紫陽花

 その日は、梅雨が明けたばかりのはずだったのに、真っ黒な雨雲で低くなった空から、たくさんの針みたいな雨が降っていた。排水溝は流れる泥水でいっぱいで、まだ小さかった私は公園のベンチの下に潜り込んでみた。けれど、隙間から冷たい雨が小さな滝みたいに流れ落ちてきて、私はすぐに、凍えるほどにびしょ濡れになってしまった。


 寒くて寒くて、もうどうしようもなくなって、それでも、最期くらい綺麗なものが見たくなった私は青色の紫陽花の下に行った。そこで、散って破れてしまった花びらと一緒にうずくまって、ないていた。


 どうしてないていたのか、もう昔のことだから思い出せない。怖かったからかもしれないし、母親とはぐれてしまったからかもしれない。

 だけどその時の私にとって、なくことだけが、誰かに想いを伝えるための手段で、そして誰かに、自分がここにいることを伝えるための方法だった。それ以外は知らなかった。

 だから私は、体は震えるのにうまく震えてくれない喉で、それでも必死になって、ないていた。


 雨音が、月曜日の朝の駅のホームみたいにうるさかったから、私のなき声があの人に届いていたとは思わない。それでも、もう動けないほどに凍えてしまった私を見つけてくれた彼は、私に傘と、毛布と、それから温もりをくれた。


「大丈夫?お母さんは?名前は?」

 冷たくなった私の身体に触れて、驚いた表情を見せた彼は、私にそう聞いた。

 私には、力をふり絞って顔を傾けて彼の目を見つめることだけが精一杯で、どうしようもなく言葉を発することはできなかった。


 彼がその大きな手で私を抱き上げたとき、私は男の人のぬくもりというものを初めて知った。春に見た、チューリップの花畑の真ん中にいるみたいだった。

 彼の着ていた仕立てのいいラクダ色のジャケットは、私についていた泥水と紫陽花の花びらで汚れてしまったけれど、彼はそのことを気に留める様子もなく「もう大丈夫」と目を細めて微笑んだ。


 目が覚めると私は、温かいベッドの上にいた。汚れは綺麗さっぱり洗い落とされて、私に掛けられていた毛布からは石鹸の香りがした。

「起きたみたいだね。無事で良かった」

 声のする方を見ると、私を助けてくれた彼がソファに腰かけて、黄色い栞がはみ出た分厚い本を膝の上に置いていた。

 それから、周りには小学生から中学生くらいの彼の子供たち3人と、4匹の猫たちがいて、そのうちの一人と一匹が、傍で私のことを不思議そうに見つめていた。


 その頃の私は、まだどうしても人見知りだったから、彼の元に行くことはできなくて、仕方なく私のことを見つめていた私と同年代くらいの男の子に尋ねた。

「あなたはだれ?」

 男の子はその真ん丸な目で私のことを見つめたまま、小さな口を開く。「僕かい?」

「僕は、このうちの家族だよ」

 かぞく。私は男の子が言ったことを、確かめるように口にした。

「君の家族はどうしたんだい?」

「置いて行かれちゃった」

 私はたどたどしく言った。


 今思えば、「捨てられる」とか、「見離される」みたいな言葉のほうが、私の置かれた状況を上手に説明できていたように思う。

 だけど、まだ小さかった私にとっての一番の恐怖は「置いて行かれる」ということで、それよりも恐ろしいことについて、私には想像する余地が無かった。

 そしてあの人は私を、その想像を超えた恐怖から救ってくれた。 


「置いて行かれる?」男の子は不思議そうに首を傾げた。「それってどういうこと?」

「君は、知らなくていいよ」

 彼がその恐ろしさを考えなくていい場所にいることを、彼がその言葉を知らないことが物語っていた。そしてそれは、あの人とこの家の優しさの証明みたいに、私には思えた。


「ところで」男の子は首を傾げたまま、無邪気な子どもが純粋に疑問を口にするみたいに言う。「君は、いつうちに帰るんだい?」


 呆れた私が、私に帰るうちがないということをどうやって説明するかについて考えていると、私と男の子の頭が大きくてごつごつした手に撫でられた。驚いて見上げると、あの人が優しく微笑んで、私たちを見下ろしている。私たちが何も言えずにいると、彼はそのままどこかへ行ってしまった。

 撫でられた瞬間に彼の手から香った、雨上がりのアサガオみたいな匂いが、彼に抱きかかえられたときの花畑のような温かさを私に思い出させて、離してくれなかった。


「私も、ここにいちゃダメかな?」 

 私は期待を隠さずに男の子に訊いた。優しいうちの優しいあの人の家族であるこの男の子もきっとまた優しいと、私は勘違いしていた。

「何を言ってるんだい?ダメに決まってるじゃないか。だって君は、みすぼらしくてこのうちにふさわしくない。それにほら」彼が手と顎を使って、私にあれを見てと示す。「君のせいで、彼のお気に入りのジャケットが汚れてしまった。彼はあれを着て僕たちと散歩に行くのが一番の楽しみだったんだ」


 窓辺でハンガーにつるされたジャケットが、水を滴らせていた。淡いラクダ色だったそれは、胸のポケットのあたりに茶色いペンキを思い切りぶちまけたみたいに汚れている。あの時、私が綺麗だと思った青い紫陽花の花びらは、色を失って死んでしまった蝶みたいに床に伏していて、四つの欠片だけが淡い青を残して、ジャケットにへばりついていた。


 私は私の手を見た。

 ところどころ皮のめくれてしまったやせ細った指。そこから伸びる長い爪は人を傷つけるには十分鋭くて、そのうちの一本は乱暴に齧り取られてしまったみたいに欠けている。

 男の子が私の目をずっと見つめている。彼の茶色くて綺麗な二つの瞳に、瞼を腫らした私が映っている。

 見捨てられた私は、どうしようもなく醜かった。

 



 それから私は、空いていた窓の隙間から、まだ雨の降っている外へ飛び出して、公園に戻った。

 再び同じ紫陽花の葉に隠れたのは、もう一度あの人に見つけ出して欲しかったからに違いない。

 



 私があの人のうちで暮らし始めてから、1年が経った。そして、彼と生活を共にしているうちに、彼の色々なことについて知るようになった。

 好きな食べ物、好きな色、好きな天気。さらには虫が苦手なことや、箸の持ち方の癖、朝起きたときに真っ先にお風呂に入ること。そして、馬鹿みたいに優しいこと。

 その全てが愛おしかった。気付けば私は、彼にもっと近づきたいと思うようになり、そして彼にもっと愛されたいと欲するようになった。

 それでも私は、一人で生きていけるようになったら、このうちを出て、彼の元を去ろうと決めていた。


「君はふさわしくない」

 男の子が言った言葉が、耳に残って消えてくれない。

 美味しいご飯を食べて、お風呂に入って、私は綺麗になった。爪はあの人に切ってもらった。男の子も、「君は、初めて会った時とは見違えるくらいに美しくなったね」と言ってくれた。

 だけど、どれだけ時間が経っても、あの人の前で背筋をまっすぐに伸ばして凛と立ってみても、私は醜いのかもしれないという疑念は、晴れることがなかった。

 だから私は、彼に触れることができなかった。もう一度、あのジャケットを汚してしまうかもしれないと考えると、たまらなく怖くなった。


 ついにこのうちを出ていくことに決めた日。その日も、あの時と同じ雨だった。それでも成長した私にとって、雨が降っていることはそれほど問題ではなかった。それよりも、あの人の元を去ることのほうが辛かった。心が痛いとしか言いようがない苦しみを、私は初めて味わった。


 窓の傍に立って外を見ていると、男の子のお姉さんに話しかけられた。外には紫の紫陽花が咲いていて、お姉さんはそれを見て「綺麗ね」と言った。

「そうですかね」

 私はあれ以来、紫陽花のことが好きになれない。

「あなた、もしかしてこのうちから元居た場所に戻ろうとしていない?」

「どうして分かったんですか?」私は、それを素直に認めた。

「あなたの目を見ていれば分かるわ」私を見つめるお姉さんの瞳はオレンジ色に透き通っている。「どうして出ていくの?」

「私は、きっとこの場所にふさわしくないんです。優しいこの家は、私には温かすぎる」

 窓越しに雨の音がくぐもって聞こえる。あの人に出会う前から、ずっと私は冷たい外で生きていた。


「ねぇ、ふさわしいとかふさわしくないとかって、誰が決めたのよ?もしかして、あなた、あの人があなたのことをどう思っているかも知らずに、ここを去ろうとしていないわよね」お姉さんは私と窓の間に立った。「恩を仇で返すって、そういうことよ」。

「あの人にとって、あなたがふさわしいかふさわしくないかを決めていいのは、あなたでも、あなたの周りでもない。それを決めていいのはあの人だけなの」

「ねぇ聞いて」お姉さんは私に顔を近づける。

「別にあなたがこの家から出て行こうが、私の弟があなたのことをどう思っていようが、私にはどうでもいい。でもあなたが出て行ったせいであの人が少しでも傷つくのなら、私はあなたを許せない」




「それから――」

 不意に、おばあちゃんが話すのを止めた。彼女の視線の先に目を向けると、おじいちゃんがいた。手足をやせ細らせて今にでも折れてしまいそうだ。おじいちゃんはその茶色の瞳で私たちを見つめながら、首を傾げた。

「なんの話をしていたんだい?」

「昔の話よ」おばあちゃんが答える。「私がこの家に来た時の話」

「懐かしいな。あの頃は僕たちも若かった」

「この子に、あの頃のあなたはとてもイジワルだったって教えてたの」

 おばあちゃんが喉を鳴らして、冗談を言ったあとの子供みたいに笑う。

「勘弁してくれないか、ヨヒラ」ヨヒラ、とはおばあちゃんの名前だ。「あの頃は僕もまだ子供だったんだ。それに野良のことをよく知らなかった」

「嘘よ。あなたが春のチューリップの花畑みたいに温かくて優しいのは、私が一番よく知っている」

 そうおばあちゃんに言われたおじいちゃんは照れを隠すように、顔をなめて洗った。

「それで、なんの話をしていたんだい」

「女の子だけの話よ。内緒の話なの」

 おばあちゃんがそう言うと、おじいちゃんは「なるほど」と背を向けてどこかへ行った。

「それからどうなったの?」

 話の続きを聞きたくてうずうずしていた私は、おじいちゃんの姿が見えなくなるとすぐにおばあちゃんを急かした。




 それから私は、あの人の元に行った。彼の膝の上に座って、彼の瞳を見つめた。

「君から僕の所へ来てくれるのは、初めてだね」

 彼は読んでいた本を閉じて、私の頭を撫でる。アサガオの匂い。私の喉がクゥンと鳴った。

「君がここに来た時も、こんな風に雨が降っていた」

 彼は窓の外を見て、何かを思い出すように目を細めた。

「雨が降ると、君がどこかへ行ってしまいそうな気がして、心配になるんだ。あの日君が消えたとき、僕はもしかしたら君に嫌われてしまったのかもしれないって怖くなった。ほんとうは君は僕の助けなんて必要としていなくて、一人で生きたいと思っているのかもしれないって。この年になっても僕は拒絶されるのが一番怖いんだ。だから消えた君を探しに行くには、勇気が必要だった」

 どこへも行かないよ。そう彼に伝えたいのに、言葉を持たない私は、どうしようもなく鳴くことしかできない。


「それでも、もう一度君を探しに行ったのは、紫陽花の下で僕を見つめた君の青い瞳がとても綺麗だったからなんだ。瞳が綺麗じゃない猫なんてどこにもいないけど、君の瞳は特別綺麗だった」

 私は、ずっとこの人の言葉が羨ましかった。こんな風に誰かにぬくもりを伝えられる彼の言葉が、一番愛しかった。

「君を抱いたあとにジャケットについた紫陽花の青い4つの花びらが、まるで君の瞳みたいに綺麗だったのを、今でも思い出すんだ。だから僕は、君に四片ヨヒラと名付けた」

 私は、勇気を出して彼に触れて良かったと、心から思う。このままここを去っていれば、私は、私自身すらも、きっと愛することができなかった。


 私は彼に、ありがとうを伝えたい。だけど言葉を持たない私たちは、それを人に伝える術を持たない。涙を流すこともできない。それでも、言葉をもたないからこそ、伝えられるものだって、あってもいいじゃないか。

 私は彼の肩にそっと飛び乗って、自分の頬で彼の首筋を優しく撫でた。ずっと、この雨が止むまで、撫で続けた。


「大事なのは後悔をしないことなの」おばあちゃんは言った。

「もしあの時、あの人の言葉を聞くこともせずに、このうちを去ってしまっていたら。私はとても大きな後悔をしていた。それから、ずっと自分のことを好きになれないままでいて、心の中から消えてくれないあの人の温もりにずっと、想いを募らせていた」

 紫陽花みたいに綺麗なおばあちゃんの青い瞳を私は見つめている。

「後悔しなければ、きっと何年か経った後で、こんな風に、あんなこともあったよって笑い合えるようになる。だから私は、あなたに後悔だけは一番して欲しくない」

「ねぇおばあちゃん」私はおばあちゃんに訊く。「ありがとうってどう伝えればいいの?」

「こうするの――」

 おばあちゃんは微笑んで私に体を寄せた後、ゆっくりと、だけど強く、優しく、頬ずりした。おばあちゃんからはいつも、雨が上がった後の陽だまりみたいな匂いがして、私はそれが大好きだった。

「ほら、行っておいで」

 しばらくして頬ずりを終えたあと、私はおばあちゃんに促されて走り出す。

 あの人のところに行って、伝えたいことがたくさんあった。

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ヨヒラ 咲原 百花 @chinhaposai

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