私心

シカンタザ(AI使用)

私心

一切の「私心」をなくすということは、言うはたやすいが、実際にそれを行いきることはむずかしい。それは人間に課せられた大きな課題の一つであろう。人間の根源的な欲求にかかわるものであり、しかもそれが個人や集団という単位で解決しなくてはならない問題ばかりである。そのことからも、これらのテーマがいずれも人類にとってきわめて重要なものであることがわかるだろう。しかし、このテーマは、実は、私たちの生活と深くかかわっているものでもあるのだ。たとえば、私たちは毎日のように新聞を読んでいる。そこにはさまざまな情報があふれているが、それらの情報をどのように活用しているだろうか? 多くの人は、テレビやラジオの番組から得たり、あるいは友人などから聞いた話を頭の中で整理したりして、自分の生活に役立てようとしていることと思う。だが、ここで一つ注意しなければならないことがある。それらは結局、自分にとって都合の良いように編集された情報にすぎないということである。もちろん、それでかまわない。いや、むしろそうあるべきなのかもしれない。しかし、それをそのまま鵜呑みにしてよいものかどうか…… 人間は誰だって他人の言うことを全面的に信用するわけではないだろう。特に、自分自身の目と耳で確かめた情報以外について、どれほど信用できるというのか? つまり、「他人を信じる」ということがどういうことであるかをしっかりと認識したうえで行動することが大切なのだ。ところで、私がこれまでに読んできた本の中には、人間の心理状態がどのように変化していくかということについて書かれた本がたくさんあった。その多くは、心理学の理論を応用することによって、人間の性格がどのように変化するかということを解明したものである。しかし、これまた非常に難しい問題で、すぐに結論を出すことはできない。なぜならば、人によって心のありようはさまざまであり、同じ環境のもとで育ったとしても、それぞれに異なるからである。だから、私たちが自分の目と耳で確かめたもの以外はすべて疑ってかかるべきであると考えるべきだ。そして、そのような視点に立って世の中を見てみると、驚くほどたくさんの発見があることに気づくはずである。たとえば、私はかつて「なぜ、こんなにも嘘が多いのか?」というテーマに取り組んだことがあるが、その時に感じたことは次のようなことであった。すなわち、現代社会には、真実よりも虚偽のほうがはるかに多いという事実であった。

例えば、テレビのニュース番組などを見ると、よく殺人事件の報道などがされている。犯人の顔写真が出たりすることもあるが、たいていの場合はモザイクがかけられていて顔がよくわからないようになっている。どうしてそんなふうにしているのかと言えば、おそらく視聴者に対して不愉快な思いをさせないようにとの配慮によるものであろう。確かに、殺人を犯したような凶悪犯の場合であれば、そのような措置をとることも理解できる。しかし、そうでない場合であっても、顔を隠す必要があるとはどうしたことなのか? もちろん、これは人権の問題とかプライバシーの保護などの観点からすれば、当然のことと言えるだろう。だが、私はこのようなやり方に疑問を感じてしまう。というのも、それは「犯罪者にたいする差別的行為ではないか」と思われるからだ。

そもそも犯罪というものは、法律に従って裁かれるべきものである。つまり、そこには「公平性」が求められなければならない。ところが、実際には多くの場合、報道される映像では顔を隠してしまっているため、犯人がどのような人物であるかがわからなくなっている場合が多い。そればかりか、マスコミの報道の仕方によっては、まるで容疑者が凶悪犯であるかのごとく思わせられてしまうこともある。そうなると、人々は犯人のことを勝手に想像してしまい、中には根拠のない誹謗中傷をする者もいる。つまり、犯罪をおかした者は社会的に抹殺されてしまうことになるのだ。

こうした現実を考えると、私はやはりマスコミが流すニュースや記事をそのまま信じてはいけないのではないかと思ってしまう。なぜならば、もし事実と異なる内容の記事を流した場合、それは報道機関としての責任を放棄したことになりかねないからだ。また、犯罪に限らず、交通事故などの事件でもそうだが、被害者やその家族にとっては加害者に対する怒りや恨みといった感情を抱くことは自然なことだといえるだろう。だからこそ、そうした気持ちを抑えきれずに、ついつい感情的に行動してしまうことがあっても不思議ではないはずだ。だが、それにもかかわらず、なぜか警察の発表によると、ほとんどの場合において加害側の言い分が通ってしまうことが多いようである。その理由としては、被害側より加害者側に同情的な見方をしている人々が大勢いるからであろう。それにしても、なぜこれほどまでに違うものなのか? これについては、いくつかの理由が考えられると思うのだが、その一つとして考えられるのが、「情報操作」という手法である。これは、ある特定の人の意見だけをクローズアップして報道することによって、あたかも世論を誘導しているかのように見せる方法である。つまり、世間一般の常識とは異なる見解を持つ人物がいるという印象を植えつけることによって、自分たちの主張が通りやすくしようとしているのだ。

もちろん、この方法によって、自分たちの主張が受け入れられやすくなるというメリットはあるだろう。だが、その一方で、誤った情報を流してしまった場合には大きな責任を負わなければならなくなるというリスクもあるのだ。もしも、間違った情報を流すことにより、多くの人々を不幸に陥れてしまったら、いったい誰がその責任を負うというのか? 残念ながら、この問題について真剣に取り組んでいる人はきわめて少ないようだ。

さて、ここまで述べてきたように、人間の心はさまざまな要因に左右されるものであり、それゆえに、ときには真実よりも虚偽が勝ることもあるだろう。そして、真実と虚偽が入り交じった情報に接することで、私たちの心は大きく揺れ動く。それが何を意味するかというと、人間はときに自分の判断力を失うということである。特に、自分自身が体験していないことについて、どのようにして判断すればよいのか? これについては、まだ十分に解明されていないので、これからさらに研究が進められていくことを期待している。しかし、少なくとも言えることは、人間は常に自分自身の判断基準をもって生きていくべきだということだ。つまり、自分が信じたとおりの行動をとるということであり、決して他人の意見に流されないことである。そして、いったん自分で決めたことに対しては、最後まで責任をとれるだけの覚悟を持つことが必要だろう。

今さらこんなことを言うまでもないかもしれないが、私がこれまでに書いた文章を読んでくれた方の中には、私のことを「嘘つきだ!」と思っている人もいるに違いない。確かに、これまで書いてきた内容はすべて私の主観に基づいているし、私自身が経験したこと以外のことについて書いているわけではない。だからといって、私が嘘をついているとはかぎらないわけで……。

ところで、もしあなたが本当に何かを信じたいと願うならば、ぜひ一度、あなたの目と耳で確かめることをお勧めしたい。そして、その上で、どうしても信じられないと判断した場合は、すぐにその考えを改めるべきである。そうしなければ、いつまで経っても、本当の意味での信頼関係を築くことはできないだろう。

私たち人間は、誰しも他人から尊敬されたいという願望をもっている。しかし、実際に「尊敬される」というのは簡単なことではなく、特に相手が有名人であったりすると、なおさらのことである。そこで、今回は「尊敬される人になるにはどうすればいいか?」について考えてみたいと思う。

まずは自分を磨く。当たり前のことのように聞こえるかもしれないが、意外にも多くの人が「自分磨き」という言葉を聞いても何もしようとしない傾向がある。おそらく、ほとんどの人が「自分には無理」と思って諦めてしまうからであろう。しかし、実はそんなことはない。どんな人でも積極的に挑戦してみる価値のあるものだ。たとえば、スポーツなどはどうだろうか? サッカーや野球などの団体競技の場合は、チームワークが大切だし、個人の能力が勝敗を分けることも少なくない。また、個人技だけで勝負するテニスやゴルフなども、他の人と協力しながらプレイする必要がある。つまり、一人ではできないようなことが、集団で行うことによって可能となるのである。

このように考えると、一見「自分一人の力ではできないこと」の方が多いように見える。ところが、よくよく調べてみると、必ずしもそうとは限らないことに気づくはずだ。例えば、サッカーの日本代表のチームワークの良さは有名だが、彼らは試合前のミーティングで、選手一人ひとりの長所や短所などをきちんと把握した上で、練習メニューを決めているという。また、選手の個々の能力を最大限に引き出すために、監督やコーチ陣が常に気を配っていることも忘れてはならないだろう。

このように、たとえ一人の力では何もできないように見えても、仲間と協力して協力することで、大きな成果を上げることができる場合もある。だからこそ、「自分一人だけではできることに限りがあるけれど、みんなで力を合わせれば、もっと多くのことができるようになる」ということを意識することが大切なのだ。

次に、相手のことを考えて行動する。これもごく普通のことのように思えるかもしれないが、実はなかなか難しいことである。というのも、人はつい自分の都合を優先しがちであり、そのため、相手の立場に立って物事を考えることができないからだ。しかも、多くの場合において、誰かに頼られる立場にある人ほど、その傾向が強くなってしまう。だからこそ、いつも「みんなのため」を考えながら行動できる人でありたいものである。

最後に、人の役に立つ行動を心がける。これは誰もが日常的に行っていることだと思うが、これこそが、尊敬される人になるための第一歩なのだ。なぜなら、他人の役に立てるということは、自分の存在を認めてくれる人がたくさんいるということを意味するからである。

そして、もう一つ重要なことは、人に好かれるためには、まず自分が人から愛されているという事実を認識する必要があるということだ。いくら優れた才能を持っていても、周囲に誰もいなければ意味がない。逆に、どんなに貧しくとも、家族や友人が周りにいれば幸せになれる。つまり、自分の中に存在している「孤独感」という感情に気づくことで、「自分の居場所」を見つけ出せるということである。

以上のような観点から、尊敬される人とそうでない人を分けるものは何か? について考えてみたのだが、これは実にシンプルな答えだった。それは、「周囲の人々に対して誠実であること」である。

たとえば、ある人物が「自分は天才だ!」と思い込んでいるとしよう。そして、彼は自分が優れていると信じているからこそ、他人を見下したり、バカにした態度をとることがしばしばあったとする。このような人物は、周囲から尊敬されることは決してないだろう。しかし、一方で、彼が心の底から「私は偉大な人間だ!」と思っているのであれば、きっと周囲の人々に敬意を払われるはずである。

このように考えると、自分が「凡庸だ」と思っている人も、決して悲観的にならず、むしろ前向きに生きていこうという気持ちになるのではないかと思う。「どうせ、この世に私なんか……」などと、いじけている暇があったら、少しでも努力をしてみようではないか!

「……このレポートを見てどう思う?」

「そうですねぇ、まぁ悪くはないと思いますよ。でも、もう少し工夫をした方がいいんじゃないですかね」

「ふむ、具体的に言うと、どういう点かな?」

「えーっと、例えばですね、こういうふうにしてみるとか……」

「なるほどね……。確かに君の言っているとおりだ。さすがは僕の見込んだ男だけあって、なかなか鋭いじゃないか」

「いえ、それほどでもないですよ。それより、これからもよろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ」

「ありがとうございました」

「うん、じゃあ、また会おう」

ガチャッ

「……」

(まったく、あの人は相変わらず偉そうなんだから)

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