女の声が聞こえた。スラックスの女子高生が、勝ち誇ったかのような顔をして立っている。

「正直、驚きました。本当に過去へ戻れるなんて」

「嘘ではなかっただろう? 私は時を操れるのだ」

 彼女は圭吾の隣へ座ると、にこりと微笑んだ。

「目を開けると、昔通っていたピアノ教室にいて、自分の身体は小学五年生に戻っていました。幼馴染の女の子も現れて、とてもノスタルジックでした」

「その女の子というのは、初恋の相手?」

 不意に核心を突かれた圭吾は、戸惑いと照れを隠せなかった。

「その女性を愛しているのだな」

「愛しているなんて、大袈裟なものじゃないです」

「嘘が下手だ。隠したって神さまにはすべてお見通しだぞ」

「時の神さまは嘘も見抜くんですか?」

「愚問だ」少女はそう言い切って、長い脚を組み直した。「良いじゃないか、恋愛。そこにはわずかばかりの至福と途方もない苦しみがある。『最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ』という言葉を知っているかね?」

「知りません」

「ほんの百二十年ほど昔に書かれた小説の一節さ。現代の人々はカビの生えた、時代遅れの書物だと軽視しているようだがな。私は、深い意義を持った言葉だと思っているよ」

 彼女の言葉は何の変哲のない講釈に過ぎなかったが、確信に満ちた眼差しには説得力があった。

 二人の視線は自然と前方のストリートピアノへ向けられる。

 大学生は相変わらず変奏曲を弾いているが、圭吾は違和感を覚えた。テンポが不安定だったり、音の強弱が雑駁になったりしている。過去へ行く前には感じなかった拙さだった。

「あの大学生、少し下手になっていません?」

「そうかな? 相変わらず、素晴らしい演奏に聞こえるが」

 少女はパチパチと拍手をして、青年のピアノを讃えた。確かにミスというミスはなかったが、鼓膜に残った微かな違和感を気のせいだとは思えなかった。

「で、タイムトラベルはどうする。続きをやるのか?」

「やります。やらせてください」

 圭吾は即答した。左手を差し出す。過去をやり直して、寧音との再会を劇的なものにしたい。

「分かった。だが、その前に......」

 少女は圭吾の右手を取った。長い髪が圭吾の鼻先に当たる。仄かにシャンプーの香りが漂った。彼女は掌に隠された五円玉を没収した。

「駄目だろう。過去から物を持って帰ってきては」

「駄目なんですか、何か悪いことが起きるんですか?」

「良いことも悪いことも起きる。現在の世界へ与える影響は不確定だ。だから、そういう行為は避けなければならん」

 現在の世界へ与える影響は不確定。つまり、過去の行動によっては、未来を変えることができる。圭吾の心は昂った。

「では行くぞ」

 少女の手が触れると、圭吾は瞼を閉じて、過去へ想いを馳せた。

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