周回遅れのタイムトラベラー

楠木次郎

第一章

 過去に戻れるなら、彼女との日々をやり直したい。

 四月のある午前、会社の研修を終えた圭吾けいごは、駅の改札付近の通路で一人、ベンチに腰掛けていた。この日の午前は研修だった。圭吾は研修のある日は、必ず半休を取る。そうすれば、研修が午前中に終了しても会社に戻らずに済む。入社四年目、二十七歳の会社員が会得した、社会を生き抜くためのライフハックだった。

 よれた白シャツに、傷だらけの革靴。圭吾はヒビの入った腕時計を見た。時刻は11時17分。つまり、正確には11時20分である。時計の針は通勤途中に躓いて以来、常に三分遅れている。針を操作するつまみも、転んだ衝撃で破損した。時計屋へ行って修理しなければならない。しかし、仕事の合間を縫って予約するのが億劫なので、結局、腕時計は壊れたままだった。

 いずれにせよ、待ち合わせの時刻まで、あと四十分もある。圭吾はサボタージュの愉悦に浸りながら、ゆっくりベンチに背中を預けた。

 待ち合わせの相手は同い年の女性で、寧音ねねといった。同じピアノ教室に通っていたのが縁で仲良くしていた幼馴染である。高校を卒業してからは顔を合わせる機会はなかったが、先月、寧音の方から突然、「久しぶりに会わない?」とスマホにメッセージを寄越した。彼はすぐに快諾した。小学生の頃はお転婆なところがあったが、今は年相応の大人の女性に成熟しているらしかった。

 寧音は初恋の女子だった。もっとも"初恋"という表現は適切ではない。なぜなら、圭吾は今も彼女を愛しているからである。現在進行形で続いている想いを初恋とは呼ばない。そして、彼は彼女以外の同年代の女性とプライベートな会話をしたことがなかった。無論、恋人がいたこともない。精神的にも肉体的にもあの頃のまま、彼女と数年振りの再会を果たそうとしていたのである。

 もっとも、告白したところで勝算はない。ここ数年顔を合わせていない上に、学生時代も友達以上の関係にはならず、恋愛に発展するようなイベントも発生させられなかった。タイムトラベルでもして過去を改変しない限り、恋の成就など不可能だった。

 ふと圭吾は顔を上げた。目線の先には、一台のストリートピアノが見える。ヤマハのグランドピアノで、誰でも弾いてよかったが、ピアノは新幹線の改札を過ぎた場所に設置されているので、新幹線待ちの乗客か、時間を持て余した暇人しか演奏しなかった。

 一人の青年がピアノの前に座っている。サイズの大きなカーゴシャツを着た、いかにも大学生らしい服装の彼は楽譜を広げている。そして、すうっと息を整えると、鍵盤を叩き始めた。『ゴルトベルク変奏曲』である。相当練習してきたのだろう、淀みない指捌きで音を奏でている。青年のアリアを聴きつけて、通行人が足を止める。ちょっとした人だかりができていた。聴衆が増えて気を良くしたのか、青年はピアニスト風に首を前後に振り、一心不乱に演奏した。

 やがてアリアが終わると、通行人たちから小さくない拍手が起こった。圭吾は釈然としない様子で、その光景を眺めた。

 すると、パチパチと拍手が聞こえた。彼の真横に、女子高校生が立っている。背が高く、身長は一七〇センチを優に超えている。紺色のブレザーに赤いネクタイ。下は灰色のスラックスパンツを履いている。電車でよく見かける県立高校の制服だったが、スカートを履かない女子高生を見るのは、初めてだった。

「いやはや、素晴らしい」

 少女はそう言うと、圭吾の隣に座った。

 髪型は腰まで伸びたロングヘアで、眉は細く、目鼻立ちの整った顔をしている。見かけは十代であったが、風格は五十代か六十代のそれだった。彼女はスラックスを纏った長い脚を組み直す。

「実に美しいアリアだ。きみもそうは思わないか?」

 少女は気取った言い回しで、青年のピアノを称えた。声音は十代の少女だったが、老紳士風の物言いには威厳があった。

「はあ、そうですかね」

 圭吾は、女子高生の堂に入った口調に圧倒されたのか、スタイルの良さに気後れしたのか、思わず敬語になってしまう。

「不服そうだな。彼の演奏は完璧に聞こえたが?」

 少女は横目で圭吾を見た。

「ミスはありません。しかし、それだけです」

 圭吾は業務連絡をするように答えた。相手は歳下だったが、一度敬語で話してしまうと、軌道修正するのは難しかった。

 少女は不思議そうに圭吾を見つめている。吸い込まれそうなくらい大きな瞳が「理由は何だ」と問いかけていた。

「譜面通り弾いて素晴らしいのは、当たり前です。バッハなんですから。楽譜を解釈して、自分の個性を加えなければ、ピアニストたり得ません」バッハの話題になると、圭吾は持論を展開せずにはいられなかった。特に、ゴルトベルクには一家言があった。「結局、あの手のピアニストは自分を出すのが怖いんですよ。だから教科書通りの演奏しかできない。今だって、楽譜ばかり見ちゃっている。あんなの全然駄目です。大体、今の子には個性というものが......」

 圭吾は自分が講釈を垂れていることに気づいた。嫌な汗が噴き出る。女性相手だといつも緊張して喋れなかったが、この女子高生の前では不思議とリラックスできた。

「随分と詳しいのだな。もしかして、ピアニスト?」

「違いますよ。僕はただの......」

 ただの社会人です。彼はそう言いかけて、口をつぐんだ。自分は立派な社会人だと言い切るのに、ある種の後ろめたさがあった。

 拍手は止み、次に青年は第一変奏曲を弾き始めた。変奏曲も正確でミスのない、──圭吾に言わせれば「譜面通り」の演奏だった。

「過去に戻りたいと思ったことはないか?」

 唐突に発せられた少女の言葉に、嫌悪感を抱いた。スピリチュアル商法か、新興宗教の勧誘か。いずれにせよ不審人物に違いなかった。美しい女子高生に話しかけられて、舞い上がっていた自分が馬鹿に思えた。

「何かの勧誘なら、お断りします」

「勧誘などではないよ。私は詐欺師ではないからね。これは提案だ。時をかける少女ならぬ、時をかける青年になってみないか、という私からの提案だ」

「きみは一体誰なんだ、何が目的なんだ? 見たところ、高校生のようだけど......」

 圭吾が言い終わらぬうちに、少女は彼の唇に指を当てた。

「口の利き方には気をつけるんだな、青年。私は若く見えるかも知らんが、きみより何倍も歳上だ」どうやら少女は長幼の序を重んじる性格のようだった。「私は何度も時間を遡ってきた。過去へ行った分だけ、きみより経験を重ねているのだ。耳年増ならぬ精神年増というやつで、要するに精神年齢が高いのだ。いまは十八歳の少女の身体を借りているが、バッハの時代からこの世界に存在している。だからきみ、言葉には気をつけたまえ」

 得意げに喋る彼女の姿からは、嘘が感じられなかった。彼女は本気で、タイムトラベルができるのだと確信していた。

「失礼なことを言って、すみません」

「謝罪を受け入れよう。きみはまだ若い。これも経験さ」

 圭吾は納得できなかったが、これ以上言い合っても仕方なかった。

 上下の序列が確定した。少女はコホンと咳払いして、改めて自己紹介を始める。

「私には名前がない。が、強いて言うなら、時の神さまという奴だ。時間を操り、過去へタイムトラベルすることができる。普段はあのピアノに住んで、行き交う人々を観察しているがね」

「あのヤマハのピアノに住んでいるんですか?」

「そうだ。ここ最近はピアノの大量生産も充実してきていて、とても居心地が良い」

 圭吾は下手に反論するのはよした方がいいと判断した。相手が精神に異常をきたしているかもしれない中で、下手に反論して刺激するより、話を合わせて穏便に済ます方が得策だった。

「それで、時の神さまが僕に何の用ですか?」

 彼は慎重に言った。

「今日は素晴らしいゴルトベルクを聴けたので、機嫌が良いのだ。だから、きみを過去へタイムトラベルさせてあげよう」

「どうして僕なんですか? 演奏してたのはあの青年ですよ」

「あの若者は過去に戻りたいなんて思っちゃいない。あれは未来しか見据えていない瞳だ。でも、きみは違う。過去に何か未練があるのだろう?」

 圭吾は黙った。過去に未練はある。寧音との日々をやり直せたら、彼女に自分の想いを気づかせられていたら、彼女との関係を挽回することができたら。きっと今日の待ち合わせは、彼氏と彼女とのデートの約束に変わるに違いない。

 少女は、圭吾の表情を見て答えを察したのか、手を差し伸べた。

「お手を拝借。怖がることはない。私の掌に重ねて、ゆっくり深呼吸をして、目を瞑るだけだ」

 本当に過去へ戻りたかったのか、それともこの風変わりな美少女の、柔らかな掌に触れたかっただけなのか。定かではなかったが、彼は目を閉じて、そっと彼女の手に触れた。すると、ゆっくり意識が遠のいた。薄れゆく意識の中で、変奏曲の残響が耳の奥で響き渡った。

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